6 夜のとばり

「詠唱なんて適当でいいんだよ」


「え?」


 野原の上に疲れ果てて座る俺に向け、師匠はそんな言葉をかけてきた。


 低身長であるため威厳なんて微塵もないが、師匠を名乗るだけあって実力は確かな人だ。


 一ヶ月前に俺の魔法や剣の先導者になり、まだ間もない。


 師匠は、よく分からない。


 ギルドマスターから紹介を受け、短い成り行きだけで今に至っている。

 素性は一切不明であり、分かっているのは女性である事と強い事だけだ。


「ねえユート、魔法において大切な事って何だと思う?」


「……大切な事? 威力と精度……あと経験ですかね、熟練度。

 詠唱を唱えて照準を定めて、魔力の循環を上手くできれば完璧と、本に書いてありました」


「そう、その通り。ちゃんと勉強はしているね」


 師匠は微笑んで俺を軽く褒めてくれた。

 そして俺の横に座り込み、空を見上げて話を続ける。


「その通りではあるけど……君は詠唱というものが必要不可欠だと考えているよね?」


「え? はい、というか詠唱がなければ術式が安定しませんよね?」


 何を伝えたいのかがまだ分からない。

 師匠は背を伸ばして寝転がり、あくびをした。


 そういえば、この人は今何歳なんだ? 

 幼い外見こそしているが、流石に成人はしているだろうか……。


「詠唱っていうのは実は飾りなんだ。魔法という繊細な式を制御するために使われるけど、それほど大切っていうわけでもない」


 師匠は空に向かって手を伸ばし、急に魔力を流し始めた。

 それは徐々に姿を変え、形あるものへと空気中に放出される。


「我が下に集いし猛る灯火よ、

 その威をもって地を焼き払え、『ブレイズ』」


 中級の炎魔法は雲一つない青空に向かっていく。

 一つの光は爆音を立てたのち、散った。


「これが一般的な詠唱だね。

 じゃあ今度は、“無詠唱”でやってみよう。……『ブレイズ』」


 もう一度、次は詠唱を破棄して魔法を唱えた。


 それでは術式が安定せず、誤爆してしまうのではと思ったが、多少威力が減少しただけで無事に打ち上げられた。


「ね? 詠唱はいらない方がいい。ちょっと出力が落ちるだけで、使う分には問題ないわけだ」


「……しれっと無詠唱を」


 そもそも詠唱破棄で魔法を出す時点で普通じゃないのだが、結局何が言いたいんだろう。

 まさか、俺に無詠唱を覚えろとか無茶振りを……?


「相手よりも速く繰り出すのが大事なんだよ。

 長々と時間を無駄にするのはスマートじゃないし、すぐにボコボコにされちゃうよ」


 師匠は身軽に体を起こし、王都の方を眺める。

 門が開き、商人の馬車が中へ入っていくのが目立って見える。


「ユートは特別だけど、の魔法は隙が大きいからね。今からでも無詠唱を習得した方がいい、長生きもできるし得なんだから」


「何年後になるんでしょうね」


「私は五年くらいかかったけど、ユートには先生がいるでしょう? 経験者から見て盗む、これを心がけるように!」


 ……俺が魔法学園から退学した事を、あの巨漢はちゃんと伝えてあるのだろうか。


 無詠唱を難なく扱える者なんてそういない。

 確かに使えれば便利だが、それは天才と言われる奴らだけだ。

 俺だと……十年くらいはかかるかもしれない。


「意味が、あるんですか? 別に魔法が撃てるならそれでいいのでは……」


「そうかなあ?」


 面倒臭さと劣等感が上乗せされたのか、俺が使えるようになる未来が遠く感じてしまう。

 いや、実現するのかも不可能ではないだろうか。


 そんな自信のない俺を見て、師匠は困ったような笑みを浮かべた。


「強い魔法を十秒で放つより、普通の魔法を一秒かからず、それも何発も放つ方がさ……勝るとは思わない?」




□□□□




 俺は炎で視界が埋め尽くされる中で、そんな思い出を頭の中で瞬時に描いていた。


 思い出といっても、そんなに遠いものではない。

 魔法を本格的に知る学生から成り下がってすぐの頃だったと思う。


「『マナ・プロテクト』……!」


 師匠から学んだ無詠唱による魔法の即時発動。

 俺が無理矢理にでも短期間で習得した、努力の結晶だ。


 それが功を成したのか、防御魔法は一秒もかからずに展開することができた。


 初級中の初級、誰でも覚えられる護身の魔法である防御魔法。

 俺は炎が直撃する寸前、それを何重にもして盾にした。


 俺の微弱な魔力では、たった数秒程度しか保たない。

 だが魔法は十分すぎる役割を果たしてくれている。

 熱さは伝わらず、炎は俺の正面に現れた防御魔法に弾かれる。


「……血抜きは先にしておくべきだったかしら?」


 クイーンの余裕のある声が聞こえてきた、俺を獲物としか見ていない証拠だな。

 炎の僅かな隙間から黒い翼がちらちらと覗かせる。


 弱者と認識した上での油断、それが俺にとっての勝ち筋だ。


「――今だッ!」


 俺は叫んで喝を入れ、地を蹴った。

 草の焼ける臭いが鼻を刺激するが、気にしている暇はない。

 炎魔法が起こした黒い煙の中に紛れ、姿勢を低くしてクイーンの目の前に躍り出る。


「なん――」


 正面突破をしてくるという考えはなかったようで、クイーンは予想外といった驚愕の表情になる。


 クイーンの急所である心臓目掛けて、貫かんばかりの力を込めて剣を突く。

 刃は猛煙をかき分け、雨粒を潰して一直線に前進する。


 だが剣は目標へ到達する前に動きを止めた。

 クイーンが刃を直で掴み取り、進行を阻んでいるのだ。


「こんな小物の攻撃が当たると、でも……!?」


 するとすぐに、まるで火傷でもしたかのように剣を手離した。

 肉の焼けるような音が大きく痛々しい様子を表している。


 そんなあからさまな隙を見せてくれた彼女に、俺はさらなる追い討ちのプレゼントをお見舞いする。


 剣を逆手に持ち、体をひねって斜めに急降下させた。

 風を裂き、無防備に晒す黒ドレスに傷をつける。


「止めなさいッ!」


「ぐっ……」


 そのお返しといった形で、高速の拳が飛んできた。

 剣を体の前に出してなんとかその衝撃を緩和し、俺は距離を取って深呼吸をする。


 クイーンは先ほどとは異なる、怒りの感情を露わにしていた。

 笑みはどこかへ消え去り、今あるのは俺に対しての殺意のみだった。


「熱い熱い熱いッ! 

 この気持ちの悪い灼ける感覚は……まさか、聖剣? 私は上位種クイーンなのよ、そんな不恰好のなりで……!」


 このショートソードは師匠からもらったものだ。

 わざわざ金を取らされたが、それだけの価値は十分にあった。


 どうやらこの剣の刃は特殊な金属でできており、魔物相手に強い特攻を与えるらしい。

 装飾は雑だが、刃そのものはよく精錬された一品だ。

 そのせいで俺の生活費がごっそり削られたのはいい思い出である。


「血なんて今はもうどうでもいいわ! 後でダーリンから分けてもらう事にして、まずはあなたをぐしゃぐしゃの醜い姿に変えてあげる、ええ、そうしないと私の気が済まないわッ!」


 大変お気に召さなかったのか、怒り狂いながら雨に濡れた翼で羽ばたいた。


 猛スピードで俺を目掛けて低空飛行し、獲物を狩る鷹の如く俺の首を掴んだ。

 恐ろしい力が込められており、容易に振り解く事は不可能だった。


「ぐあっ!」


「ドレスにまでこんな傷をつけてくれて、どれだけ私にストレスを渡してくれるつもりなのかしらね」


 クイーンは俺をがっしりと捕まえたまま、雲の近い場所まで連れて行く。


 高く高く飛び上がる。

 凍える風が体を突き抜けていき、気が付けばそこは遥か上空だった。


 首を掴まれているため呼吸が困難になってくる。

 いよいよ許容範囲のラインを越え、死が迫る。


「クソ……離……!」


「あら? いいわよ、離してあげるわ。

 そうすれば、あなたはこのまま真っ逆さまだものね!」


 クイーンは俺の要望に応え、ふと力を弱めた。


 浮いている感覚が急激に増幅され、重力が容赦なく俺の体へと乗りかかってきた。


 まずい、本当にこれはどうしようもない。


 こんな高さからのスカイダイブを決めた経験なんてあるわけがない。

 このままでは大地に血を散らして、命を捨てる大惨事だ。


「――はあっ、ああっ」


 抵抗虚しく俺は落ちていく。

 剣柄を強く握り、今すぐにでもこの状況を打開しようと頭をフル回転させるが、まもなく地上である。


 そんな絶体絶命の真っ最中だが、突如として俺の目に入ってきたものがあった。



 ――三日月だ。



 いつの間にか晴れていたのか、雨は止み、曇り空は徐々に薄く消え始めている。

 クイーンの魔法の精度が落ちているのかもしれない。


 神秘的な月光を放つ。

 村全体を偽りの闇から上書きするように、真なる夜がようやっと訪れる。


 それを見た俺は、今まさに自分が死ぬかもしれないなどという現実を信じられなくなっていた。


 なぜなら、俺の中にあるものが夜のとばりを認識したからである。


「……ああ、やっとか。今日も……生きられる」


 地面まで、残り僅かといったところだった。


 夜勤だと警報を鳴らされた俺は、冒険者として動き始める。

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