曇り空はとうとう泣き出して、大粒の雨を、まるで弾丸のように降らしていました。

 それは人生で一番大切だった何かを失って、全身が崩れ落ちるほどに絶叫する人間、そのものでした。


「いるんだろッ、おい、出てこいッ、なぁ、返事しろッ」


 波部は気が狂ったまま叫びました。小さなビジネス街から脱出し、社会に生きる人間としての理性やら何やらが吹っ飛んだ状態でただただ逃げ続けた結果、ついにはこの鬱蒼とした森にまで足を踏み入れたのです。


「おい、聞こえてるんだろ、出てこいッ、だんまり決め込んでじゃねぇぞ」


 大雨でびしょ濡れの身体を揺らして、波部はひたすら叫びました。

 鬱蒼と生い茂っている植物は、物凄く成分の濃い猛毒に犯されたように真っ黒で、不気味なほどに密集した木の数々は、背が異様に高い亡霊のように黙って突っ立っています。

 今やそのすべては、何もかも失った大粒の涙によって生まれた分厚いベールに覆われていました。


「おおい、頼む、出てきてくれ、おれを見捨てないでくれ、頼むから、何でもするから出てきてくれえ」

「無様」

「あっ……」


 波部はいつしか這いつくばっていた身を起こして、後ろを振り返りました。

 そこには、紫色の煙がゆらゆらと、まるで森に迷い込んだ人間を嘲笑うように漂っていました。


「無様なナリになったな――〝捨てた男〟よ」


 煙の奥から、雨を喰らい尽くすほど真っ黒な人影が、のっそりと現れました。


「あんた……よかった、やっぱいたんだな、あんたに頼みがあるんだ。今すぐやって欲しい」

「まったく同じ言葉で、何を頼むという」

「記憶を消してくれたことには感謝するよ、確かに消えてた、でもやりすぎ、、、、だ……おれのミスの記憶だけでよかったんだ、得意先の記憶まで消してどうする」

「私は、オマエの依頼をこなしたまで」


 真っ黒な人影は、淡々とこう言いました。


「記憶とはそれぞれ、単一では存在できぬものだ。いちの記憶には、一を遥かに凌駕する、何倍、何十倍もの情報が紐付き、密に繋がっている。紐付けされた情報の中には、一見すると関係がない別種類の物事だとて含まれる。時には幼少の昔にまつわる懐かしい思い出や、そこで学んだ事さえも……種々雑多のあらゆる物事が繋がり合って、初めて記憶は完成する。記憶を、、、消す、、というのは、、、、、それら、、、すべてを、、、、消す、、という事だ、、、、、


 雨のベールに紫色の煙を滑らせて、真っ黒な人影は、波部の周りを大きく、ゆっくりと歩きました。ざあざあと弾丸のような雨粒が降りしきっており、何もかもが霞んで見えなくなっている中で、その黒い人影だけは、まるで別の世界からやってきたようにくっきりと存在していました。


「オマエの言う‘ミスの記憶’にも様々な情報が結びついていた。その一つに、ミスをされた得意先についての情報も含まれていた。オマエはその記憶を、私に消せと依頼した。だから私はそれを消し去り――すべて消えた。それだけの事」

「ふざけんなッ、なんで最初に言わなかった、それがわかっていればこんなことには」

「聞かれれば答えたさ。記憶を消すデメリットも知りたがらない奴に、わざわざ教える世話はしない」


 波部は、黒い人影に向かって吠えました。

 その声は怒鳴った本人が嫌になるほど、みっともなく震えていました。


「理不尽だ、こんなの理不尽だ、こんなッ……こんなことおれは望んでなかった、おれはただ、ただ……やり直したかっただけなんだ」

「やり直す? ――人類において最も難しい事だ。安易で生半可な気持ちでは決して成し遂げられぬ事だ。それを簡単だと勝手に侮り、調子に乗れば乗るほど、いずれ……身を滅ぼすほどの見返りに痛めつけられ大失敗を犯す。今のオマエのように」

「ウゥ、ッ……消した記憶は元に戻せないのか? どうやって消したかは知らないがあんたならもう一度戻せるんじゃないのか? 名刺がいるんなら言え、ポケットにまだ――」

「私は、最初に言った。記憶とは生命いのちである、と」


 黒い人影は一瞬だけ、眼を見せました。

 おびただしい鮮血にそっくりな、真っ赤に血走った眼球を――。


「死んで蘇る生命など存在しない!!」


 ゴォッ、と、その場にあった何もかもを吹き飛ばす暴風が通りました。

 波部はその衝撃にあおられ、いとも容易く、地に崩れ落ちました。


「オマエは自らの失態を自らで払拭しようとしなかった。絵も知らぬ噂話に飛びつき、初対面の赤の他人にすべてを一任した。そうすることで簡単にやり直せると思いついた」

「やめてくれ、うそだ、どうか見捨てないでくれ」

「正直に言ってしまうと……オマエが一度、私への依頼を打ち消し、あの指輪を守ったのを見て、少しは期待した。――だがどうだ、結局は他と一緒だった」

「指輪? 何の話だよ……」

「あァ気にするな。どうせ忘れている」


 黒い人影は、波部の目の前に立っていました。とてつもなく近いのに、その顔や着ている服まで、頭のてっぺんからつま先にかけて真っ黒で、何も見えません。

 波部は全身が消し飛ぶほどの恐怖に見舞われて、悲鳴を上げるよりも先に、とにかく必死に後ずさりました。

 そして――本当に全身が消し飛んだのでした。




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