結局その日は、何の事件が起こることもなく終わりました。

 波部は藤田の仕事をいくらか手伝ったあと、夜の七時頃に笑顔で見送られて、帰路につきました。

 いつものように数分遅れてきたバスに乗り込み、一番前の一段高い席にどっかりと腰掛けて、ふう、と息をつきます。これまでにないほど清々しい風に心がくすぐられるのを感じながら、波部は次々とすれ違う人や車の往来を上から眺めていました。


 ――噂は本当だったんだ。


 波部は、あの紫色の煙に包まれた不気味な面影や交わした会話のあれこれを、ふと思い返しました。

 人の記憶を消してくれる男――SNSで定期的なトレンドとして上がるその都市伝説は、話題になる回数が増えれば増えるほど、多くの人々の関心を引き寄せました。

 そんな人が本当にいるのかとか、ただのくだらない作り話だとか、もしいるなら記憶を消してもらいたいとか、実際にその男に会ったことがあるとか……今や定期的に人々を楽しませるエンタメ記事のような扱いにさえなっているのです。

 波部は、その話題に集まる多くの人々の意見を観ながら、それは違う、実際はこうだ、わかってないなあ、などと、心の中であーだこーだとケチをつけて楽しみました。

 真実、、知って、、、いる者、、、としてはやはり、こういった優越感の一種を抱いてしまうのに相違ないのでしょう。この筆者とてそうなのですから。

 SNSでの「わかってない」意見を見ていくうち、終いには一人でニヤニヤほくそ笑んでいるのです。


 ――あぁ、マスク付けといてよかった。


 波部は、中村所長に言われて仕方なく付けたマスクの鼻先をさわりました。昨日まで、、、、一切、、聞かなかった、、、、、、未知の、、、ウイルス、、、、には気味悪さを覚えましたが、風邪やインフルエンザみたいなもんかと勝手に安心して、その後自宅に着くまでSNSを眺めていたのです。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る