自宅からのバスを一時間ほど乗ったところに、波部の勤め先はあります。

 バス停より徒歩三分の道を、波部はなんだかぎくしゃくした足取りで歩きました。九月になってもまだまだ太陽は元気いっぱいで、気合いの入った陽射しによりすべてのアスファルトが煮えたぎっていました。


 ――暑すぎるだろ。真夏より酷い……。


 波部はハンカチを取り出す気にもなれず、とめどなく滴り落ちる汗を袖で拭いました。昨日までとはぜんぜん違う猛烈な暑さ。ひい、ひい、と音を上げながら、波部はようやく会社のビルまで辿り着きました。

 エントランスに入った瞬間、まるで救いの女神が抱きついてきたかのように、とても清々しい冷気をからだいっぱいに受けました。波部は一瞬で天国に来たような気分になりました。


「外、暑かったろ。こんな時期はマスクするのも辛いよな」


 冷気をとことん味わっていると、前方から野太い声が飛んできました。半袖のワイシャツを着た小太りの男性がいます。


「中村所長、おはようございます」


 波部はおっかなびっくり挨拶をしました。


「遠いところからいつもご苦労さん。毎日大変だろ?」

「いえ、もう慣れてるので……」

「そうか? さすが若いのは良いな! まぁ水分補給しながらゆっくり来いよ。うちの期待のルーキーが熱中症で倒れたら困るからな」


 中村所長は、そう言って笑いました。不織布のマスクがあるせいでくぐもっていましたが、エントランスにちょっと響き渡るくらいに豪快な声でした。


「そうだ、十分に涼んだらマスクしろよ? 感染者数も日に日に爆発してるからな」

「感染者数って?」

FANSOファンゾだよ。最近うちのビルで三人も出たんだから。いよいよ身近に迫って来たよな~。お前も気をつけろよ」

「……ファンゾ、って?」


 中村所長は一瞬笑顔を消して、ハンカチで首を拭いている波部を見ました。

 しかしまたすぐにエントランスに響き渡るほどの声で笑って、


「あまりの暑さに脳がやられたか! 顔洗ってしゃんと仕切り直してこい。勤務開始までまだ時間あるから」

「は、はぁ」

「じゃあな、オフィスで!」


 中村所長はちょうど開いたエレベーターに乗り込み、行ってしまいました。

 灰色のエントランスが、しんと静まり返ります。


「……ファンゾって、なんだ」


 波部は、少し青ざめた顔で、後ろを振り返りました。

 そこには大きなガラス戸があって、向こうに歩いている人たちが見えます。その人たち全員、マスクやフェイスシールドをしていました。




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