FANSOファンゾウイルス感染症――正式名称は‘凍結進行型絞扼性臓器障害’。人体を内側から凍らせるFANSOウイルスに感染する事でかかる病……初期症状は地肌の白化はっか。寒気による身体の震え。体温の著しい低下。症状が進むにつれて呼吸困難が現れ、氷点下の冷たい吐息が口から漏れるようになる」


 波部がようやく気がついた頃には、いびつな紫色の巨大渦は途端に勢いを失ったようにやさしくなって、不思議な香のにおいを纏わせながら、辺りをかこむように漂っていました。


「自然治癒は無し。一般市民が享受できる治療薬も無し。ただひとつ――自らの保有するウイルスを他人にす事で、初めて病は完治する。いや完治というより〝やまい譲渡じょうとする〟とでも云おうか……それ以外の治療法は未だに見つかっておらず、挙句には幻の万能薬に仕立てた花の迷信さえ流れる始末」

「……詳しいんだな」

「このところ、店に来る客の大半がその話をして、その話に則った依頼をしてくる。――今のオマエのように」


 古い切り株のテーブルの向こう側、養分を残らず抜き取られた枯れ木の樹皮を顔に貼り付けた骸骨が、それだけぴかぴかに光る真鍮のパイプをふかしています。

 一週間ぶりに訪れた、腐った苔まみれの屋台は、一週間前と何ひとつ変わっていません。いや、一週間どころか、何百年、何千年もの太古の昔にわたって、変化という事象を頑として排斥しているとまで感じるのです。


とう。流行病というのは、人ひとりの決意をひっくり返すほど強いのか。あれだけ頑として譲らなかったこれ、、を、入ってきたなり差し出すとは」


 大きな切り株の中心には、小さな指輪がはだかで、無造作に置いてありました。

 鏡のような金剛石と、透きとおる紅玉が添えられた、美しい指輪です。


「もう、いらないから」


 波部は婚約指輪を睨みつけたあと、絞り出すような声で言いました。


「どうしようもなかったんだ。向こうが独りで死ぬっていうなら、こうするしか……。最初にここに来た時点でさっさとあんたに渡せばよかったかもな」

「経緯に興味は無い。命ひとつに見合う覚悟さえ示してくれれば。快く頂戴しよう」

「……それと」


 波部はリュックサックから赤色の冊子を取り出しました。一瞥しただけで大切に使われてきたとわかる、美しい真四角の本です。

 それをゆっくり、切り株の上で広げると、小柄でかわいらしい女性との写真が、いくつも綴られていました。


「何だ、これは」

「彼女との思い出のアルバム。これも、もういらない……」

「これを私にどうしろと?」

「記憶ひとつにつき、大切なものひとつだったよな」


 波部は、覇気のない顔を上げて、こう言いました。


「おれの中から、彼女に関する記憶を消してほしい」


 その目は、見ようとすれば眉根をひどく寄せてしまうほど、物凄く消耗していました。

 細かくよれた皺が集まる目もとに、うっすらと影を落とす隈模様。それは途方に暮れることも忘れるくらい長い時間、終わりのない凄惨な拷問にかけられている、無実の罪に問われた罪人のようでした。

 キヲク消去人はしかし、何ひとつ機微のない、そもそも機微という代物自体を持ち合わせておらぬ骸骨の顔で、罪人の目を真正面から見続けていました。


「人間にふさわしい顔をしているな」




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