波部は、彼女を呼び止めるように叫びました。
目の前にいる人が、このたった一瞬のうちに消えてしまいそうに見えたからです。
「裏口へ行こう! 人が何人もいる、そいつらの誰かにさわれば君は治る。解決する」
「そんなことできない。したくない……」
「この期に及んで気ぃ遣うのやめろよ! 他人の素肌をさわるだけでまるごと病気をうつせて治るってんなら誰だってする。おれだってそうする。
「ひ――人殺しになんかなりたくないっ!!」
耳にするだけで泣きそうになる叫び声が、彼女の胸からほとばしります。
「人殺しになってまで生きたくない。わたしが病気をうつしたせいで誰かが死んだら、わたし、生きていられない」
「おれは君を失いたくない。失うくらいなら代わりに誰かを殺したほうがマシだ。たかが赤の他人じゃねぇか! 死んでも死ななくても大して影響がないんなら別に死んだっていいだろ。どうせそいつがいつ死んだかなんてこっちはわかりゃしない、今もこうしてるあいだもどっかで人は死んでる。誰が何で死んだか、名前も原因も見えないなかでどんどん死んでいってる。今の時代は特にな。病気になってもならなくてもそれは一緒だ! 気にするだけ無駄だ!」
「ひどい――」
「ひどいだと? おれはあんたのために言ってるのに! あんたは生きたくないのか? 他人のために自分がどうなってもいいってのか? そんなきれいごとを信じてんのか? 子供じゃあるまいし――バカすぎだろ!! ありえねぇ!!」
「もういい」
彼女は、自分の肩を抱いていました。
見るからに気の毒なほど震えている体は、極寒の雪山に一人取り残されて、凶暴な猛獣に襲われた遭難者のように傷だらけでした。
「わかってくれなくていい。どうせわたしの言ってることは間違ってる。もうそれでいい……」
遭難者は、紫色に変色した目回りとともに、元彼氏を睨みつけました。
その紫色が言葉にできないほどいびつな模様をしていて、波部は血の気を根こそぎ奪われるような眩暈に襲われました。
「あなたのふさわしいパートナーになれなくてごめんね。二度と、もう二度と会わないから……その指輪はほかのふさわしい人に贈ってね。今まで、ありがとう、ごめんね……」
いびつな紫色の模様が、目の前で巨大な渦を巻いて、波部の頭を、その全身を飲み込んだかと思うと、今の今まで辺り一面にあった何もかもを連れ去って、消えました。
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