第18話 一触即発の空気というのを初めて味わいました


 まだ朝もやのかかる早朝、私はジードと庭に出た。

 お父様がまだ寝ているはずの時間に、散歩を済ませてしまおうと思ったから。

 お父様が帰ってきたからといってジードを地下室に入れっぱなしにするわけにはいかないし、だからといってお父様の目の前で仲良く二人で散歩するのも気が引ける。

 ジードの忠誠を得るためと話しておいたから、人目のあるところで散歩をするくらいなら咎められはしないだろうけど、見られていると思うと落ち着かないのでこの時間を選んだ。

 いつも通りロバート卿に朝の挨拶をして庭に出て、宿題の植物の状態を確認する。よしよし順調。ジードを待っている間、日光浴させておこう。

 今日のジードは運動量は控えめで、かるく体を動かしたあとベンチに座る私のところに来た。


「今日は時間も早いしお茶は用意してないの、ごめんね」


「客でもあるまいし、奴隷相手に毎度気を遣う必要はない。それより……先日はすまなかった」


 ジードが神妙な顔をする。

 私は彼に笑顔を向けた。


「もういいわ。私がやった拷問よりよほど優しいでしょ」


 ふ、とジードが笑う。


「それよりこっちに来て座らない?」


「俺はここでいい。こんな口をきいといてなんだが、あまり対等に扱おうとするな」


「そう……」


 そのまま、会話が途切れる。

 聞きたいことがあるんだけど、なんとなく切り出しづらくて黙り込んでしまう。


「何か話でもあるのか?」


「ええ。あなたに聞いてみたいことがあるの」


「なんだ?」


 ジードを見上げる。

 顔つきがずいぶん穏やかになった。黒い棒ももうかなり短い。


「私や前の二人のあるじに忠誠を誓わなかったのは、仕えるべき価値がない人物だということや自分の国を滅ぼした国の貴族は許せないという以外にも理由があるの?」


「……」


 ジードが短く息を吐く。


「エドゥアがこの国に負けた時、俺は結局戦いには参加しなかった」


「なぜ?」


「王女の傍で護衛をしていたからだ」


「ジードは近衛騎士だったの?」


「似たようなものだ」


 似たようなものってなに。

 ただの近衛騎士じゃない、とか?


「もしかして、……王女様の恋人だったとか……?」


 自分で言っておいて、胸のあたりがもやもやする。


「気になるか?」


 ジードが意地の悪い笑みを浮かべる。

 私はぷいと横を向いた。


「別に」


「まあ否定だけはしておこう。王女とはそんなんじゃない」


「……」


「話が逸れたな。俺は最後まで戦いに参加せず、王女が降伏を決めたときに一緒に降伏し奴隷となってこの国に来た。同胞が大勢死んだのに、俺は最後まで剣を振るうことすらなかった」


 ああそうか。

 ジードが何より許せないのは、自分自身なんだね。

 敵国だったこの国で新たにあるじを決めて、安穏と生きていくことを裏切りのように感じてるんだ。


「王女は降伏する時に、逃げて他国で自由に生きるのもドレイク王国で誰かに仕えるのも裏切りじゃない、自分の命と人生を大事にしろと言った。それを裏切りというのなら降伏を決めて王の妾になるであろう自分こそが裏切り者だと。だが、それでも俺は……」


 この間はエドゥアが滅びたのは仕方がないようなことを言っていたけど、やっぱり平気なはずがない。

 生活も仲間も主も全て奪われて、その元凶となった国で奴隷として生き、誰かに仕えるなんて。


「もし自由になってオルビス王国で暮らせたら、ジードは幸せになれる?」


「それはそれで複雑だろうな」


 すべてを忘れて自由に生きても、やっぱり自分を許せないと思うんだろうか。

 それでも、自国を滅ぼしたこの国で暮らすよりは幸せなんじゃないかな。


「あえて言うなら、俺の望みはエドゥアの民をおびやかす魔獣と命の限り戦い続けることだ。もともと、それがエドゥアにおける戦士の存在意義だから。だが、国境が厳重に封鎖されていてそれもかなわない」


「……」


「オルビスの話をするということは、父君に俺の解放を願い出ようと考えているのか? それならやめておけ、あんたが叱られるだけだ。解放の手順は奴隷商人が教えてくれたよ。“そこまでして戦争奴隷を解放する馬鹿はいないからお前は死ぬまで奴隷だ”と笑っていた」


「お父様はたしかに許してはくださらないと思う。でも……それでも私は……」


「もしかして父君は俺が忠誠を誓わなければ俺を売ると言っていたか? なら売られた後の俺の運命も?」


「……」


「知ってるんだな」


 何も言えなくて唇を噛む。


「そんな顔をするな」


 ジードを見上げると、彼は笑みを浮かべていた。


「抱きしめたくなるから」


「……!!」


 頬が一気に熱くなる。

 真っ赤になったであろう私を見て、ジードは楽しげに笑った。

 あーっもう、乙女な純情が憎い。アラフォーの私どこいった!


「真面目な話をしているのよ」


「俺はいたって真面目だが」


「そんなことを言ってる場合じゃないでしょう。私はあなたが売られてひどい目にあうなんて嫌なの。だからってあなたが私に仕えればこの国で差別を受け続けるかもしれないし、あなたは自分を許せず苦しむかもしれない。それなら、あなたを信じてあなたを解放するしかないじゃない……」


 もうこれじゃあ好きだって伝えてるようなものだけど、もう有利だの不利だのどうでもいい。


「……参ったな」


「?」


 ジードが腰を曲げて、私の耳元に顔を寄せる。


「本気で抱きしめたい」


 耳をくすぐる、少しかすれた低い声にぞくぞくする。


「……っ、だから……!」


 ジードが体を起こす。


「首が絞まってもそうしたいところだが、今はやめておこう。誰か来るようだから」


「え?」


「俺の未来は気にするな。あんたが悩む必要はない」


「でも……」


 ジードが振り返る。

 彼の視線の先を見ると、お父様とギル、騎士が二人。

 騎士のうちの一人は、私を豚令嬢呼ばわりした……ダニエルだっけ。

 彼らはまっすぐこちらに歩いてくる。

 私は立ち上がった。


「おはようございます、お父様。お早いですね」


「お前もな」


 ジードがすっと頭を下げる。

 そんな彼を、ギルは不機嫌を隠そうともしない顔で睨むように見て、お父様は感情の見えない顔で探るように見た。


「娘とずいぶん心を通わせているようだな」


 ジードは答えない。


「まあいい。さて、セレナ。この騎士に見覚えはあるな?」


「……はい」


「お前を豚令嬢呼ばわりして侮辱していたとのこと。間違いないな」


 ダニエルがびくりと体を震わせる。

 ギルの冷たい視線は、今度はそのダニエルに注がれた。


「それは……」


「遠慮する必要はない。他の騎士からも裏は取ったからな」


 じゃあ私に聞かなきゃいいのに。ってそうもいかないか。


「ウィンスフォード家の騎士でありながら令嬢を侮辱するなど言語道断。この男には罰を与えて追放することが既に決まっている」


「そうですか。ではなぜこの場に連れていらしたのでしょうか」


 私に謝罪させるにしても、こんな早朝に庭に連れてくる必要なんてないだろうに。


「ジードと言ったな、そこの男」


「……はい」


「まだ娘に忠誠を誓ってはいないようだが、娘の護衛騎士となるかもしれない者の実力を見たい。このダニエルを完膚なきまでに叩きのめせ。その結果死んでも構わん」


「お父様!?」


 なんて怖いことを言うんだろう。

 いくらなんでも、悪口を言っただけでそこまでの罰は必要ないだろうに。

 ダニエルはガタガタと震えている。


「お父様、私はそんなことは望みません。せめて追放するだけに」


「これはウィンスフォード家としての決定だ。お前が口を挟む余地はない」


「侮辱されたのは私です。それになぜジードにやらせようとするのですか」


「言っただろう、実力を見たいと。その男が従わぬのなら今すぐ売る」


「お父様……!」


 ここでの絶対的権力者はお父様だ。私にはなんの力もない。

 だけど……!

 前に出ようとした私を止めるように、ジードが私に向かって手をあげる。


「ジード?」


 彼は答えず、私がプレゼントした木剣をすっとダニエルに向けた。


「よい心がけだ」


「一つお願いがあります。素手の男を一方的に倒すのは気が乗りません。実力を見たいと仰るなら、その男にも武器を」


「ならば木剣を持ってこさせよう」


「真剣で構いません」


「ほぉ」


 ジード、と呼びかけようとしてやめた。

 彼は自信があるからそう言っている。下手に私が出しゃばって止めたりしたら、彼のプライドを傷つけるかもしれない。


「たいした自信だ。キース、ダニエルに剣を貸してやれ」


「……承知しました」


 ダニエルは剣を持っていないので、キースと呼ばれた灰色の髪の騎士がダニエルに鞘ごと剣を渡す。

 ダニエルは躊躇いながらそれを受け取った。


「ダニエル、その男を倒せば追放を考え直してやろう」


「! ありがたき幸せ」


 ダニエルが剣を抜いて構える。ジードもゆったりと構えた。

 真剣での勝負なんて怖い。

 ジードは自信があるようだけど、もし大けがでもしたらと思うと気が気じゃない。

 先に仕掛けたのはダニエルで、振り下ろされる剣をジードは一歩下がって避けた。その後続く攻撃も、ジードは避け続ける。

 剣がヒュウヒュウと風を切る音を奏でるたびに、心臓が縮み上がるような気がする。

 ダニエルが剣を薙ぐ。ジードが低い体勢でそれを避けつつ、踏み込んでダニエルのみぞおちあたりに木剣を突き入れた。

 たまらずダニエルがその場に膝をつく。先がとがっていない木剣とはいえ、かなり苦しそう。

 せき込みながらも立ち上がろうとするダニエルの肩にジードの強烈な蹴りが入って、ダニエルはあお向けに倒れた。

 ダニエルの手から離れた剣を空中で手に取ったジードが、その剣を振り上げ――私はそこで思わず目をつむった。

 暗闇の世界で聞こえる、うわぁっ! という悲鳴。

 私は目を開けられなかった。


「姉上、大丈夫です。目を開けてください」


「……?」


 ギルの声におそるおそる目を開ける。

 倒れているダニエルの上にまたがったジードが剣を突き刺していたのは、ダニエルの首のすぐ横だった。

 ジードが剣を地面から抜いて体を起こし、顔面に恐怖の色をはりつかせたダニエルを見下ろす。


「わ、私の……私の負けです。まいりました……」


 それを聞いてから、ジードは落ちている鞘を拾い、剣をおさめた。 

 そしてキースという名の騎士に剣を渡す。

 キースは頬を紅潮させて「強いっすね……」と言いながら受け取ったけど、ギルに睨まれて慌てて顔を伏せた。


「勝負あったようだ。たしかに見事な腕前だが、私は完膚なきまでに叩きのめせと言ったはずだが?」


 お父様の冷たい声に、背筋が冷える。

 ジードが売られてしまうかもしれない。

  

「お嬢様が過剰な制裁をお望みではありませんでしたので」


「私に逆らうのか?」


「私はお嬢様の奴隷です。私にとってはお嬢様のご意思が最優先です」


「私よりセレナに従うと? ならばセレナの護衛騎士になるというのか」


「いまだに自分の心を決められぬ未熟者です。ただお嬢様が傷つくのは見たくありません」 


 胸の中に温かいものが広がっていく。

 彼は、私の味方になってくれた。

 私にとってすべてのものはお父様からの借り物というこの伯爵家で、お父様よりも私の意思を優先してくれた。

 もうそれだけで私にはじゅうぶん。

 だけど、お父様の意向に逆らえばどうなるか。


「私に逆らえばどうなるかわからぬわけではあるまい」


「存じております」


「ならば売られることも覚悟しているということだな。売られれば次こそ剣奴となるが、それも承知か」


 お父様、と言おうとして、言えなかった。

 ジードが笑みを浮かべていたから。

 私に見せてきたような優しいものじゃなく、冷酷さと凶暴さを感じさせるような笑みに、身がすくんだ。


「見世物として死ぬつもりはございません。奴隷の身ではありますが、死に様だけは自分で決める所存です」


 その言葉に、ぞわりとする。

 私の親権者であるお父様も、首輪でジードの動きを制限することができる。

 制限している間に、騎士たちを使ってジードを捕らえるなり殺すなりしようとするかもしれない。

 でも、ジードのこの自信。ジードの怒りの一撃が、自らの命が危険にさらされることで発動したら?

 大惨事になるかもしれない。

 私はジードにもお父様にも死んでほしくない。


「ジード」


 ギルとキース卿が今にも剣を抜きそうな一触即発の状況の中、場にそぐわない優しい声でジードの名を呼ぶ。

 殺伐とした空気をかき消すようにゆったりと足を進める私に、皆が注目した。


「お疲れ様。こっちへいらっしゃい。部屋に戻るわよ」


「セレナ。話に割って入るな」


「彼は私の奴隷です。お父様は娘に買い与えたものを気に入らないという理由で奪い取るのですか?」


 ひどく緊張している。

 けれどそれを悟られないよう、優雅に微笑を浮かべながら話す。


「……」


「買ってくださったのはお父様であっても、彼は私のものです。ましてや約束の夏休みすら終わっていないというのに、それすらどうでもいいと仰るのですか」


 そこまで私を軽視するのかという意味を込めて言う。

 お父様がわずかに眉をひそめた。

 そしてつい癖で胸元を見てしまう。

 驚くことに、その黒い棒は半分近くまで縮んでいて、今またさらに縮んだ。

 ……どうして?

 お父様がため息をついた。


「わかった、下がりなさい。その前にダニエル、セレナに何か言うことがあるのではないか」


 座り込んでいたダニエルが、びくっと体を震わせる。

 彼はその場に手をついた。


「申し訳ありませんでした、お嬢様。心からお詫び申し上げます。また、私のような者に温情をかけてくださった御恩は決して忘れません」


「……謝罪は受け取るわ。私が言えたことではないけれど、人に向けた負の感情はいつか自分に返ってくる。新たな地に行っても、それを忘れずにいて」


「はい。肝に銘じます」


「それじゃあ行きましょう、ジード」

  

 ギルが苦々しい顔をしているのが視界の端に映ったけど、あえて視線を合わせず玄関へと向かう。

 ジードも黙ってついてきた。

 家に入り、階段を降りたところでようやく彼を振り返る。

 さっきの彼は少し怖かったけど、今は穏やかな顔をしていてほっとした。


「ジード」


「なんだ?」


 口調もいつも通りで、思わずちいさく笑いが漏れる。


「いろいろごめんね。それから……ありがとう。私の意思を尊重してくれて」


「当たり前だろう。俺はあんたのものなんだから」


 そう言って、私の髪を指ですくう。

 そのしぐさと私のものという言葉にドキッとしてしまう。


「なんだ、自分で言っていただろう。彼は私のものだと」


「あれはあの場をおさめるためよ。忘れて」


「無理だな」


 ジードが髪に口づける。

 見開いた私の目をじっと見つめ……再度髪に口づけを落とした。

 唇を離し、髪の感触を楽しむように指を通して、そっと手を離す。

 私、今……息してる?

 石像のように固まった私の横を通り過ぎて、ジードは部屋へと入っていった。

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