第15話 ドキドキシチュエーションとは一体


 一歩、ジードが私に近づく。

 ジードが怒っている。どうして? 理由がわからない。……怖い。

 また一歩、近づいてくる。私は動けない。

 さらにもう一歩。私をじりじりと追いつめるように。肉食獣に狙われるってこんな気持ちなんだろうか。

 狭い部屋の中、たった三歩でジードは私のすぐ目の前に。

 たまらず、一歩下がってしまう。壁に背がついた。

 ジードがさらに一歩近づく。すぐ目の前には壁のように大きな男。すぐ横の半開きの扉をちらりと見ると、それを察したジードが扉を閉めた。

 冷たい汗が背中をつたう。

 彼の黒い棒は、じわじわと伸び続けていた。


「どうしたの、ジード。何のつもり?」


 やっとのことで声を絞り出す。声が震えているのがばれてしまっているのかもしれない。

 ジードが鼻で笑う。


「どうしたの? か……」


 ジードが私の顔の横に手をつく。

 扉がある左側。逃げ道を遮るように。


「ジード、手をどけて」


「あんた、後継者の座をかけて俺を落とせるか父親と賭けをしてたんだって?」


 私の言葉を遮るように、ジードが言う。

 私は大きく目を見開いた。……見開いてしまった。

 お父様との間の話をジードに告げるなんてことをするのは、ギルバートしかいない。

 それにしても落とせるか賭け? なんでそんな話になってるの!?

 私が何か言う前に、ジードは私の右側にも手をついた。


「その顔は図星なんだな。俺としたことが、そんなクソくだらない賭けのために小娘にいいように遊ばれていたとはな」


 背筋に響く低い声。

 獣の唸り声のようだと思った。

 何か、何か言わなきゃ。黒い棒はまだ伸び続けている。

 このままじゃまずい。それなのに、怖くて頭がうまく働かない。

 『動くな』と命じれば、首輪の作用でジードの動きは止まる。でもそれをやったらきっと黒い棒は一気に伸びる。


「なめられたものだ。なぁ……セレナ?」


 ジードが腕を曲げて、さらに私に近づく。私は顔を上げられない。

 おそらく警告として首が絞まり始めているだろうに、それをものともしないのが恐ろしい。

 私の右側についていた手が壁から離れ、私の顔付近にくる。

 そのまま殴られるかもしれないと思ったけれど、彼の指は私の頬をするりとなで上げた。


「……っ」


 私が体を小さく震わせると、黒い棒の動きが一瞬止まった。

 ジードの指は今度は頬をゆっくりと下りて、唇をかすめ、私のあごの下にあてられる。そのまま、顔を上向かされた。


「なぜ何も言わない。違うというのなら否定してみろ」


 黒い棒がまだのびている。怒りの一撃が発動してしまうかもしれない!

 ――だけど。

 否定してみろという彼の言葉。

 否定できるものならしてみろという意味じゃなく、私に否定をしてほしいんじゃ……?

 私は爪が食い込むほど自分の手をつよく握ると、彼の目をまっすぐに見た。

 わずかに彼の瞳が揺れる。黒い棒の動きが、また止まった。

 今しかない。


「困った人ね、ジード。子猫に惑わされるなんて」


 手を上げて、彼の頬に触れる。

 ジードの体がぴくりと動き、私のあごから手が離れた。

 それでも私は顔を上げたまま、目をそらさない。

 本当は怖い。でも目をそらして背を向ければ、獣に食われる。


「疑問や不満があるのならまず私に尋ねなさい。私の話も聞かないで一方的に私に怒りをぶつけるのはやめて」


 ジードの黒い棒が、わずかに縮んだ気がした。視線を合わせてるからよく見えないけれど。


「私の話を聞く気があるなら説明するわ」


「……話してみろ」


「じゃあ離れて」


「……」


「男女がこの距離と体勢で話をするの?」


 さらに上を向く。ジードの顔がより一層近くなる。

 このままキスしてもおかしくないくらいの距離。


「この距離も悪くない」


 そんなふざけた言葉が出てくる。

 ジードの態度が少し軟化したみたい。


「離れないなら話さないわ」


 ジードがちいさく息を吐いて、壁についていた手をどけて一歩下がる。

 安堵のあまり、体の力が抜ける。その場にずるずると崩れ落ちてしまいそう。でもまだ駄目。


「で、どんな話を聞かせてくれるんだ?」


「まず落としたら、なんて条件をお父様が出すわけないでしょう。私は貴族の娘なのよ。いずれどこかに嫁ぐ身なのに、護衛騎士候補の男を惚れさせろなんてお父様が言うわけがない」


 ぴくり、とジードの眉間が動く。


「ならあのクソガキが嘘をついたのか」


「ギルバートはその場にいて私とお父様の話を聞いたわけじゃないから、何か誤解をしたのかもしれないわね」


 本当は悪意のある嘘だろうけど、今のところはそう言っておくしかない。


「他にあの子はなんて言っていたの」


「……」


「話してくれなければ何もわからないわ」


「……姉が好きなのは同じ学園に通う第二王子殿下だ、お前のような野良犬じゃない。お前に興味があるように見せかけ、外見を磨いているのは、後継者の座をかけた父との賭けのためだ。お前に見せる優しさも美しさもすべてはお前を篭絡し賭けに勝つための手段に過ぎない。お前に向けられているものはすべて偽りだ、いずれ売られる運命だと」


 ……。

 ギルバート。やってくれたわ。

 よりにもよってこんな……!

 ううん、これは私の失策でもある。

 ジードは私に対してぬぐえない不信感をずっと抱いていたんだろう。

 ずっと強硬な手段を用いていたのに、急に軟化した私の態度。

 変わっていく私の外見、性格。

 何よりも、普通なら手放すはずの、従わない奴隷への執着。

 そして、私自身が口にした「憧れの人」。

 ジードの中でもやもやしていたものが、ギルの言葉で私への怒りと不信へと変わった。

 言えないことが多い私よりも、ギルの言葉のほうが説得力があったのだろう。腹が立つけど、見事と言わざるをえない。


「どこまでが嘘で何が本当だ? 父親と後継ぎ問題を巡って賭けをしたというのも嘘か」


「そこは否定できないわ。あなたを落としたらじゃなくてあなたに私をあるじとして認めさせたら、上に立つ者としての人心掌握の手腕を認める、という話だったけど」


 これはこれで印象が悪いだろうけど、否定しておいてあとでばれるほうが危険だ。

 この部分は素直に認めておくほうがいい。


「人を賭けのネタにしてたことに変わりはないだろう」


 そう言いつつも、黒い棒は伸びるどころか少し縮んだ。

 ああ……やっぱり。ジードが怒った理由は……。


「そうね。それはあなたにとって失礼な話だから、申し訳なく思うわ。ただ、私があなたを護衛騎士にしようとしていたのは、後継者になりたいためじゃない。後継者については、いずれにしろ辞退するつもりよ」


「何故だ?」


 ジードの言葉に、うつむいて苦笑する。


「お父様は最初からギルバートだけを後継ぎとして考えているからよ。お父様があなたの忠誠を得られたらという条件を出したのも、私には無理だとわかっていたから。そうして無理だったからと後継者になるのを諦めさせて、どこかに嫁がせて厄介払いするつもりなんでしょうね」


「それをわかっていて言われるがままにどこぞに嫁ぐのか」


 ジードがどこか苛立ったような表情を見せる。


「情けない話だけど、伯爵という地位は私の手に余るわ。伯爵家の騎士や領民も皆ギルバートを次期伯爵だと思っているし。結婚は……許されるなら望まない結婚なんてせずに自分で生きていく道を見つけたいけれど」


「後継者をあきらめたのに、なぜまだ俺を護衛騎士にしようとする?」


「絶対に無理だと思われたのが悔しかったからかな、最初は。ただの厄介者で出来損ないな娘でもちゃんと成し遂げることができるとお父様に見せたかったのかも。でも今は……私だけの味方がほしいから。伯爵家からの借り物じゃなく、私の騎士がほしかったから。そしてその騎士は、ほかの誰でもない、……あなたがいいと思うようになった」


 自分で言ってることが恥ずかしくなって、少し目をそらす。

 いつも通りずるさと計算を含んだ言葉だけど、まったくの嘘でもない。

 ジードの黒い棒は、私が話すほど短くなっていった。

 

「見た目がどんどん変わっていったのは? あの子猫が俺に言ったように、あるじとして認めさせたいだけなら外見を磨く必要もなかったはずだ」


「いくら中身が大事だとか綺麗事を言ってみたって、見た目が良いほうがいい印象を抱かれやすいのは間違いないわ。恋愛は抜きにしたってそうでしょう」


「恋愛は抜きにして……? 俺を落とすためじゃないなら第二王子のためだろう。自分でそう言っていたしな」


 そう言うジードの黒い棒が、じわりと伸びる。

 以前言った「憧れの人」がここにきて邪魔な存在になってしまった。失敗した。

 ジードだって忘れていたわけじゃないだろうけど、私の話の中で曖昧にしか登場しなかったし、あまり真剣に考えてはいなかったんだろう。

 ギルに言われるまでは。


「殿下のためじゃないわ、自分のためよ。絵本の中の王子様に憧れるように殿下に憧れてはいたけど、それももういいの。もともと恋と言えるほど好きだったわけじゃないし、夏休みで離れている時間が長くなるにつれ殿下のことを考えない日が多くなっていることに気づいたから」


「……」


 これに関してはジードは完全に納得してはいないみたい。

 でも仕方がない。いきなり全部スッキリ解決なんていかないだろうし。


「もう気になる点はないかしら。私はあなたに全部正直に話したわ。そのうえで、私の話を信じられなくてもそれはそれで仕方がない。証拠なんてないもの。私を信じるか信じないかはあなたに任せる」


 あえてギルバートとどっちを信用するのかとは言わない。

 あくまで“私を信用するかどうか”をジードに選ばせる。


 ジードは私から離れて、ベッドに腰かけた。

 そして長く息を吐く。


「……悪かった。あんたの言い分も聞かず、どうかしていた」


 黒い棒が、昨日までと同じくらい短くなる。ううん、もっと短くなったかもしれない。

 私の話すべてに納得したわけではないだろうし、まだ釈然としない部分も残ってはいるだろうと思う。

 それでも、彼は私を信じることを選んだ。

 彼の胸の黒い棒が、それを示している。


「あんたの弟の話をきいて頭に血が上り、どす黒い感情に支配されて我を忘れた」


「難しい立場にいるあなたを弟が無駄に不安にさせたのだから仕方がないわ。今後どういう形になるにしろ、売るなんてことは絶対にしない」


「ありがたい話だな。ただ、それが理由というわけじゃ……」


 そこで言葉を切る。彼がはっきりしない話し方をするのは珍しい。

 口元を手で覆って目をそらすジードの耳が赤くなっている。

 あー、この反応は。


「とにかく、すまなかった。もう二度とあんなことはしない」


「そうね、そうして。だって本当はすごく怖かったもの」


「……みたいだな。手が震えてる」


 ジードの位置からでもわかるほどに震えてたんだ。

 でもしょうがない。だって本当に怖かったから。


「情けないと思う?」


「いいや、情けないのは俺のほうだ。簡単に踊らされてあんなことを」


 ジードはいつでも冷静だった。

 鞭で叩かれている時ですら余裕があった。

 そのジードが、こんなに怒りをあらわにするなんて。


「もう私の話も聞かずに怖いことはしないで」


「ああ」


「じゃあ、今日は戻るわ」


「……ああ」


 ベッドに腰掛けるジードは、ばつが悪そうな顔をしていた。

 私に怖いことしたんだから今日は反省しときなさい。

 部屋を出て、階段を半分くらい上ったところでつまずく。

 幸い転がり落ちずにはすんだけど、力が抜けて立てなくなり、階段に座り込んだ。


「あぶな、かった……」

 

 怖かった、本当に。

 壁ドンってドキドキシチュエーションだよね☆とか言ってたやつちょっと出てこい。

 怖いわあんなの!

 あんな肉食獣みたいなのに壁際に追いつめられて壁ドンなんて、怖い以外の感情なんてわかないっていうの!


 震える両手で顔を覆う。

 はぁ……ほんと腰が抜けるかと思った。

 ――それにしても。

 ジードが怒った理由。


 彼は……私に惹かれている。


 惹かれているから、私が好きなのは第二王子だというギルの話に冷静さを失った。

 それに、お父様との賭けの話。

 たとえば拷問していた頃のセレナだったら、落とせるか賭けをしているなんて知っても鼻で笑っただけだろう。

 何言ってんだコイツと。

 でも惹かれているから怒った。その気持ちを踏みにじられたと思ったから。

 完全に惚れているとまでは言えないのかもしれないけど、ジードが自覚するほどには私への気持ちがある。

 私も正直なところ、ジードを好きになりかけていると思う。魅力的だと思うし、一緒にいると楽しいし。時々怖いけど。

 でも、私は伯爵家の娘、彼は現在は奴隷。解放して騎士になっても、元奴隷の護衛騎士。

 心を通わせることができたとしても、添い遂げることはできない。恋人にもなれない。触れ合うことすらかなわない。

 なんだか、胸が痛い。

 これは報いなんだろう。

 人の心を賭けの材料にした報い。彼との未来はないとわかっていたのに、生き延びるために彼の心に入り込んだ報い。

 この痛みは私が甘んじて受けるべきものだけど、ジードは違う。

 私は、これからどうしたらいいんだろう。どうするのが正解なんだろう。

 もうそろそろ、彼をどうすべきか決めなきゃ。


 その前にやるべきことがある。

 今日の事態を引き起こしたギルバートを、シメよう。

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