第8話 謝罪は時に人を苦しめるようです
翌日。
夕食と入浴を済ませてしばらく経った頃、ギルバートが部屋にやってきた。
すっぽかされるかと思ったけど、律儀な子なんだよね。挨拶したら嫌そうな顔をしながらも無視せず返してくれるし。
「来てくれてありがとう」
「来たくて来たんじゃありません」
そう言いながらも、彼はティーテーブルをはさんで私の向かいに座る。
私が手元に置いておいたベルを鳴らすと、アンがティーセットとお菓子を持って入ってきた。
もう爆裂ベル鳴らしをしなくてもアンがいるときはアンが、いないときはマリーがすぐに来てくれるようになった。
「ありがとう。お茶は私が淹れるわ。カートごと置いていってくれる?」
「承知いたしました」
アンが柔らかく微笑んで頭を下げ、部屋から出ていく。
彼女の黒い棒はもう半分を下回っている。もともと優しい子なんだろうなと思う。
「姉上がお茶を淹れるんですか?」
「そうよ。あなたの言う通りあなたにはメリットがないから、せめてお礼にお茶でも」
「結構です。以前、まだ純粋だった僕は一度だけ姉上が淹れたお茶を素直に飲みましたが、そこらへんの雑草をすりつぶしたような味しかしませんでしたから」
……きっといやがらせの一環だったんだよね、それ。
「練習したから大丈夫よ」
ティーポットとカップにお湯を注いで温め、ポットのお湯を捨てて分量通りの茶葉を入れ、再びお湯を入れてしばらく蒸らす。
蒸らしたら、カップのお湯を捨てて静かに注ぐ。
「ハーブティーですか? あまり好きではありませんが」
「少しハチミツを入れるといいわ。眠る前だから紅茶よりもこっちのほうがいいわよ」
ティースプーン一杯のハチミツを入れて混ぜ、彼の目の前にカップを置く。
不信感いっぱいの顔でこちらを見るギルバートに苦笑しながら、毒見とばかりにハーブティーを一口飲む。
はあ、美味しい。
それを見たギルバートが、渋々カップに口をつける。
「! ……案外飲めなくはないですね」
素直に美味しいと言わないところが彼らしいといえば彼らしい。
「そうでしょ。ハチミツがいい仕事してるでしょう?」
ギルバートは甘党だからね。
「ハチミツは肌にいいと言われていますが、その肌の変化はハチミツのせいですか?」
「吹き出物のこと?」
「はい。嘘のように消えましたね」
「そうね。でも洗顔方法を変えて保湿するようになっただけよ」
セレナは週一のお風呂の時しか顔を洗わない、洗うときはゴシゴシこする、保湿はしない、脂っこいものと夜更かしが大好きと、肌に悪いことしかしてこなかったからなあ。
それを改善するだけでかなり肌がきれいになった。
色白だしもちもちだし、美肌と言ってもいいくらい。十代のお肌って素晴らしい。
「ところで、宿題だけど。頼りきりはよくないから、あなたが書き込んでくれたことを参考にもう少し進めてみたの。でもどうしてもわからないところがあって」
「どこですか」
「ここなんだけど。意味が通じないのよね」
「ああ、これは意訳するんです。だから……」
ギルバートの説明を聞きながら、メモをしていく。
やっぱり彼は頭がいいようで、すごくわかりやすい。
頭が良くて、冷たいといえるほど冷静で、でも丁寧で。後継者として期待されるのもわかる。
おまけに顔まできれいとなればね。わあ、まつげが長い。瞳も紫水晶みたいで、ほんとにきれい。
「思ったよりも宿題を進めていましたね。これなら数日で終わるでしょう」
「さっきも言ったけど、頼ってばかりじゃ申し訳ないし」
「姉上の辞書に申し訳ないなんて言葉が載っているとは知りませんでした」
「最近覚えたのかもね」
「……」
ギルバートがしばし黙り込む。
あれ? 変なこと言っちゃったかな?
「他に宿題はどれほど終わっていますか?」
「あちこち少しずつ手をつけてるけど、一番進んでるのは数学かな」
「……見せてもらえますか」
「? いいけど」
デスクに移動して数学の宿題冊子を持っていき、見せる。
「半分以上終わっているじゃありませんか」
「そうね」
「……。しかもざっと見た限りでは答えも間違えていない。なぜ数学から?」
「うーん、得意だから?」
そう言った途端、手首を強くつかまれる。
一見細身なギルバートの力は強く、痛いと感じるほどだった。
「なに? どうしたの」
「お前は誰だ」
「……え?」
背筋に冷たい汗が流れる。
またギルバートの黒い棒が伸びた。
「姉上は数学が何より苦手だった。ドルス語よりもだ。急に得意になどなるものか」
どう言うのが正解なのか。
ギルバートの黒い棒はじわじわと少しずつ伸び続けている。
「そもそもある日を境に姉上は別人のようになった。姉上から僕に向けられるものは嫌味と嫌がらせしかなかったのに、そういうこともなくなって感謝の言葉すら口にするようになった。僕がきついことを言っても怒るどころかさらりと流す。体型も身だしなみも気にしていなかったのに、清潔になって肌も美しくなり、体型も日に日に引き締まっていく」
あらお褒めくださってありがとう。
なんて言ってる場合じゃないよね。
「挙句の果てには学力まで上がる? 特に数学は基礎が大事だ、基礎すらできていなかった姉上が得意になるはずもない。お前は誰だ、答えろ」
手首を握る彼の手に力が入る。
痛みのあまり顔をしかめた。
「私は、セレナよ」
「嘘をつけ」
「どうすれば信じる?」
「……なら子供の頃に転んでガラスで切った傷跡を見せてみろ。まさか忘れてるなんて言わないな?」
傷跡、傷跡。
ガラスで……ああ、思い出した。
私はギルバートに手首をつかまれたまま椅子の上で体の向きを変えた。
そしてスカートを膝上までまくり上げる。
「!」
「ほら、ここでしょう」
私の膝の上には、たしかに白っぽい傷跡があった。
思い出せてよかった。
「……っ、はしたない恰好をするな」
いやあんたが見せろって言ったんでしょうが。
他にどうやって見せればいいんですかね!?
お年頃とはいえあんたも姉の脚見たくらいで赤面してるんじゃないわ。
「これで信じられた? 手を離してもらえるかしら」
「……」
ギルバートがようやく手を離す。ああもう、赤くなってるじゃない。
思ったよりも力が強くて驚いた。
「あなたは悪魔にでもとり憑かれたんですか」
「悪魔にとり憑かれて性格と頭と見た目が良くなるわけないでしょう」
「それで僕を誘惑しに来たのかもしれない」
なんというひねくれた思考回路。
「弟を誘惑してどうするの。あなたを誘惑するならあなたが嫌いな姉になんてとり憑かないでしょう」
「……。嫌い、か」
ギルバートが冷めてしまったハーブティーを飲んだ。
ほんのり甘いはずのそれを飲み干した彼は、苦いものでも飲み込んだような表情を浮かべている。
「たしかに僕は姉上が嫌いだった。むしろ憎かった。なのにこんなに突然変わって、どうしたらいいのかわからない」
ギルバートの顔が苦し気に歪む。
今まで憎んでいた姉の急激な変化に、心がついていかないのかもしれない。
セレナはひどいことをした。繰り返される陰湿ないじめは、人の心を深く傷つけて蝕む。殺したいと思われたって仕方がない。
でも、セレナはたしかに私だったから。
「ギル」
「愛称で呼ばないでくださいと言っているでしょう」
「ギルバート。ごめんね。今までたくさん傷つけてごめんなさい」
「……! なぜ今さら謝罪なんて。僕が長年どれほどあなたに苦しめられてきたか……!」
怒り、悲しみ、戸惑い。
そんなものがごちゃ混ぜになった表情を浮かべる。
黒い棒は……ひどくぶれていてよく見えない。こんな風にもなるんだ。
「たしかに今さらだよね。正直に言うけど、あなたが私を毒まんじゅうと言ったその少し前、私は頭を打って……記憶が混乱して人格も少し変わってしまったの」
頭を打って変わったわけじゃないけど。
ジードの首を絞めてたら前世を思い出しましたなんて言えない。
「少し変わった? 少しじゃないでしょう。それなら数学は?」
「三年生になってから、あなたに内緒でさかのぼってこっそり勉強しなおしていたのよ。数字に弱い後継者なんてお父様が認めるわけがないから」
いろいろと嘘だけど、今はこう言っておくしかない。
「人格が変わるなんて、信じられない話かもしれないけど。私はたしかにセレナ・ウィンスフォードだし、何かに体を乗っ取られたわけでもない」
「……」
「謝罪はしたけど、許してくれなくていい。今さら謝るのはただの自己満足かもしれない。それでも、申し訳ないと思っていることだけは伝えたくて」
「……憎み切らせてもくれないなんて。あなたはやっぱり残酷だ」
「憎んでいい。私はそれだけのことをしてきたんだから。できる償いがあるならなんでもするわ」
彼が前髪を乱暴にかきあげる。
「自分の気持ちを整理できません。今日はこれで失礼します」
彼は立ち上がり、教科書とノートを持って部屋から出て行った。
謝罪が早すぎたんだろうか。
それとも、謝らないほうがよかった? かえって傷つけてしまったんだろうか。
中身がアラフォーでセレナより人生経験があったって、結局人の心を理解することなんてできてない。
それでも、彼とは向き合って償っていくしかない。
死にたくないからだけじゃない。セレナとしての責任をとらなければ。
でも……どうせ前世を思い出すなら、子供の頃がよかったなあ。
そうすればギルバートをかわいがれただろうし、ジードを買うこともなかった。
色々とどうにもならなくなってから芹奈として覚醒するなんて。
これは何かの試練ですかね、神様?
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