第7話 私は名より実をとるタイプです


 まだ朝もやがかかる時間。

 あくびを噛み殺しながら、屋外へと続く扉を開ける。

 玄関前を警護してくれている暗褐色の髪の騎士に挨拶をすると、笑顔で返してくれた。この人の名前、ロバートだったかな。

 いつも夜間から早朝にかけて警護をしてくれているらしい。

 騎士にとことん人気がなかったセレナだったけど、こうして普通に挨拶をすればちゃんと返してくれる人もいる。

 騎士関連でかなり嫌な思いをしたからってみんなが嫌な奴だとは限らないのに、セレナは伯爵家の騎士なんてみんな嫌い! になっちゃったからなあ……。

 ロバート卿は最初から黒い棒があまり長くなかったし、真面目でいい人そうなのに。


 そのまま庭に出てダイエットのための散歩を始めようとしたところで、ギルバートを見つけた。

 彼は鉢植えの植物に水をあげている。

 あら、園芸が趣味なの? かわいいところあるじゃない。

 なんて思いながら見ていると、ギルバートが冷めた目でこちらを見た。


「おはよう、ギル……バート」


「おはようございます」


 ちゃんと挨拶を返してくれるところは律儀でかわいいんだよね。

 相変わらず黒い棒は長いけど、それでも少しずつ減ってきている。

 ただこっちは長年の恨みだからね……あまり劇的に減ってはいない。まあ上限に達しなければいいんだけど。


「それはなんの植物? ギルバートは園芸が好きなのね」


 そう言うと、彼に鼻で笑われた。


「姉上は物忘れが激しいようですね。これは夏休みの宿題ですよ? 全学年共通です」


「え!?」


 アサガオ観察日記みたいな!?


「このセンラ草は育てるのが比較的難しい植物です。水やり、日光、肥料など細かなケアが必要です。そういえば姉上のはあちらで枯れ草みたいになっていますね」


「う、うそ!?」


 ギルバートが指した先を見ると、カッサカサになった植物が鉢の中で倒れていた。

 ああ、なんて変わり果てた姿に……!


「今から予備の種を植えて間に合うかどうか。ちなみに物忘れの激しい姉上のために教えて差し上げますが、夏休みの終わりまでに花が終わって実をとれていなければ、植物学の補習と農業実習を受けるか単位を落とすかのどちらかです。必修科目ですので単位を落とすと留年です」


 なんで園芸が必修科目?

 趣味以外で植物を育てる貴族がどれくらいいるというの!?


「不満そうですが、日頃農作物を育てている民の苦労をほんの少しでも知ろうという理由からですよ」


「う……。それなら文句は言えないわ」


「そうですか。去年は死ぬほど文句を言っていましたけどね。あと、宿題も山ほどありますよ。終わらなかった生徒は留年確定です。まあ奴隷男と遊んでいる姉上ならそれくらい余裕でしょう」


「……」


 クス、と鼻で笑ってギルバートが去っていく。

 私はその場にしばらく呆然と立ち尽くしていた。

 

 部屋に戻ってあわてて予備の種を探し、育て方の本を読む。

 室内では育たないので屋外に置き、早朝の太陽の光を三十分ほど毎日あてる。なんで日光が早朝三十分限定……。

 雨や曇りの日の翌日は一時間、連日だった場合は一時間半。日光に当てる時間以外は風通しのいい日陰で育てる。元肥と追肥については……。

 わー! めんどくさい!

 園芸とか苦手だったんだよね。観葉植物にいたっては何度も枯らして結局リアルなフェイクグリーンを置くようになったし。

 もう補習と農業実習でいいんじゃない? 稲刈りでも牛の糞の片づけでもなんでもやるから。

 いやいや最初から諦めちゃだめだ、頑張ろう。

 そして宿題。

 机の上に冗談みたいに本が山積みになってる。なんで机の上に出しっぱなしなんだと思ったら……。

 とりえあず一通り見ていこう。

 まずは数学。

 どれどれ……おお、そんなに難しくない。よかった、日本でやったのとそんなにかけ離れてない。

 数学のレベルは、中学後半くらい? 専門科の人はもっと難しいのをやってるのかもしれないけど、一般教養ならこんなものか。なんとかなりそう。

 経理の仕事を七年ほどやってたし、昔はそろばんも習ってたし、数字にかかわることは苦手じゃない。むしろ好きなほう。

 次に歴史。

 これは暗記科目だから、教科書を見ればなんとかなりそう。ちょっと作文が難しそうだけど。

 あとは神学。これも歴史と同じ。

 社交マナー。これも頑張ればなんとか……たぶん。

 裁縫は刺繍の実技ね。刺繍はセレナが得意だったみたい。半分くらい終わってる。

 最後は外国語。ドルス語かあ。

 まずは教科書を開いて、と。

 ……。

 えーと。呪文? 教科書を見ても何も頭の中に入ってこない。

 どうして。セレナとしての記憶があいまいだから全然理解できないの? それともセレナ自体がこのドルス語を理解してなかったの?

 後者な気がする、なんとなく。

 どうしたらいいのこれ。


 結局今日は一日ジードに会いにいかず種を植えた以外は部屋にこもって宿題を必死にやっていたけど。

 全然進まない。

 夏休み明けまで一か月以上あるんだから真面目にやれば終わるはずだけど、歴史も神学も外国語もとにかくセレナの中の知識がからっぽに近い。今までどうやって乗り切っていたの、セレナ。

 歴史と神学は教科書を見てなんとかなるにしても、ドルス語がまずい。

 とりあえずやりやすい数学からバリバリやって、四分の一くらいは終わらせたけど。

 駄目だ、今日はもう限界。寝よう……。


 翌早朝。

 鉢植えの植物を日光浴させるべく庭に出ると、すぐ後にギルバートが来た。


「おはよう、ギルバート」


「……おはようございます」


 私が鉢植えをいそいそと日当たりのいい場所に移動させると、ギルバートはため息をついた。


「諦めていないんですか。枯れ草その二になるだけなのでは?」


「やるだけやってみて、駄目なら補習と農業実習を受けるわ。農業実習も楽しそうだし」


「……」


 ギルバートも鉢植えを移動させる。

 紫色の瞳が朝の光にキラキラと輝いて、きれいだなあ。顔立ちも瞳の色もまだツルツルのお肌も美しくて、きれいなものを集めてできたかのような子だと思った。

 セレナはこのギルバートと比べられることをひどく嫌っていた。

 頭がよくて剣の腕もそこそこ、何より美しいギルバートを妬んでいた。その気持ちもわからないでもない。


「ところで、ギルバート。あなたドルス語は得意?」


「……得意ですよ。独学で長年かけて覚えましたから。そういえば姉上も履修していましたね。父上にドルス語もできない者を後継者候補に入れられないと言われたのに昨年単位を落としたんでしたね」


 ぐうっ。


「一般教養で自由選択の科目よね、ドルス語」


 じゃあ学年が違ってもギルバートが受けている可能性があるのよね。

 ということは。


「僕の宿題を見せろというのなら無駄ですよ。僕は昨年ドルス語Ⅰの単位を取っているのでドルス語Ⅱ。姉上はまだⅠです」


「わーすごい。わからないところをちょっとお姉様に教えてあげようとかは」


「思わないですね」


 ですよね。

 弟と良好な関係を築いておけば教えてもらえたのに。セレナ……。


「そうですね……姉上が“どうか愚かな私にドルス語をお教えくださいギルバート様”とでも言えば考えなくもありませんよ」


 意地の悪い笑みを浮かべてギルバートが言う。

 出た、“考えなくもない”。

 なんとなく展開は読めるけど、私はプライドより実益が大事なの。


「どうか愚かな私にドルス語をお教えくださいギルバート様」


 ギルバートが目を見開く。

 こんなにあっさり言うと思っていなかったのかな。


「なぜ……。あなたはやっぱり変だ。どんどん痩せていってるし、清潔になったし、性格まで」


「以前も言った通りよ。ところでドルス語は……」


「考えなくもないと言っただけで教えるとは言っていません」


 やっぱりこう来たか。

 子供の言い訳じゃないんだからさ……。


「あなたといると混乱します。僕はあちらで植物に日光浴をさせていますから、ついてこないでください」


「うん、わかった。で、ドルス語は」


「教えません!」


 珍しく声を荒げて、鉢を抱えたギルバートが去っていく。

 彼は私の急激な変化に心がついていけないんだろうな。

 彼の負の感情は長年かけて蓄積されたものだし、彼への対応は急がないほうが良さそう。

 だから、ドルス語も自分で頑張ろう。

 そう思って、部屋に戻って教科書と課題ノートを開くけれど。

 呪文だ。

 やっぱり呪文にしか見えない。滅びの呪文っぽい響きだし、きっとそうに違いない。

 辞書と教科書を交互に見ながら少しずつ進めるけれど、どうしてもひっかかってわからないところがある。

 わからないところにマルをつけていこう。

 ……うん。ノートがマルだらけになった。

 

 というわけで、私はあっさり考えを変えてギルバートに教えを乞うことにした。

 だって考えなくもないって言ったのは彼だもんね。私におかしなセリフを言わせたんだから、その責任は取ってもらわないと。

 ギルバートの部屋の扉をノックし、返事を待って扉を開ける。

 私の姿を見ると、あからさまに嫌そうな顔をした。


「ギルバート、お菓子食べない?」


 迷惑そうな表情には気づかないふりをして部屋に入り、扉を閉める。

 私が持っているノートに気づくと、彼は小さく舌打ちをした。こわっ。


「食べないから出て行ってください」


「そう言わずに。ついでにドルス語」


「お断りします」


 かぶせ気味に私のお願いを断るかわいくない弟。

 しかも黒い棒が久しぶりにちょっと伸びた!


「ひどいわ、私にあんな屈辱的なことを言わせるだけ言わせておいて、ほんの少し助けてもくれないなんて……」


 目を潤ませてギルバートを見ると、彼は少し動揺したような表情を見せた。

 黒い棒も元通りになる。

 ギルバートが大きくため息をついた。


「……どこがわからないんですか」


「ありがとう! マルがついているところなんだけどー」


 ノートを見せると、彼の眉間に深いシワが刻まれた。


「マルだらけじゃないですか。こんなのどう教えればいいんですか」


「一応辞書や教科書を見たのよ? でもよくわからなくて」


「まったく……!」


 ギルバートが私からノートをひったくって机の上に広げ、椅子に座って私のノートにガリガリと書き込んでいく。

 私はそれを上から覗いた。

 ほうほう、なるほど。そこの解釈はそういう風になるんだ。それから、そこは……なるほど。


「髪が」


「? あっ」


 上から覗いていたから、髪がひと房、彼の近くに垂れてしまっていた。


「邪魔だったわね」


 あわててどけようとすると、その髪をつかまれた。

 引っ張られるのかと思ったけれど、ギルバートはその繊細な指に髪を絡ませる。


「?」


「髪質が明らかに以前と違います。何か特別なことでもしているんですか」


 男の子とはいえおしゃれが気になるお年頃だもんね、ギルバート。

 いつも清潔にしてるし。


「髪を洗ったあと、お湯にレモン汁を垂らしたものに髪を浸しているの。酢でも効果は同じだけど、匂いが気になるから」


「ああ、だから時々レモンの香りがかすかにしたんですね」


「酸味の強いほかの植物でも試してみたいと思っているところよ。レモンがちょっともったいないし」


「そうですか。今度僕もレモンを試してみます」


 そう言って彼が手を離し、再びノートに書き込み始めた。

 リンスをしていないであろう今でもギルバートの髪はきれいだけど、さらに上を目指すんだ。おしゃれ男子なんだなあ。

 姫香に良く思われたいのかな? 小説の中でも彼女に夢中だったもんね。

 そして夏休みが終わると姉が死んでいてヤンデレに……うっ。

 小説の中のセレナは、ギルバートに殺されたんだろうか。それとも名前も出てこなかったジード?

 はぁ……やっぱり死にたくないなあ。


「できました。あとは自分でやってください」


「ドルス語だけでも一緒に宿題やらない?」


「やりません。僕にメリットがありません」


「お菓子あげるから」


「子供じゃあるまいし。そもそも欲しいなら自分で用意できます」


「じゃあわからないところが出るたびに部屋に来ていい?」


「いやがらせですか? 迷惑です」


「わかった、時間を決めよう。寝る前の三十分だけ一緒に宿題しよう? お茶とお菓子を用意して部屋に来るから」


「鍵をかけておきます」


「じゃあ扉の前でシクシク泣いてるわ。ギルバートにイジメられた~って」


「人聞きの悪い!」


 ああ、また黒い棒がちょっと伸びた。

 やりすぎた。


「……はぁ……わかりました。ただし部屋には来ないでください。あなたに何か変なものでも仕掛けられたり何か部屋から持ち出されたらたまらない。明日から僕が部屋に行きます。嫌々ですが」


「わあ、ありがとう!」


「しつこい性格のあなたに中途半端に期待させた僕が悪かったんですから仕方がありません。ただしドルス語だけです。それが終わったらもうこんなことはやめてください」


「ええ、もちろんよ。ありがとう」


 いそいそとノートを持って「じゃあ明日からよろしく」と部屋を出る。

 扉を閉める前、ギルバートの大きなため息が聞こえた。

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