第26話

 こんな言い方をすればさも女遊びに長けているように聞こえるかもしれないが、別に先輩が家に来ること自体に緊張するような自分はとっくに卒業したつもりだった。


 しかし、今日だけは訳が違う。

 

 なぜなら、先輩が今日俺の部屋に泊まると言い出したのだから。


 先輩の家は広い。

 部屋もたくさんあるし、俺が泊めてもらったからといって別の部屋で寝るという選択肢もとれる。


 しかし、俺の借りている小さなボロアパートには部屋が一つしかなく、しかも部屋そのものが狭いので、離れて寝るといっても限界がある。


 そんな場所に今日、先輩は泊まるというのだ。

 それが何を意味しているのかはわからないが、その意味に期待を持ってしまうのは一般的な青年男子であれば誰しも同じだろう。


 今、先輩は俺の部屋のシャワーを借りて体を洗っている。

 その音を聞き漏らさないようにジッと聴きながら、何度もその意味を考える。

 

 ……これってつまり、そういうことでいいのだろうか。

 ただ寂しい、怖いというのであればこの前までのように彼女の家に俺が行けば済む話だ。


 それを敢えてこうするということは、やはり彼女も何かを期待してのこと。

 そう考えるのが自然だが、そう考えるほど俺の体は不自然なまでに硬直する。


 こんな経験はもちろん初めてだ。

 なんなら女遊びに長けたやつであればここまで緊張することもなかっただろうと、自分のこれまでの人生を悔いる。


 やがて、キュッとシャワーを止める音と共にガチャッと扉が開く音がした。


「ふー、さっぱりした。薫、まだ起きてる?」

「え、ええもちろん」

「そっか。あ、ドライヤー借りるね。あと、まだこっち来たらダメよ」

「わ、わかってますよ」


 ということはつまり、彼女はまだ服を着ていないということか。


 ゴーっとドライヤーの音がうるさく鳴る。

 今、扉を開けて廊下の少し先にいけば先輩が……


 少しだけ足がピクッとしたところで、俺は我にかえる。


 ダメだ。

 先輩は信用して俺の家に来てくれているわけなのに、そんなことをしたら嫌われるどころでは済まない。


 でも、これはあまりに状況が悪い。

 我慢、なんてレベルを遥かに超えている。


 ただ、経験のない俺にとっては何をすれば正解かわからず、足を止めているとやがてドライヤーの音が止まる。


「あー、さっぱりした……ってなんで立ってるのよ」

「い、いや、別に」

「まさか、覗こうとか思ってたわけ?」

「ち、違いますよ。別にそんな」

「ふーん、違うんだ。ふーん」


 少し悪そうな笑みで俺をからかうように見てきてから、先輩は部屋の隅に座ると、


「一緒にテレビでも見ようよ」


 と言ってきた。


「わかりました。じゃあ、隣失礼します」


 狭い部屋だからという理由で、俺は先輩の隣に腰かける。

 すると、石鹸の香りがふわっと漂ってくる。


「私も、野球中継見よっかな」

「……」

「薫? ちょっと聞いてる?」

「あ、ええまあ。いいですよ」

「そ、そう。ならいいんだけど」


 正直言って先輩との会話に集中できない。

 まだ少し濡れた髪の毛の色っぽさ、石鹸やシャンプーの香り、そしてなにより俺の部屋に先輩と二人という状況。


 何も考えられない。

 こんな時に呑気に野球なんて見てられるかよという話だ。


 今にも暴走しそうな自分を懸命に抑え込んでいると、先輩は、ずいっと俺の方に肩を寄せてきながら、嬉しそうに言う。


「私、こうやって誰かと一緒にテレビ見たり話したりするの、憧れてたんだよ。親もずっと家にいないし、友達もいなくって、そりゃあちょっと男子からチヤホヤされたりもしたけど、でもなんか虚しかった。今、とっても楽しい」


 人の下心なんて知りもせず、なんとも無邪気というか純真無垢な笑顔でそう言われると、こんなにムラムラしている自分が情けなくなった。


 でも、俺とこうしていると楽しいんだ。

 はは、案外素直だなこの人って。


「先輩」

「ん、どうしたの?」

「……俺も楽しいですよ、こうしてるの」

「な、なによ改めて。で、でもそれならよかった」

「楽しいついでに、手でも繋いでくれたらもっと楽しいかもなあ、なんて」


 ちょっと気分を変えようと、いつものようにからかってみた。

 どうせ「バカ!」とか「エッチ」とか言ってはしゃぐに決まってる。


 そう思っていたけど。


「……いいよ」

「え?」

「つ、繋いでほしいんでしょ? だったら……うん」

「い、いや、別に無理には」

「何よ、したいのかしたくないのかはっきりしなさいよ」

「……繋いで、ほしいかな」

「うん。私も」


 そっと。

 彼女の手が俺の手の上に乗る。


 繋ぐというか、触れているだけのような感じだが、確かに先輩の掌のぬくもりが伝わってくる。


 風呂上がりのせいか俺より少しあたたかいその手は、とても小さくて軽くて。

 

「……野球、もう終わってますね」

「そう、だね。じゃあ、なんか別の番組でも見よっか」

「俺は別に、なにも見なくても」

「うん……じゃあ、しばらくこのままでも、いい?」

「……ええ」


 テレビを消すと、本当に静かになった。

 

 静かな部屋で、先輩の息遣いだけが聞こえる。


「先輩」

「なに?」

「明日、問題が解決したら先輩に、話したいことがあるんですけど、いいですか?」

「……今じゃダメなの?」

「けじめです。約束を守ってから、話したいんです」

「……わかった、いいよ」


 先輩とこのあと、どれくらい手を握っていたたかは定かではない。


 しばらくずっとそのままで、先輩が眠ってしまうまで彼女の手を握り続けていた。


 やがて眠ってしまった先輩を横に寝かせて布団をかけて。


 俺は離れたところで横になって、先輩の寝息を聞きながらそっと決意する。


 明日で、全部終わりだ。


 先輩の問題も、悩みも。


 そして。


 嘘も。

 

 

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