第17話
キス。日本語で言えば接吻。
それが何を意味するかくらい、年頃になれば誰に教えてもらうまでもなく理解しているものだけど、今の俺は果たしてその二文字が俺の知っているそれと同義なのかどうか疑わしい限りだった。
「キスって……魚でも食べたいんですか?」
「わかるでしょ! い、いいから、したいかどうかだけ聞いてるの!どうなのよ?」
なんだこの展開は。
慣れ親しんだバイト先のカウンターで、憧れの先輩が顔を真っ赤にして俺にキスがどうのこうのと話しかけてくる。
……でも、何か答えないわけにもいかないようだ。
「……したいって、言ったら?」
「……し、したいんだって、なる」
「なにそれ。先輩がしてくれるんじゃないんですか?」
「わ、私は……ええと、その……」
急な出来事に少々頭がクラクラしたが、ふと冷静になり、店長と先輩が会話していたことを思い出す。
なるほど、これは店長になにか言われたな?
「どうせ店長に、キスしたいか俺に質問してみろとか言われたんでしょ」
「え、なんでわかるの?」
「だって、急にこんなこといいだすのおかしいし。だいたい、あの人の悪戯に真面目に対応するのなんて先輩くらいのもんですよ」
俺も散々あの人からやられたものだ。
オッサン相手に告白したら小遣いやるとか、女装してきたらボーナスだとか。
真面目にやってみたところでいつも「恥ずかしがってたからダメー」なんて言われて何も貰ったことないし。
あの人はこういうことが好きなだけだ。
「はあ。びっくりさせないでくださいよ。何事かと思うでしょ」
「だ、だってそれやらないと今後を考えるとか言うんだもん」
「それが本気ならここはとっくにパワハラで訴えられて潰れてますよ。あの人が先輩をクビにするわけないでしょ」
しかし冗談にしてもだ。
こんな純粋な相手に仕掛けるのは少々悪戯も度が過ぎる。
帰ってきたら文句でも言ってやろ。
「さてと、今日の帰りはスーパーでキスの天ぷらでも買いますかねえ」
「ば、バカにしないでよ! 私、真面目に聞いてたんだから」
「あはは、それならしたいって言ったら本当にしたんですか?なんてね」
「……別に、いい、けど」
「え?」
「な、なんでもない!それより仕込み、今のうちにやっとこうよ」
「え、ええ」
最後の先輩の言葉はあまりにか細くて聞き取れなかった。
ただ、なんとなくだけど、とんでもないことを言われたような気もしたが、先輩はそのことについては一切語ろうとはしなかった。
「ただいまー」
店長が戻ってきたのはそれからすぐのこと。
俺と先輩を見るや否や、ニヤリと笑う彼の顔はなんとも言えないほどに醜悪だった。
「どうやらその感じだと、ミッキーはちゃんとミッション達成したのねー」
「店長、うちの先輩で遊ばないでください。彼女は純粋なんですから」
「あーら、だから純潔をとっぱらっちゃおうって思ってたんだけどなー」
「それ、まじでセクハラですよ」
この人のキャラというものがあるからこそギリギリ許されてるようなものだが、ほんとそれでもバイトが長続きしない理由ってのは案外この人にあるのかもしれないと頭を抱えた。
そうこうしているうちに夜の開店時間が迫る。
三人で慌てて準備をしてから店に立つと、隣で店長がコソッと、俺にだけ聞こえるように呼びかけてくる。
「ねえねえ、ドキドキした?」
「違う意味でしましたよ。まったく、いい加減にしてください」
「でも、あんなに可愛い子なんだからさっさとしないと横取りされちゃうわよー」
「横取りって……別に俺とはなにもないですよ」
「そういうとこ。なおさないとダメよ」
「……わかってますよ」
素直じゃない、なんてことを先輩に言う資格は俺にはない。
一番素直じゃなくて捻くれてるのは俺だ。
でも、いくら好きでも。
いや、好きだからこそ伝えられないこともある。
俺みたいな人間が彼女に相応しいのか。
そんなことを考えている間に相応しい人間になれと、多分店長ならそう言うだろうけど。
それでも俺は、自分が嫌いだ。
そんな自分を好きになってくれなんて、どうして言えようものか。
「お客さん、きませんね」
「あんたのネガティブが店に蔓延してるんじゃないかしら」
「外、掃除してきます」
店長の言ったことは正しかったのだろう。
俺が店の外に出た途端に、大勢の客が押し寄せてきて店は大慌てとなる。
結局俺がいつもうじうじしているから周りに不幸なことばかり集めてしまうのかもしれない。
慌ただしく料理をしたり皿を洗ったりする間も、ずっとそんなことを考えていた。
◇
「いやー、今日は儲かったわねー。二人とも、お疲れ様」
「店長さんお疲れ様です。流石に私も疲れました」
「ミッキーがいなかったらやばかったわねー。よーし、今日はお姉さんが何かご馳走してあげるわ」
今日はたしかに俺が店にきてからでも一番というくらいに儲かった。
しかし、流行った時に限って口癖のように「商売は水ものだからね」と言って財布の紐を固くするような店長が、今日はどうしたのか飯に誘ってくれた。
「二人ともおうちに人いないんでしょ? だったら問題ないわね」
「いいですけど、どこにいくんですか?」
「ふふっ、大人のお・み・せ」
◇
随分と思わせぶりな言い方をされたが、連れてこられたのは近くの居酒屋。
まあ、嘘は言ってない。
店内はテーブルがいくつもあり、大勢の客が所狭しと座って騒いでいる。
ほとんどがスーツ姿のサラリーマン風。
皆、ビールを片手に顔を赤くして笑ったり怒ったり様々。
なるほどたしかに大人の店だ。
こんなところ、高校生なんて座っているだけで浮いてしまう。
それをわかってか、店長は奥の個室をとってくれていた。
隣り合わせに先輩と座ると、向かいの店長がまずビールと大声で。
俺たちはジュースを注文して、メニューを見る。
「ささっ、なんでも食べてねー」
「なんでもって、つまみばっかじゃないですか。はあ、期待して損したな」
「美味しいのよーここ。ミッキーもお腹空いてるでしょ?」
「え、ええ。でもこういうところ初めてで」
「じゃあ私が適当に頼んじゃうわね。嫌いなものがあっても文句なしってことで」
さすが商売人といわんばかりに店長は豪快に次から次へと注文をする。
広いテーブルいっぱいにどんどんと料理が運ばれてくる頃にはもう三杯目のビールを飲み干して日本酒に切り替えていた。
先輩は、最初こそ遠慮がちだったものの次第に饒舌になり、三人での楽しい会話がしばらく続く。
そして先輩がトイレに行くと席を外した時に、両手を後ろについて店長が、気持ち良さそうな顔で天井を見上げた。
「あー、いいわねこういうのもたまには。なんか楽しいわ」
「そういえば店長と飯なんて初めてですね。どういう風の吹き回しですか」
「ふふっ。嬉しいのよ、私も。カオリンがいい顔してるから」
「俺が? 何もかわったことなんて」
「あるのよ。あの子がきてから、いや、あの子の話をし出した時からね、なんかちょっと変わったわ。ようやく、心開ける人に会えたんだって」
遠くを見つめながら感慨深い様子で言うと、店長は俺の目も見ずに続けて言う。
「大切にしなさいよ、あの子のこと」
「……わかってますよ」
「それに、悩み事があったら私にも言いなさい。勝手だけど、私はカオリンのこと、本当の息子みたいに思ってるんだから」
「……それも、わかってます」
「ふふっ。お母さんって呼んでいいのよ」
「どっちかと言えば親父でしょ」
「やだー、ママがいいのー」
駄々をこねる酔っ払いの中年オネエのはずなのに、何故か今日だけは彼の姿が輝いて見えてしまった。
それに、お酒を飲んでもいないのにその顔が滲んで見えたのも、どうしてなのか。
もう、何年も涙なんて流してなくて、これからも泣くことなんてないと、そう思っていたはずなのに。
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