第15話

 先輩の家の風呂は広く、足を延ばしてもまだ余裕があるくらいの浴槽に、広々とした洗い場で、中も綺麗だ。


 まあそんなことに大した感動があったわけではない。

 むしろ、毎日先輩がここで体を流していると想像すると、その事実に興奮を覚えていた。


 椅子に座る時も、なぜか少し躊躇した。

 ここに先輩がいつも……


「タオル、置いとくわよ」

「え、ああすみません」


 外から聞こえた先輩の声で、ようやく少し冷静になった。


 どうも最近、この手の妄想がはかどってしまうのは、欲求不満なのだろうか。

 邪念を振り払うように顔を流し、再び湯舟に浸かってから風呂を出て、さっき買ったばかりのパンツを穿き、今日一日着てしわくちゃになった服に袖を通してから先輩のいる応接間に戻る。


「お先です。いいお湯でした」

「広いでしょ、うちのお風呂」

「ええ、とても。一人じゃもったいないくらいですね」

「だからって一緒に入ろうって話はしないけどね」

「ちぇっ」


 この人もだいぶ俺のノリがわかってきたみたいだ。

 それは結構だが、ちょっともったいない。


 あたふたする先輩の方が可愛いのに。


「じゃあ先輩も入ってきてください。明日は昼からバイトですから、早く寝とかないとですし」

「そうね。今日はお出かけもしたしそうするわ。……覗かないでよ?」

「それ、フリですか?」

「違うわよ!」


 先輩が部屋を出て行ってから俺は、ついたままのテレビをボーっと眺めながら一体ここで何をしてるんだろうと考えた。


 今、憧れの先輩の家で風呂に入ってテレビを見て。

 その先輩が俺の入った風呂に今浸かってるわけで。


 今までの人生の不幸の反動か。

 これまでにやってきた正義ごっこのご褒美なのか。

 それとも、不幸の前触れか。


 まあ、俺の場合どれも正解か。

 ひどい人生だったし、報われたこともないし、でも幸せが似合うような人間でもないし。


 きっと今だけのことだろう。

 問題が解決して、先輩が悩みから解放されたら俺なんて、その時ちょっと世話になった後輩くらいにしか、彼女の人生には残らないだろう。


 それでも、いいけどな。

 ちょっとでも彼女の記憶に俺がのこるんだとしたら、だけど。



「……ん?ここは……」


 気が付けば薄暗くなった部屋のソファに寝転がっていた。

 どうやらテレビを見ながら寝落ちしていたようだ。


 ご丁寧に布団をかけてくれている。

 先輩はもう、眠ったのだろうか。


 少し喉が渇いて、確かテーブルに置いてあったジュースを探そうと携帯のライトをつけると、そのすぐそばに先輩が。


「うわっ…‥寝てるのか?」


 すやすやと。床に布団を敷いて眠っていた。

 

 わざわざここまで布団を持ってきたのか?

 はは、よっぽど怖かったんだな、一人で寝るのが。


 その寝顔を見ながら俺は、非常に残念なことをしたと悔いる。

 もし俺が起きていたら、一緒に先輩の部屋で寝ようなんて展開もあったかもしれない。 

 そう思うと悔しさで余計に喉が渇く。


 あー、もったいないことしたなあ。

 

 と、独り言をつぶやいてからテーブルの上のコーラに手を伸ばし、少しぬるくなったそれを飲み干してからまた、布団にくるまってソファに寝転がる。


 でも、いいものが見れた。

 先輩の寝顔、死ぬほど可愛いな。



「朝よ、おきなさい」


 誰かの声で目が覚めるなんていつぶりだろう。

 そう思いながら意識が覚醒するも、瞼は閉じたまま。


 やがてシャッとカーテンが開く音と共に眩しい光がさす。


 そして何かが近づいてくる気配と共に目をあけると、そこには先輩の顔がアップで。


「おはようございます先輩」

「な、なによ起きてたんならさっさと布団から出なさいよ」

「眠ったままなら先輩がキスしてくれないかなって」

「ふ、ふつう逆でしょそれって」

「へー。じゃあ俺が早く起きたらしてもいいんだ」

「た、たとえ話よバカ!」


 寝起きだというのに先輩をいじる頭は冴えていた。

 なるほど、やっぱり俺は彼女をからかう天才なのだ。


「で、昨日はよく眠れました?ていうかわざわざここで寝なくても」

「だ、だって先に寝てるし部屋にいるのちょっと怖かったし……こ、怖いっていうのは昨日ゴキブリが出て、だからちょっとどうしようかなってだけで」

「はいはい。それより、バイト行く前に着替えたいんで一度家に帰ってもいいですか?」

「ええ、いいけど。私もついてっていいでしょ?」

「え、いやです」

「な、なんで!?」

「嘘です。おいていきませんよ」

「もー」


 朝から絶好調の先輩いじりを堪能してから、俺は身体を起こすとテーブルには朝食が。


 綺麗に焼き目のついたトーストと目玉焼き。さらにカップスープまで。


「これ、いただいてもいいんですか?」

「いらないっていっても食べてもらうから。せっかく用意したんだし」

「先輩って、結構いいお嫁さんになるかもですね」

「な、なによ急に」

「別に。いただきます」


 もちろん朝食はうまかった。

 うまい。などと雑な感想しか言えないのは俺の語彙力の問題だけど、人から用意された食事というのはうまいに尽きる。


 インスタントも冷凍も、たしかにうまいし楽だけど、こうやって人が作ってくれるもののあたたかさというものを実感しながら、黙って朝食をいただいた。

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