第240話『下火』

 



「――お兄ちゃん、大丈夫……?」


 そう話しかけてくるのはこの場では一人しかいない。

 恐る恐る、まるで大人の機嫌を窺う子ども。

 今の彼女と初めて出会った時に戻ってしまったようだ。



「…………」


 ゼントは今忙しいのだ。過去の暖かい記憶に縋りつくために。

 彼が生きている世界はここではない。故に返事などあるはずがなかった。

 眼は虚ろに、体の支配は手放し、疲弊した脳みそだけが動いている。



「……荷物はまとまったんだけど、これからどうするのかとか聞いておきたくて……」


「…………」


 しかしゼントは不答。ユーラの顔は見る間に萎れていく。肩を落とし、また時間を経て落ち着いた後で声を掛けようと後ろを向いた。

 その姿は今までにないほど落胆しており、目には人知れず水滴が湧く。


 同時に傍らでゼントの態度に腹を立てた者が一人。それはこの場に居る唯一の声を出せない彼女。

 気持ちを音で伝えられない分行動で示すかのように、勢いよく近づいてそのままの勢いでゼントの頬を荒々しくぶん殴る。

 無論ゼントの気持ちにも寄り添えた。だが今はなすべきことがあるだろう、と。



「――うわ!?? ジュリ、何をするッ」


 いつか見た拳とは大いに違う。宙で体を捻り、顔のど真ん中に肘鉄砲を食らわせたのだ。

 激しく横に飛ばされ当然怒りの声を露わにする。張り上げずとも威厳の籠ったような声、威厳とは言っても相当に堕ちた威厳だが。



「――っ! ジュリ、何やってるの!!」


 ユーラが真っ青になって振り返っている。まるでこの世の終わりを垣間見たかのように。

 手加減はしたのだろうが、それでも痛い。床にしばらく這いつくばるくらいには。


 しかし、妄執に捕らわれる彼を現実に引きずり出すことはできた。

 ジュリはここからどうすればいいのか算段は付いている。素早くユーラの後ろに小さく丸まってはそっと彼女の背中を押す。


 意図せずゼントの前に駆り出されたユーラ、しかしジュリの様子からどうすればいいのか察しは付いたようだ。

 地面で無様に顔を抑えるゼントに近づいていき、そして落ち着いた声で尋ねる。



「……お兄ちゃんは何をしているの?」


 視線からは冷たさすら感じるような。それを見上げたゼントはふと我に返り、自分の境遇を見つめ直したような。

 改まって考えてみても何も前に進まない。そんな自戒の念を取り戻して静かに答える。



「なんだろうな、分からない……消えてしまった心の拠り所を探しているのかもしれない」


 誰に向けたわけでもない疑問詞が出てくるのがやっと。もう孤独は嫌だ。かの者を信じてしまったがために自分は打ちのめされていた。

 このまま、またあの薄暗く汚い日々に戻るのだろうか。

 視線は自然と地面に向かって落ちていく。しかしそんな彼にも救いの手を差し伸べる者が一人だけ。



「じゃあ……ユーラを心の拠り所にしてくれないかな?」


「――えっ?」


 再び見上げるとそこには女神が居た。祈りを捧げるかのように両手の指同士を織り込み、一瞬天を仰いではゼントに眼差す。

 神秘的で神々しくも、なんだかかつてのユーラに戻ったように思えた。沈んでいた日常にいつも明るさを贈ってくれた頃を思い出す。



「それともユーラじゃ、頼りなさすぎる?」


「いや、そんなことはないけれども……」


 しかしやはりあの頃のようにはいかない。彼女が失ったものは自分自身に対する自信だろう。

 そして悲しきかな、咄嗟に口に出たのは社交辞令のようなものだ。一瞬ユーラの悲しそうな表情を見てしまってはそう言う他ない。

 せっかく勇気を出して手を伸ばしてくれたのに、ここで台無しにする必要はなかった。沈黙は金だ。言葉にすることが最善とは限らない。



「やったっ」


 掠れて聞こえるほどの小さな呟き、しかし胸の前で作り上げた固い握りこぶしがユーラの気持ちの大きさを表す。

 だがそれはそれとして彼女としても質問をしなくてはならない。三人の身が掛かっていればこそ。

 少しだけ呼吸を整えて先程の質問をもう一度ぶつける。



「それでもう一度きくんだけど、これからどうするの? この街とはお別れするの?」


「……いや……この町に留まろうと思う」



「そっか、お兄ちゃんがそうするなら……」


 目的地としていた亜人の森は大陸全土で見れば比較的近い距離にあるものの、それでも長旅には違いない。

 道中危険はいくらでもある。ジュリは索敵に秀でてはいるが戦闘になった場合、ゼントがほぼ一人でどうにかしなければなるまい。

 そうなるとはっきり言って難しい。逃げるにしても相手がそう簡単に逃がしてくれるはずもなく、出会ってしまったが最後とも。


 頬を殴られた影響からか、ゼントは幾分か冷静さを取り戻していた。しかしそれは感情を押し殺した上での判断だ。

 精神的に見るなら愚策もいいところ。失うものが何もなければ今すぐにでも一人で逃げていただろうが。

 加えて一つ、考えていく内に恐ろしい思考が浮かんでしまう。



「あれ、そういえばジュリは……ジュリは? 仮に俺たちが移動するとしてもしかしてこの町に残るのか?」


 その質問はあまりに今更だが、はっきり聞かねばならなかった。

 ジュリが付いてくることを前提で動いていたが、もし留まると言われたら選択肢が狭まる。


 だが改めて問うてみると幸いなことに彼女は首を振った。


 ゼントは胸を撫で下ろすばかり。いくら時間が経ってもこの家を離れる様子もないから、てっきりこの町から出られないのかと思った。

 彼女が居てくれなかったのなら町の外に出ることなど不可能だ。ユーラと一緒であれば特に。


 そういうことなら、と話を戻す。

 とは言っても結論が変わることはないが。


 


 ――ゼントは結局、町に残ることに決めた。


 あくまで様子見、理解しがたいものに対して恐怖を抱いても仕方がないと、少しだけ冷静さを取り戻す。

 ただ今は町の外に出る方が危険は多いと、そう思った。ただ、少しでも異変が起こればすぐに考えを改めざるを得ない。


 加えて留まるといっても問題が多く板挟み状態でもあった。

 ゼントの家は町の南西のはずれ。言うなれば外敵に一番晒されている場所だ。

 夜は特に警戒を怠れない。故にジュリと協力して就寝の時間をずらして見張り交代する必要がある。


 用心棒でも雇いたいが資金的に難しいし、赤い悪魔相手では気休めにもならない。祈ることしかできないのが事実ではあった。

 ユーラがあれ以来襲われてないことなど。理屈と実際の現象に矛盾が生まれているのだがそこまで思考が行くわけでもなく。




 ……現状やるべきなのはこれくらいだろうか。正直言って他に手立てが思いつかない。

 襲われないと確証が持てなければ尚更。ゼントは一人で空回りしながら思い悩む。


 ゆくゆくの話ではあるが、生活基盤を再構築して継続させるために仕事を探さなくてはならないだろう。

 外には出ず町中の溝攫いでもやれば日銭は稼げるが、それ以前に一緒に仕事をする仲間を見つけなくてはならない。

 だが今更そんなことができるのだろうか。町中でゼントに積極的に話しかける物好きはセイラくらい。



 ただ、彼女が居なくなっただけ……それだけのはずなのにこうも生活が不便になるとは。

 いや、全ては赤い悪魔が元凶なのだ。そもそも奴と初めて協会で出会ったのが運の尽きか。

 しかし考えてみれば仕事を頼りきりになっていた部分もある。自業自得ではあった。


 そういえば、赤い悪魔の正体のことを誰にも話していない。セイラもライラについて特に聞いてこなかった。

 今思えば不思議だ。普通なら真っ先に気になるべきところのはずなのに。



 ――絶え間なくやってくるのは疑問ばかりで、考えても答えが見つからず意味がないものばかり。

 もう時間も遅いし眠ってしまおう、逃避行動と言われようが意識が無い間なら現実の嫌なことも少しは忘れられる。

 それが現状唯一の安らぎだった。結局どうあがいても休息は必要なのだから。


 そしてゼントはなんだかんだ理由を付けては、二人に断りを入れて深い眠りに就く。

 何の因果かいつもの寝床ではなく、以前の場所で寝ることにした。なぜか突然柔らかくなったあの場所で。





 ――その日の夜、彼は夢を見た。

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