第241話『俯瞰』
――その日の夜、彼は夢を見た。
初めはなんてことはない、普通のよくある夢のはずだった。
ゼントは町中を歩いている。誰もいない大通りを一人で。
すると道のちょうど真ん中で泣いている女の子がいる。齢は七にも届かぬほどの。
彼は考えるまでもなくまるで吸い込まれるように近寄って声を掛けた。
髪は首までと短く、茶色でけばけばしくあまり整っていない。服装も貧相でどこから来たのかも見当がつかない。
しかし何故だろうか。何が何でも声を掛けなくてはならないという強迫観念が胸の内に入り込んできたのだ。
「どうしたんだい?」
「…………」
女の子は何も答えない。ずっと俯いたまま、目を手で押さえつけて。開いているのかも分からない。
すすり泣く音をだけが彼女の感情を知る手がかりだった。丹念にもう一度声を掛ける。
「もしかして両親とはぐれたのか?」
「…………」
女の子の髪色を見た時、彼はもしやとも思った。
荒れて艶はなくとも、淡く栗のようなやさしい色。かの相は町では珍しく、かつ心底見覚えがあったから。
しかし当人であることは保証されない。ゼントにできるのはただひたすらに期待を寄せては寄り添うことのみ。
「なぜ泣いているのか、教えてくれないと分からないんだ」
「…………どうして」
「――?」
「どうして、何もかもうまくいかないんだろう……」
俯いたまま女の子は語る。その年にして落ち着き諦観の籠った声。
見た目とは裏腹に、心は年齢に捕らわれていないのかもしれない。
「……もしよければ、何があったのか聞かせてくれないか?」
「……ほしいものが手に入らないの。ずっとそれだけを追い求めて頑張ってきたのに、報われない」
その悩みを単純だとか、子供っぽいと捉えるかは人それぞれ。
しかし霊のように弱々しく、泡のように存在が今にも消えそうで。
ただただ憤り、いや悲しみが耳に寂しく、僅かに木霊するのみ。
ゼントは一つ、ただひたすらに女の子の助けになりたいと思った。
だからか、思わぬことを口走ってしまう。
「うーん……それは物事に執着し過ぎなんじゃないのか? いつまでも追い求めるから苦しくなる」
なんだか過去の自分を見ているようで、それは後悔からの助言のつもりだ。
ずっと死人に執着している己が言えた話ではない、と自身でも反省しつつ。
そして女の子の方も正論が聞きたかったわけではないらしい。
「苦しくてもいい。私の人生にはそれしかない。この世に楽しさがあるのならそれは私が求めるものへのみ存在する」
「あまり幸せな生き方には思えないけども、それがいいってんなら他人である俺が否定することもできない」
返答は自分の境遇と一致するものが多く、だからこそ強くは言えなかった。
夢のまにまに、揺蕩う心はいつもまでも棘が残り続ける。
「――それと一つ分からないことがあるの……」
「なんだ?」
「どうして人間は私の姿を見ただけで怯えて逃げるのかな?」
心傷に浸るゼントに対し不意を突くように、それは突然の転機だった。
女の子は初めて頭を上げてその顔を見せる。ゆっくりと、しかし間を開けずに彼の瞳には映った。
が、振り返って見えたその眼は人のものにあらず、瞳は宝石のように赤く美しく、だが無機質で。
同時に幼くも整った顔立ちを見て確信できた。彼女はライラ――かつての恋人の面影がはっきり網膜に残り。
ゼントは逡巡する。幼い彼女に出会えたことと、今目の前にいるのが自分の知っている彼女でないことに。
だがそれも瞬息には至らず、代わりに彼の中の本能が決断した。だからなんだと言うのだ、何が何でも今すぐ逃げろと脊髄に指示を出す。
両足が動き出したまでは良かった。ところが足が何かに引っかかって背中から転んでしまう。
それを静観していた女の子は嘲るようにぼやく。
「また逃げるの?? 私は理性もあれば対話も可能なのに?」
その問は何に対しての問いか。現在か過去か、あるいは未来の愚鈍な己を見越してか。
同時に何に対しての猶予なのか。対話する意思があればこの場に留まるというのに。
女の子の表情からは一切の感情が読み取れない。怒りでも悲しみでも、あるいは他のものでも。
強いて言うのなら無を貫く意思があるように思える。努めてそんな表情をしているような。
これは夢だとゼントは悟れた。いや、そう考えるしか彼の脳内では恐怖に打ち勝てなかっただけ。
しかしそれが理解できたところで逃げられるわけでも夢から目覚められるわけでもない。
果ては通りの中央に居る女の子、奴がこの世界を支配しているとでも言うのだろうか。
「――私はあなたを襲わない。ただ誤解を解きたいだけ……話し合いをして、それでだめなら私は別の形で願いを叶えるでしょう。もし初めから話を聞こうともせず私を拒絶するなら……こっちにも考えがある。もうずっと耐えてきて我慢の限界なの、だから少しは許してね」
恐怖の対象は表情を変えずに近づき、道の真ん中で戦慄し目も開けられない者に対し耳元で囁く。
その声色は笑いと哀傷とが入り交じったような、違和感極まって気持ち悪さすらも感じる。
ゼントは終始目を開けずにいたので何も見えなかったが、きっと笑っていたことだろう。
「じゃあまた会いましょう、二人の未来のために。私は今できることをする。だからゼントもそれまでに私を見てもすぐに逃げないように心の準備はしておいてほしい」
続けざまにどこか他人行儀語る。誰がそんなことをできるのかと捨て台詞を吐きたい気分だった。
だが場を操作する権利もなく、一方的に声は遠退いて行き、彼の視界には真の暗闇が訪れる。
自分の夢なのに、ただただ流され続けるままだ。
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