第239話『贖罪』

 



 ――ゼントは翻弄され切って疲れた旅人のように壁際の椅子に腰掛ける。


 彼の顔は幾分か老けたように思えた。満身創痍にもかかわらず誰も救いの手を差し伸べられない。

 より広く、深く、底なし沼に引きずり込まれる。もう理性を逸脱する言動があってもおかしくなかった。


 手足にはもう力が入らない。動かせないわけではないが泥になったかのように感覚が鈍っていく。他人の体を無理やり着ているように。

 恐怖か、あるいは際限のない喪失感か。原因は分からない、抗えない現象を前にして楽になりたいとすら思った。

 ただただ自分が自分でなくなったかのように俯瞰している。まるで他人事だ。


 しかし、そうなった理由だけは比較的簡単に分かる。なぜならたった数分の間に理解に苦しむ出来事が三つも起こったから。

 その謎がすぐにでもはっきり分かればよかったのだが、しかし一遍に考えていてもまとまらず埒が明かない。

 とりあえず時系列順に考えを固めていこうと思った。まずはセイラが突然現れた件について。



 普段人間の気配があればジュリが真っ先に気が付く。聴覚か嗅覚か、いずれにせよ亜人の高い感覚器官故だろう。

 現にゼントが帰ってくるときはいつも扉の前で尻尾を振りながら出迎えてくれる。その者の正体まで分かっているのだろう。


 だから仮に来客があってもすぐに隠れて大抵の問題は回避できるはずだった。

 なのにセイラは気が付くと部屋の中央に佇んでいたのだ。まるで突然そこに現れたかのように。


 気配を消していた、あるいはジュリが反応するよりも早く部屋にやって来たのか。僅かな可能性として浮かびはするがどちらもあり得ない話だ。

 当てはまる言葉は神出鬼没、最近にも似たような人物をどこかで知っていた気がするが、ともかくゼントはジュリに詰め寄る。



「ジュリ……どうしてセイラに気が付かなかったんだ? いつもならすぐに……」


 しかし彼女はは唖然とした顔で首を左右に振り続けるだけ。まるで本人も気づかなかった理由が分かっていないようだ。

 気が抜けていたのか、赤い悪魔に襲われた直後だというのに。


「とにかく気を付けてくれ。一番被害に会うのはジュリ自身だし、俺たちも少なからず無事ではいられない。いわば一心同体なんだから」


 ゼント自身も気を付けていたつもりだが、やはり一番頼りになるのはジュリだった。だから筋違いだとしても強く行ってしまう。

 そうはいったものの、彼女はどこか納得いかない表情をしていた。自分はしっかり見ていたとばかりに眉を潜め不満を露骨に示す。



 だがゼントは半ば無視する。それ以上に考えることがあり、それで済ませるしかなかった。

 次に不可解なことはライラに渡したハンカチが返って来たこと。


 これが一番の謎、恐怖という感情もようやく慣れてきたかと思えばまた違った角度で抉ってくる。

 なんでもいいから別のことを考えていないと頭がおかしくなりそうだった。

 自身の記憶を操作できるものなら最近あった化け物との出来事を奇麗に忘れてしまいたい。


 ……もう分からないことしかない。考えるだけ無駄に感じた。

 今自分は生きている、それでいいではないかと。

 一旦何もかも無かったことにして次に行こう……



 そして――最後にセイラのあの態度。

 今までは自分の感性がおかしくなったのだと言い聞かせていたが、流石にもう疑いようがない。

 あれではまるで別人のようだ。ただでさえ性格が変化しているのに、その上秋の空のように移り変わりが激しく見切れない。


 何か悪いものでも食べたのか。これは本人に直接聞けばいいのだろうが、今度出会ったときに質問してみようか。

 さて、疑問点はこれだけ。と言えば聞こえはかなりいいが、実際は何も分からないし解決もしていない。

 ここまでくるともう町から逃げ出してしまった方がいい気がする。新天地で全てを上塗りしてほぼ別人として生きた方が良いのではないか。



 自暴自棄にも近い感情をしながら、ふと恋人の顔を思い出した。もし彼女がここに居てくれたのならきっといい妙案を出してくれるに違いない。

 それで今までずっと上手く行っていたのだから、疑いようのない事実であった。


 正直言えばここ数日、彼女のことを毎日想えていたわけではなかった。だがそれも日常に取り戻しつつある。

 頭の中だけでも感じてさえいればあの頃に戻ったような気になれた。ごく一般的に見れば悪い方向に進んでいるが。


 一度掴んだ瞬間妄想は止まらなくなった。あの頃の思い出が五色の虹のように頭に舞い込んでくる。

 それを人は幻と呼ぶのだろうか。しかし現実逃避と判り切ったうえでゼントは、光り輝く世界に深々のめり込む。

 脳内を慕う彼女で満たされ、魅了され、唆された。礼拝か崇敬か、あるいは愛欲ともいえる感情に溺れたくもなり。


 静かな部屋の中で壁に寄りかかり、一人で虚空を眺める。

 手には受け取ったハンカチが今にも零れそうに棚引いていた。

 しかし放り捨てるわけでもなく、固く握られている。



 周囲のジュリとユーラに目をくれるわけでもなく、

 心は熟れきった果実のようにぐちゃぐちゃで。

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