第235話『目褪』
――頭と首と腰に痛みに苛まれながらゆっくりと目を開ける。
見知らぬ天井、聞き覚えのない雑音。次にゼントが目覚めたのはそんな場所だった。
いや、体を起こして周囲を見渡すとどうにも見覚えがある。ここは協会の医務室だ。
数少ないベッドの上に寝かせられ、瀕死の虫のように放置されている。
窓の外から差し込む光を見るに、日はもう地平の彼方へ沈みかけていた。
なぜ自分がこんなところに居るのか、朧気ながら記憶を思い出そうと俯く。
そしてしばらく宙の虚無を眺めた後、我に返ったように自分の首を触って確かめ始めた。
「――ッ!!」
首元にある奇妙に柔らかい感触、彼は声すらも出せず再び絶望を味わわされる。
ここへ来る前に手鏡に映った姿を見た赤い肉片。首に完全に癒着しきって、爪で無理やり隙間を作ろうとするが一瞬でも離れる様子はなく。
途端に首が絞めつけられるような感じがして、一息吐くごとに呼吸が苦しくなった。
両手は無意識に刃物を探し始めるが何もかも遅かった。
心は落ち着きを取り戻し、死への恐怖を自覚してしまっている。
道具が見つかっても目覚める前のようにはいかないだろう。
どうすればいいのか。この人間の急所に張り付く謎の物体は嫌な予感がする。
意識を持って生きているようにも見えた。もしこれが締め付けでもすれば簡単にあの世に行けるだろう。
殺せと化け物に命じたり、得体のしれない恐怖のために自分自身を傷つけようとしたり。
かと思えば今は死を少しでも遠ざけたいと考え行動している。いや、ただ生きることから逃げているだけかもしれない。
ともかく言動が矛盾だらけで訳が分からないのだ。それは彼自身が一番よく分かっていることでもある。
しかしどれほどおかしくなっていても自分自身では気づくことができない。
内情にしか現れてないため周りが察することも無い。心が読めるなら話は別だが。
本人は違和感を持てても変わらず、ただひたすらに泥沼の底へ堕ちていく。
「――ねえ、ゼント……」
横から間の抜けたような艶めかしいような、そんな優しみの籠る声が耳に突き抜ける。
言葉自体は特別なものでもないような気がするが……
しかし本能により全ての神経が過敏になっている者にとって、それは仰け反って驚くに十分すぎる出来事だった。
「ああ、驚かしちゃった…? ごめんなさい。私ったら気も遣えないなんて……」
そこに居たのはセイラだった。口元に手を当てて心配そうに覗き込んでいる。
何というか、堅さが崩れた雰囲気は相変わらず、やや子供っぽいような。しかしゼントにとっては些細にもならない変化だ。
彼は正体が分かって放心状態。しばらくできたのはただ眺めることだけ。
「……どうして俺はここに?」
一刻も早く町から逃げ出したいのに、妙に落ち着きを装っている自分を俯瞰しながら。
そして数十秒の長い沈黙の後、声に出せたのは一つの質問だけだった。
「――ここは安全よ」
短くそれだけ、聞きたかった内容とは全く違う言葉が返ってきた。
また数秒間の時間を掛けて状況をかみ砕く。しばらく経ってようやく何の話をしているのか掴めてきた気がする。
何処でこちらの状況を聞いたのか、不思議に思っているとちょうど正面の辺りから別の人の声がした。
「――お兄ちゃん?! 目が覚めたの!?」
その主は気絶する直前、叫びにも似た声を上げていたので聞いた瞬間にすぐに分かる。
ユーラ――ゼントの視点では突然現れたように見えて実は部屋の隅に初めから居た。
そんなことすらも認識できなくなるほど意識は疲弊し混濁している。
「あれ、ユーラなんでこんなところに……?」
「気付いたら裏口のところで気を失ったゼントと一緒に居てね。聞いても何も答えないし、多分彼女があなたをここまで運んできたんじゃない?」
目を遣るとユーラは両目を手で塞いでいる。おそらく周りの全てが悍ましいものに見えるからだろう。
セイラの補足は話半分に、家内が傍に居ることへの安心と同時に襲われる恐怖。そしてもう一人が見えないことへの不安が頭を過る。
「そうなのか……でも良かった。そういえばジュリは……」
そこまで口に出して白い獣人の話は思い留まった。ここにはセイラが居る、ジュリの話題を出すことはできない。
しかし推測はできる。きっと家で待機しているのだろう。
そしてセイラは分かってないだろうが、おそらくここまで運んでくれたのも彼女。人目の少ない路地を通って……流石にユーラ一人で背負っては無理だろうから。
「――あの子のことは大丈夫、何も問題はなかったから」
どうにか気持ちを落ち着かせているとユーラが近付いて耳打ちをしてくれた。
その心温まる優しい声に感化されながら、できることとして状況を整理する。
一先ず首に付いている物のことは忘れよう。生き残るために最善の方法を考えねば。
ゼントはちらと正面のユーラを見る。何より自分は彼女を護らなければならないことだけは、今更になって改めて認識させられた。
寧ろ少々冷たく接してしまっていた自分が愚かしいとすら彼は感じる。
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