第233話『固着』

 



 ――ゼントの家はその日、惨禍に巻き込まれたが如く慌ただしくなっていた。


 全ては彼自身の言動により。何度でも言うがゼントは今、正常な判断を失っている。

 ライラが正体を現してから今に至るまでにも、幾度と早とちりを繰り出したことか。

 結果的に不必要な行動を起こし、身の回りの者すらも危険に晒そうとしている。


 ゼントの頭は間違った方向へ聡く機能する、これからの行動について具体的に。

 もうこの時、既に彼は人として狂っていたのかもしれない。頼れる存在の完全なる消失と生まれて初めて感じた恐怖故。

 全ては少女の形があのように変容していき、人としての形をとらなくなったからだ。




 とにかくまずは遠く離れる。もちろん怪物から逃げるために。しかし逃げるとは言っても何処に逃げる?

 当然ながら町の外に行くしかない。しかし近い町では決してあってはならない。

 北か南か、あるいは東、帝都または王都など人が多いところが望ましいか。


 だがまだ問題がある。金は多少ならあるが三人も居ればすぐに底をつくだろう。それにジュリはここらで見つかると厄介だから姿を隠す必要がある。

 であればどこへ行くにしても厳しい旅になるだろう。となると亜人の規制が緩い王都側か。

 いずれにせよ金はあるに越したことはない。心の余裕のためにも。


 そしてこれは人としてあまりやりたくないが、隠してあるセイラの金に手を付けるという方法がある。

 彼女も取りに来る様子はないし今は一刻を争う事態。だから……持ち逃げすることにはなるが、ここは開き直って目を瞑ってしまおう。

 自分たちの安全には代えられないのだ。セイラには今後一生謝り続けよう。


 文字通り人なんて瞬殺できる化け物の近くにはいたくなかった。正直言えば協会へ報告する時間すらも惜しい。

 書置きを残せば気づいてくれるだろうか。セイラ辺りが気づいてくれそうだが。


 ――とここまでが彼の考えていたこと。だがその内容は些か常軌を逸したものだ。



 ゼントがやろうとしていることは町の人間を見捨てるようなものだった。

 化け物が自分以外の人間に手を出さない保証などない。つまり、行動は実質的に他者に危害が及ぶことも厭わないというものだ。

 圧倒的な彼らしからぬ行動、全ては逸脱した狂気故に。


 そしてゼントは考えていく内に逃げ先を一つ思い付いていた。その場所とは大陸最南端の亜人の森。

 ここからもそう遠くはないし、亜人たちは人間にも寛容だと聞く。必要に応じて助けてもらうこともできるだろう。

 仮に追われたとしても人間には敵わない相手でも亜人なら……いや、そこまでの助けは虫が良すぎるか。


 しかしジュリの故郷もおそらくこの森のいずれかであろうし、人間の町に住み続けるには無理がある。

 そこが一番安全かと問われれば返すのが難しいが今はこれが最善のように思われた。



「――お兄ちゃん、ところで……」


「聞きたいことがあるのかもしれないけど今は後にしてくれるか? 何があったかは後で全部説明するから」


 赤い悪魔が出たことはすでに伝えた。であるというのにユーラが呑気に尋ねようとしてくることに少し当たる。

 だがゼントはまだ気づいていなかっただけ。その体に忍び寄った更なる脅威に。

 ユーラがゆっくりと手を挙げて彼の首元を指さす。



「そうじゃなくて……お兄ちゃんその“首についてるあかいの”ってなに?」


「えっ?」


 言われて初めて我に返り、不意に目を見開く。唐突な指摘に恐る恐る首元に手を掛けると……

 ユーラの言う通り何かがある。指で摘まめるほどの大きさで、形はどうやら横に伸びていて首を一周しているらしい。

 そう気が付いた瞬間、はっきりと何かがあるという感触を首に覚える。同時に若干の痒みも。


 取り外そうとしても固い弾力があってできず、自分でその正体を目視しようにもちょうど死角。

 当然記憶にない物体。だが現状で確と分かることが一つ。その何かは赤いということ。

 ゼントは少し前の光景を思い起こしてしまう。少女の変容した姿を。


 嫌な予感が走り、今までの思考を棄て去り慌てて家の中に駆け込む。続け様に家具の上にあった手鏡を乱暴に手に取る。

 ユーラの家の物を引き取った時に含まれていた道具、自身の姿を確認できる唯一の品だった。

 そして彼は鏡に映った己を見ては驚愕する。首元の変わり果てた異形の様よ。



 見ると間違いなく赤い何かを確認できた。

 ただゼントの意識は混乱し呼吸も激しくなる。


 何故なら――首に付いていたのは赤黒い様相。


 改めて確認すると生肉のような感触で微妙に生暖かい。その正体が何なのか、いつ付いたのかは分からない。

 だがまず間違いなくあの化け物の体の一部であることだけは理解させられた。

 なら途端に彼の動悸は激しくなり意識が恐怖で朦朧とするのも自明の理。


 頭が真っ白になって何も考えられなくなり、手から滑り落ちて地面で割れた手鏡にも気にする様子はなく。

 とにかく大至急取り外さなくてはとだけ頭に過った。急いで引き剥がそうと両手は円状になった肉と首の隙間に指を入れ込む。

 そして思いっきり引っ張った。頭の部分を通り抜けるか、引き千切ってもいい。



 ――そんな簡単に外せるのなら良かったのだが……


 あれか、首に張り付いていた肉には意識のようなものがあったのか。

 思いっきり引き延ばしたその時、掴まれた部分をくねらせて手から逃れた。

 そして、あろうことか首の元の位置に戻ったかと思うと皮膚と自身の体を意図的に癒着させたのだ。


 ゼントは慌ててもう一度肉に手を掛ける。しかし、首と完全にくっ付いてしまっていて今度は摘まめもしない。

 首にある不快な感触、このまま締め上げて殺されるのか。

 彼の恐怖は更に増す、正体不明の化け物が体に張り付いている。もはや錯乱状態に陥っていた。



 何を思ったのか辺りを見渡し、そしてすぐ真下の地面に目を付けた。

 先程落として割れた手鏡の破片、その一つを手に取ると……鋭く尖った切っ先を、迷わず己の首に向ける。

 下手に恐れて時間を掛けると余計な躊躇いが生まれると彼は思った。だからそれをするとどうなるかもよく考えずに、抉らんと首に突き刺そうとした。



「――お兄ちゃんやめてッ!!!」


 ゼントがしようとしていることは自殺も同義、だが間一髪のところで救いの手が入る。

 止めるためにユーラの声だけではまだ足りない。物理的に制したのはジュリだった。

 荒々しくも最善手、体当たりをして身体能力で吹っ飛ばした。


 彼は壁に頭をぶつけて簡単に意識を手放す。あとで思えばこれが至上の幸いだったのかもしれない。

 同時に狂気を毒々しく開花させて心がゆっくりと崩れていくのだが……



 天道の輝きは玄関より激しく斜めに差し込んでおり、それに負けず劣らずの激動だった。

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