第232話『余波』
「――ゼント、最後のお願い。私を傍に置いてくれるだけでいいから……どうか」
「なら俺からも最後のお願いだ………………さっさと手を放してくれ」
力なく懇ろに頼み込む少女に対し、苦痛の顔を浮かべながらゼントは何度でも氷のように突き放すだろう。
本来篤い彼が冷たすぎるのか、あるいは少女が今までひた隠しにしてきた報いなのか。
命令に背き言うことを聞かない彼女。次いでもう握る手の力すら籠ってないことを見るや、腕をしならせて引き剥がす。
そして掴まれた手は解放されたものの手の平には麻痺と虚脱が残された。それは何故か。
わざわざ理由を探るようなことはせず、自由の身になったからには外に向かって逃げ出すのみ。
未だ少女は罪の意識を抱えているのか跪き俯いたまま、しかし放された手はずっと宙に浮いていた。
ゼントが周囲に出来た肉のような壁をよじ登ろうとした時、どういうわけか真正面の一部分。ちょうど人一人が通れそうな箇所が崩れ去り、道が造られた。
青年はちらと後ろを振り返る。そこには先程と何一つ変わらない少女の姿があった。
その片腕はゼントの方向へと静かに差し伸ばされ、未だ想い人の帰りを待っているかのよう。
薄暗い中見える表情は疲れ切っていて、短く切られていたはずの髪は直ってはいたが滄浪と潰えている。
だがもうそんなことで心変わりなどしない。壁が崩れた理由も特に探ろうとはせず、これ見よがしに一目散に逃げだした。
額には脂汗が滲んでいた。紛れもなく緊張と恐怖から来るものだろう。
長い時間を掛けて森を抜けるも周囲に道らしき道は無く、顛沛流浪になりながらも知っている地形を見つけ、何とかルブアの町に戻れる。
逃げ切った歓喜とは裏腹に、朝食べた物も戻る途中で吐き戻した。そして、少女が言っていた襲撃者とやらも道中会うことはなかった。
◇◆◇◆
――場所は変わってここはゼントの家、半年ほど前から彼が愛用している住処。
二階部分は廃墟そのものだが対して、一階部分は石造りのごく普通の見た目を呈していた。
それはゼントが所帯を持つにあたって家を修繕したからだ。吹き曝しだった壁や天井も直って、彼の想いと努力が窺える。
その見違える建造物の裏方、森との間の開けた場所にユーラとジュリの姿があった。
普段は極力屋内に居るはずの彼女らがどうして外に居るのか、一人の想いを叶えるためである。
「やった! これだけ弓が当たるようになれば、ユーラもお兄ちゃんと一緒にお仕事できるよね。そうでしょ、ジュリ!?」
「あ゛う゛っ!」
喜んでいるユーラに対し、隣で見ていたジュリが仰々しく声を上げる。尻尾を大きく振り上げて見ているだけでも微笑ましい。
一見すると彼女がユーラに対して弓の指導をしているように見えるが実際その通りだ。ゼントに隠していたのは驚かせたかったから。
ユーラの企みを一言でいえば冒険者として復帰して、そしてゼントとパーティーを組むこと。
それは純粋に長い時間一緒に居たいという気持ちもあれば、最近は冷たくなってしまった兄に対して振り向いて欲しいという欲求でもあった。
そのために失くした記憶を思い出そうとしたが、安易に上手く行くはずもなく。
かつて取り戻せないことに苦悩し悶え苦しんだとて現状は変わらず、それでも何とかここまで来る。
弓の精度は以前と全くとはいかずとも、だいぶ腕前を取り戻していた。
冒険者の復帰はゼントも望んでいたこと。後はこのことを報告して喜んでくれることを祈るだけ。
あわよくば風説の流布でもして黒い女を追い出す。そんなつもりだったのだが――
「――あれ、お兄ちゃん? いつも遅いのに今日は早く帰ってきてくれたのかな? でもどうしてあんなに顔色が悪そうなんだろ……」
裏に作った簡易的な稽古場、物音がして家の中を覗くと昼間だというのにゼントの姿が見えた。
しかし彼女の発言の通り顔色が優れずひどく焦っているようだ。そして目線が交差すると急いで裏手へ回ってくる。
焦っている理由は分からずともこれは良い機会だと思った。
だから真っ先に喜び自身の腕を伝えようとした。
「お兄ちゃんお帰り、ねえきいてほしいの! ユーラね、弓の練習をして的にも当てられるようになったの、だから……」
「――ああユーラ、ジュリ、良かった。すぐに家の荷物をまとめてくれるか!?」
だが返って来たのは予想外の一言。自分の話が遮られたこともありユーラの顔は明け透けて不満を表す。
いつもは何も言わず従う彼女だったが、この時は流石に聞き返してしてしまう。
「え、どうして……?」
「悪いが今は説明している暇はない。ユーラを襲った赤い奴が来るかもしれないから早く……!」
「え……」
そのあまりに唐突な報告にユーラは短く声を漏らして絶句した。具体的に襲われた記憶はないがそれだけはなぜか体が震える。
傍らのジュリも恐怖と動揺を隠せていない。彼女に関しては僅かに薄い笑いもあった気がするが。
とにかく、ユーラはその言葉を聞いて唾をごくりと飲み込むと急いで家の中に戻った。
あるのは焦り、ただそれのみ。自分の先程までの努力すらも投げ捨てて、最低限の物をまとめ始める。
この時、ゼントもゼントで意識が混濁するほどに焦燥しており、正常な判断が下せずにいた。
でも、だからこそ深く考え込まずに済んだのかも知れない。ライラという心惹かれる女性を失ってしまったという絶望に。
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