第231話『喚起』

 



「ゼント……私との約束、忘れちゃったの?」


 真っすぐに佇んでいたのは赤黒いきみではなく、どこからどう見てもライラであった。

 彼がかつて気持ちを忍ばせることなく、そして狂い死にしてしまいそうなほど愛した者が。


 服装はおろか髪型も同じ、更に最悪なのは彼女の背中に携えられたその大剣、恋人の物と何一つ変わらない魔術具。いや本物なら当たり前か。

 極め付きはかつての記憶と変わらない様子。そしてゼントの心が揺らぐのも当然だ。


 片手で振り上げた剣は早々に落ちて地面に突き刺さる。最後の抵抗の手段も堕ちた。

 しかし責めは一方的かつ独善的にやってきては、その手を緩めることも知らず。



「――ほら、今まで隠してたんだけど実は私なの。あれだけたくさん一緒に居たのにゼントは忘れるわけないよね?」


 笑顔の奥に引きつった頬が。不安に身を捩じ切られ、涙すら堪えきれずに僅かに漏れる。

 少女が通常取りえない手段を用いるとは。藁にも縋る思いだったことは容易に窺えた。

 だがゼントは動揺でそれどころではない。必死に状況を整理して、それでも頭を抱える。



「嘘だ……いるわけない、こんなところに」


 もう限界だった。散々頭を働かせすぎた結果、はなぢがつらつらと唇を伝う。

 物事を新たに解釈する能力は失われ、思考は初めの場所から一切動かなかった。

 水底に沈みつつも、最終的に導き出された結論はある意味最善の正解だったかもしれない。



「――いや、いるわけがないんだ。だからお前は偽物だ」


 ゼントがはっきり言い放った瞬間、少女の表情は更に悲しげにそして険しくなる。

 だがまだ彼女もあきらめることはしない。一縷の望みにかけてよそよそしくも説得を続けた。



「せっかくあなたのところへ帰って来たというのに、どうしてそんなこと言うの?」


 体の基礎は今にも崩れ落ちそうだったが何とか耐えているようで、全身を痙攣させ手は不規則に泳ぐ。

 もう少女とて限界だったのだろう。それでも希望を捨てることだけはどうしてもできず……



 だがゼントはもはや狂疾の域、一度決めてしまったことを後から覆す思考はもう失くしてしまっていた。

 故に放ったのは言葉ではなく凶器。袂は既に分かれたとばかりに、地面に突き刺さっていた剣を今度は真正面から振り下ろす。

 繰り出す彼の顔には苦しそうに、でも無理やり作った笑みがこびりついていた。


 この時、病魔とも思える思考が頭を支配している。妄想、妄執、あるいは譫妄。

 強大な力の持ち主だ。その優越で無力な己をずっと傍で笑っていたに違いない。掌で踊る自分を遠目から嘲って笑っていたに違いない。


 自尊心の欠如から来る被害迷妄。戯れとも呼べないのが今の状況。

 ただただ常識を超えた光景に思考が追い付けず、対処的行動しか取れなかったのだ。



 放たれる斬撃は剣自体の重みが無いので軽く、しかし切れ味が弱みを補う。

 ここでもし少女が抵抗したのだとすれば、剣が下まで振り切る前、それどころか頭部の表層で刃が弾けたはずだろう。

 しかし彼女は抵抗しなかった。体に損傷が入るわけでもなければ、偏にもう無駄とも悟ったのだから。


 縦に真っすぐ、いや少し斜めか。刃はちょうど首の根元の辺りまでを奇怪に抉る。

 絶妙な感触を確かめつつ、隙間から見える断面は鮮やかとも言える漆黒を見た。

 同時に彼女の……ライラの笑顔が歪に崩れていく。まるで有終の再現のように。



 心臓が激しく締め付けられる。筋肉すらも縄で無理やり結ばれたように痛みが走った。

 例え架空であっても二度も恋人の死を見るのは流石に堪える。相手は化け物、きっとこんなことでは死にはしない。

 でも、だからと言って心を痛めない理由にはならないだろう。決して化け物に同情したわけじゃない。


 誰でもいいから心を氷にしてほしかった。今こそ揺らがない鈍い心が必要だ。

 そうもあれば感情そのものが要らないのかもしれない。人間は理性を手に入れた生物なのだから、本能を捨て去って理性だけで生きていけばいいと考えた。

 知性を以て論理的に効率を追い求める姿。まるで合理への狂信だ。


 ここで狂信という言葉が出てくるとは、なんとも盲目的で理性を獲得した者にしては愚かだ。

 だがその矛盾した例えが寧ろ良い。整然と恋人の形を斬った後、我ながら出した結論に対しゼントはほくそ笑んだ。



「――うあっ!」


 だがその愚者も、突然視界が真っ白になったことで思考が弾け飛ぶ。目に痛みが籠るほどの光。

 これは彼の奥底に眠る罪悪の意識が引き起こした幻覚なのか。あるいは実際に眩しく発光でもしたのか。

 いずれにせよ、彼の意識は消えたことだけは確からしい。




 やがてどれくらいの時間が経ったかも分からないほど経過して、気が付くと目の前にはライラの姿があった。

 かつての方ではない、黒く儚い現在の方だ。首を切ったと思っていたはずなのだが、頭部はやはり今も鎮座して。

 ただ項垂れた子どもように地面を見つめて跪いていた。救いも余裕もそこにはない。


 しかし、握ったゼントの手は未だ放されていなかった。

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