第228話『失望』
「違うの待って――!! ゼント!!」
それは深い深い森の中での一幕。
ライラの…いや、ライラと呼ぶべきなのだろうか。とにかく少女の姿をした者の悲しげに満ち満ちた声が響き渡る。
一時の平穏を得ただけで辺りには先程の敵やどんな魔獣が居るかも分からない森をゼントは突っ走ってゆく。
「逃げないで! ……いや――」
『ニガサナイ……!!』
少女が得た約束を守るためにも彼を一人にはできなかった。だからすぐに後を追う。
知音との過去を傍らに投げ捨てるが如く、痴れ人は狂いながら息を殺し逃げる。
だが彼女にとっては全速力の人間一人を捕まえることはいとも容易い。加えて彼が木の根に躓いて転んだのなら尚更。
ゼントが振り返ると、いつか見た強膜を黒々しく染めて。もう人間としての形を留めることすら諦めた少女がそこには現れた。
先程から感じていた動悸はより一層激しいものになり、視界は明滅しながら紙切れのように破れていく。
もう頭の中がいっぱいで、もはや本能だけで体を動かしているのだ。
彼女は何だ? 亜人なのか。だとすれば見たことがない種ではあるが、彼らは星の数ほど種族が分かれている。
ゼントは必死に理解しようとしていた。しかしそんな細かいところはどうでもいい。
少なくとも彼の目に映ったは少女が人間でないこととあの赤い悪魔の体の部分だけ。
ユーラを壊し、自分自身もあれだけ精神的に苦しめられたのだ。とにかく逃げなければと直感で全身が動く。
それが火照った胸を寄せたライラであっても恐怖を呼ぶ存在には敵わない。
気が付くと周囲は赤黒い壁で覆われていた。逃がさないようにするためだろうがよく見ると肉塊のようにも思える。
その中心に少女だった者は居た。かろうじてライラの姿を保ってはいるがそれももう上半身だけの話だ。
彼女の下半身は……もはや言葉だけでは説明がつかない。まるで動物の生皮を剥ぎ取って見えるような赤い肉の集合体だった。
ところどころに血管のような管が浮き上がって、怒張したその周りを何か白く結晶化した固い鱗のようなものが固めていた。
美しくもゼントの恐怖を加速させるには十分すぎる不気味さも共存させている。
その現実離れした光景に咄嗟に口元を抑えるも、
唯一彼女だったと思い出させるのは、今となっては頭頂部の銀の髪飾りくらいか。
互いを、今一歩深く知ってしまったがために起こった悲劇。
ずっと知らないままでいれたのなら、こんなことにはならなかったのだろうか。
両者向き合ったまま暫しの沈黙。
どちらからも鋭い双眸があれど声は掛けない。
いや、なんと声を掛ければ分からないのだ。
「お前は何者だ? ずっとずっと俺を騙していたのか……?」
やがてゼントの方から口を開いた。
だがもう声色は嫌悪と染まり、優しかった青年の面影はない。
「ち、違う! 騙すとかじゃなくて……私は人間で……!」
常の冷静さが取り柄の彼女はもういない。狂おしいほど焦った様子は諧謔的でもあり。
今更になって正体を現しておいて、よくもまあそんな見え透いた嘘を言える。まだ人間の形を保っていれば言い訳も通じたものを。
ゼントの頭の中にはもう真面に言葉など届いていなかった。自身の死を確信しており、あくまでこの会話は酔狂の類い。
落ち着いているように見えて実は呼吸がこれ以上ないほど荒く、今にも過呼吸で手足の痺れすら感じている。
恐怖はもはや憎悪へと変わりもう憎悪へと切り替わる。その証拠に彼の口からは状況に合わない単語が出てきた。
「つまらない」
「本当なの! いいから見て! ほら!!」
少女の目には必死に希望を模索する意思だけが残る。
そう言ってゼントの真上までやってくると、どこから取り出したのか湾曲した小刀を取り出し――
――あろうことか自身の前腕を縦に真っすぐ切り裂く。
飛び出してくるのは血の華、温かく鮮やかな赤で確かに人間の血のようにも見えた。
人間の証明方法としてはあまりに非常識。常軌を逸していた。
噴き出しては雨のようにゼントの全身に降り注ぎ、だがその血脈の滴りも彼には響かない。
「もう御託はいいよ。早く殺してくれ」
そこにもう怨嗟はない。だからかは分からないがゼントは至極沈着でいられた。
恐怖を振り切ってしまったというだけでなく沈思な理由はもう一つ。
以前ライラが迫るときに感じた殺気のような気迫を感ぜられないのだ。
だからと言って今目の前にいる少女は殺気なんぞ出さずとも、人なんて赤子の手を捻るが如く簡単に殺せる。
今もなお腕から血を流しながら立っているのに正気で居られるのが化け物の証左だろう。
死への恐怖は……そこまで感じない。抗えない死なら自殺にはならない。
だからこれはあの人との約束を破ったことにはならない。
「ゼント、信じて! 今外にゼントを狙う敵がいたの! 今は一緒に逃げるのが先、そうでしょ……!?」
「もうどうでもいいから楽にしてくれ。でないと俺がお前の首を斬ってやる」
無様に尻もちを搗いて腰を抜かしている状態でも、ゼントはしっかり言い放って腰の剣に手を掛けた。
彼の頭の中にはいくつかライラの考察が浮かんでいたが、少なくとも目の前にいる少女はライラではないと結論づけている。
彼女に見た目を寄せただけの赤い悪魔、ユーラの仇だ。だから剣を振ることにも今なら躊躇いは浮かばない。
「…………ゼントの気持ちが少しでも晴れるなら、本当の本当にやりたいなら何でもすればいい」
若干の諦観の念を抱きつつ、少女は目を細めてそう言った。
そこには自分が死ぬなんて言う恐怖はありもしない。
だがしかし、はっきり言ってゼントが思ったことは一つ。
――興覚めだ
彼は厭う思いを全身に込めて、化け物の首を刎ねた。
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