第216話『絶遠』

 



 筋肉が痙攣していうことを聞かない。些細に触れてくるそよ風ですら今は煩わしく思う。

 しかしそれでもゼントは追行しなければならない。やるべきことはそう、ライラに髪留めを付けてやることだけ。

 文字にすると大層簡単なことに思えるが彼にとってはそうではない。この表裏一体の気持ちの出所も、名前も知らないのだから。



 でも、そこから動きは速かった。震える手をもう片方の手で無理やり押さえつけて、呼吸すら漏らさず髪を捉える。

 そしてまるで布に縫い針を通すかのようにスッと重い前髪を絡めとって、そのままの勢いで横の髪に止める。


 本来であればもっと慎重に事を成すべきだった。だが軽薄な動きだったのでしっかり止められていない、というわけでもなさそうだ。

 ゼントはその瞬間の記憶を欠落させていた。頭が動きすぎて肝心の視界の情報を処理しきれなかったのだ。

 意識がはっきり戻って、よく目を凝らすと別人とも思える者が目の前には居た。



 前髪が晴れて隠れ気味だった片目がよく見える。以前は風が吹かないとはっきり見えなかったのに。

 そして髪型が変わったので印象がかなり変わった。以前はどこか虚ろげで、払えない哀愁漂っていたのだが、一言でいえば今は愛らしさがより増した感じだろうか。


 この場に鏡が無いので、付けている本人の知るところではないだろうが、ゼントの心は言語化できない期待と高揚感が溢れていた。

 人間らしさという点においても見違えるよう。何より漆黒のような髪に際立つ銀が良い。色は派手過ぎず、しかし主張は核として怠らない。

 小さく感嘆の声を漏らすのを最後に、呼吸すらできずに見入っていた。



「――もうおわったの、ゼント?」


「ああ……」


 ライラの問いかけに対しても心ここに在らずな対応で、小さく息を吐くと同時に言う。

 反応という反応が薄いのでライラは懐疑的な目でもう一度聞き返してきた。



「私、髪飾り、をちゃんと使えてる?」


「うん、大丈夫、すごく似合ってる……」


 本来であればこっぱずかしくて言えない乙女のような台詞も今なら流れるように出てくる。

 そして彼はあらゆる感情と思考を放棄して、ただただ見とれていた。

 その顔はまず間違いなく美しさではなく、異性としての魅力に惹かれているものだと分かる。


 流石のライラも、ゼントの視線がいつもと違うことには気が付くようす。訝しげな面持ちで、しかし疑問を持ちながらも得心いったのか真顔で頷いている。

 彼女は最初から美貌という素質はあったのだ。ただ今なおも素養が無かっただけで。

 そして彼もたった今ようやくライラの外見に触れた。ここまで感化されたのはサラから賜った言葉が一番の原因かもしれない。




「じゃあもういい? 使い方は分かったから外すね」


「おい……! なんでだよ、せっかく俺が付けたのに」


 身勝手にも、何の断りもなくライラは素早く髪留めをとっては懐へ忍ばせる。

 留まっていた髪が離散して元の容姿に戻ったのは言うまでもなく、そしてゼントの驚きも然り。

 すると彼女は少しだけ呆けた顔をしながら一言。



「……大事なものだから、ゼントと一緒に居る時だけ付けておくね」


「なら、今は二人きりだろう。付けてもいいじゃないか」


 ゼントは自身のおかしな情動に違和感を持ってはいた。気持ちが嵐のように切り替わり、浮き沈みが激しいと。

 しかし理解していたからといって抑えられるものでもなく、ライラが髪飾りを勝手に取り外したことに対しての不満を露わにする。

 それを見た彼女はすかさず提案した。ちょうどよい落としどころだと狙いをつけたかのように。



「だったら明日にでもお仕事に行こう。そうすればゼントの願いは叶えられるでしょ?」


「結局そうなるのか……でもまあ、それなりに簡単なやつだったら……」


 考えがうまくまとまらない中で言いくるめられたような気もする。よくよく考えてみればそんなことのために依頼へ出る必要もないのだが、言質を取られたからには後の祭りだ。

 勢いか純然たる想いか、まんまと思惑通りの言葉を口にするゼント。そして分かっていたところで特に言い直すようなこともしない。


 目を泳がせながら、頭の後ろに手を置く。確認したライラはにやりと笑った。

 邪念に満ちた……いや、純粋なものだったかも分からないが、少なくともゼントは心の内を揺さぶられる。

 彼の心を知ってか知らずか、ライラは予定が決まったとばかりに振り返り今まで歩いてきた道を舞い戻っていく。



「どこへ行くんだ?」


「……明日のお昼に協会で待ってる。仕事内容は選んでおくから」


 後ろ姿を尋ねてみてもライラは必要最低限の情報しか落としてくれない。

 心なしか浮ついた足取りで、しかし付いていくには半端な気持ちではならないような気がした。

 後を追えば何かを知れるような気が。しかしゼントにはその一歩がなぜか踏み出せない。


 結局、彼はその後姿を遥か彼方に消えゆくまで見ていることしかできなかった。

 風が、今度は少し火照った体を撫でそよぐ。汗ばんだ首筋に身震いするような涼をもたらして。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る