第187話『待望』
「――私と、一緒に旅に出ない?」
ひっくり返ってしまいそうなほど明快な言葉、急な話であるのに求められていることはいたって単純。
疑問は溢れ出る湯水のように尽きることはないというのに、何故か彼女の言葉に強く惹かれてしまう自分が居た。
その気持ちが表情に出ていたのか、目元を隠したサラは失笑しながら説明を加える。
「今の旅の目的は明確にあるんだけどね、急いでいるわけじゃないし…………ともかく、誰にも邪魔されない二人きりの物見遊山の旅よ。ずっと過去に囚われていないで世界を見てみるのもいいかもしれないわよ」
語られる内容には妙な説得力を有していた。抱擁に身を包まれながら涙を堪える。
確かに世界を旅してみたいと思ったことはあった。この特別な土地に思い入れはあれど、むしろ空しい懐古が残るだけ。
「……ここに残るわけにはいかないのか?」
「それはできない。今からもまたすぐに出なくてはいけない。だから最後にここに戻って来たの。ゼントも一緒に来たいと思っているはずだから」
無理を承知で尋ねてみたが、やはりいとも容易く希望を打ち砕いてくる。
突然の事で頭がうまく回らず、それでもあらゆる回避の可能性を模索した。
しかし都合が悪く、相手の状況も知れないのにそんな上手い考えは出てこない。
もし、仮に――醜い欲を出して良いのならば、その誘いは今すぐにでも聞き入れたかった。
あるいは孤独という病魔に侵されていた時ならば即答もできたかもしれない。
「でも俺は……護るって決めたものが……護らなくちゃいけないものが……」
「――それは本当にあなたが望んだこと?あなたの良心と状況とが複雑に乱れて過ぎて、そうせざるを得なかったんじゃないの? あなたが不必要に背負うようなことなんて、この世に一つたりともあってはならない」
殺伐とした物言いに、ふと胸の中から見上げると唇の深紅が見えた。
だがすぐにまた強く体に引き寄せられ、わざとらしく押し付けられ息が苦しくなる。
昔から彼女はこんな時に限って口が良く回った。頼りになることもあれば、今はゼントに苦しみを与える。
はっきりとしない彼の様子を見て不敵に笑う。殊更に甘い囁きで心を揺さぶってきた。
日が落ちかけて、夜風ともいえる寒さが体に当たっていた。しかし密着させた二つの体からは熱を奪うことは難しい。
だから人肌が温かい……はずなのに、自身の存在が欠けてしまったような感覚を覚える。
「このままずっと暗い過去を背負って穏やかでありきたりな生活を送るのか。今まで全ての過去にそっと目を伏せて、新しく未来のある世界に飛び込むのか。決めるのはあなたよ。もちろん私としては当然こちらに来てほしいのだけれど」
「だったら――!!せめてユーラやライラとかと一緒に……」
抱き寄せながらサラは笑みを籠めていった。それはまるで蜘蛛のように狡猾で獲物を絡め釣るように。
サラの言う通り現在の状況は少々彼にとって荷が重いことも事実。
快刀乱麻を断つが如く、救世主の登場にありがたいと思わないわけがなかった。
しかし条件を全て鵜呑みにするわけにはいかない。このままでは譲歩の余地もないから。
ゼントは青白い顔で全身に汗を垂らしながら、やっとの思いで細々と口を開く。
だが冷酷にも、先方はあらゆる可能性を妥協もせずに一つずつ潰していく。
「……ごめんなさい。物見遊山とは言ったけど、やっぱり外だと険しい地形を進んだり魔獣と戦ったりして危険が伴うわ。それとあまり目立ちたくないから大所帯にもなれない」
「そんなの…………サラ、その、俺は、……できない、したくてもここを離れられないよ!」
家を出る前にした、必ず帰るというユーラとの約束を思い出しながら、ゼントは踏みとどまる。
悪因悪果、天網恢恢疎にして漏らさず。もしここで彼女らを見捨てたのならば、それは全て自分に返って来る。
今後の生涯に罪悪感という桎梏を背負って生きねばなるまい。どれほどの精神的苦痛になるかも知れずに。
サラは目を伏せればいいと言うが、そんなことが初めからできるのであれば、そもそもユーラなど教会に幽閉しておくことができるだろう。
ジュリだってとっくの昔に放り棄てている。どこで野垂れ死のうがこちらの知るところではなかったはず。
そこにはもう、粗雑に振舞っていた青年の影は見られなかった。
ただ誠意と思いやりの心で凝り固まった優しさの権化。
だからこそ、どちらかしか選べないというのは地獄の業火で焼かれる以上の責め苦だ。
「ごめん、いくらやってもこの考えは変えられない」
「――っ!!お願いよゼント!私を一人にしないで!!」
それは空気を切り裂く咆哮。あまりにも荒唐無稽、恣意的で不自然にも思えてしまうほどにサラの声は荒げる。
ゼントの決定を聞くや否や、先程の落ち着いた呼応を翻し縋りついた。これでは構図が逆だ。
情緒が不安定なのか、あるいは受け入れてくれると踏んでいたのか。
「い、いきなりどうしたんだ……?」
「ゼントが一緒に来てくれなかったら、私は一生死ぬまで一人になるの。でもあなたが、あなたさえいてくれたら私は…………それだけで、救われるから……」
一度は信念を固めたはずなのにまた揺らぐ。決断は砂上の楼閣、少しでも揺られれば一瞬で崩れ去る。
その言葉を聞いてしまったらどうしようもなく選択を強いられた。どちらを選んでも悔いが残る凄惨なもの。
まるで恋人が死ぬか自分が死ぬか決め合った“あの時”のよう。しかしどうにも諦めきれない。
「……どうであろうとサラの気持ちはよく分かった。一人で生きていくにはつらい世界だ。だから――」
覚悟を決めて歯を食いしばってみたが最後の一言が喉に突っかかり、出てこない。
サラは急かす。彼女の柔らかい赤い瞳を険しく尖り立てて。
「……ゼント、なに!? だからどうしたの!?」
「――だから…………
とても、申し訳なく思う……」
サラの声色には刹那、一筋の光が射したかのように見える。
しかし次の言葉が放たれる前、ゼントの表情を見ただけで何かを察した様子。
それは同時に、護るべき者を持つ人間の脆弱さが垣間見えた瞬間だ。
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