第183話『耐忍』
朝食後、ユーラは床の上に敷いた毛布の上でゆったりとくつろいでいた。
くつろぐと言っても、ユーラはとある縫いぐるみを手に持ち見つめているだけだ。
それは、ゼントが教会の神官長から想い出の品と譲り受けた青白く一角獣の形を模した物。
記憶を戻せるかと期待して少し前に手渡したが、結局今を見れば分かるように当時の反応は芳しくなく。
しかし時折今朝のように見つめている。その後ろ姿は大人とあまり変わらないのに、子供のように小さく、そして少々物悲しくも思えた。
思えばユーラと一緒に町中に行こうとも計画を立てたが、今に至るまで実現できていない。
裏の森の中なら多少は出歩けるとはいえ、ずっと家の中で過ごす退屈を、正気を取り戻したゼントは知れなかった。
だからほんの僅かでも不満があるなら解消するために動くべきなのだ。何よりそうあろうと本人が決めたのだから。
「――ユーラ、ちょっといいか?」
ゼントはやや怯えたように話しかける。それはまるで可愛らしい小動物を恐る恐る相手にするが如く。
しばらくまともに言葉を交わしていないから、少しだけ声のかけ方が分からなくなってしまっていた。
「うん、どうしたのお兄ちゃん?」
しかし向こうは何でもないように振り向き聞き返す。
返答には薄く冷たさが籠っているわけでもなく、かといって温かく柔らかいわけでもなく。
それは例えて表すなら、ごく普通の兄妹のようなやり取りだったと言えよう。
「えっと、率直に言うとだな。なんか最近、特にここ数日、俺への態度が素っ気ないような気がしていて……」
「わかった。じゃあ、もうすこし愛嬌よく振舞うね。お兄ちゃんっ」
記憶が書き換えられてからというもの、変わってしまったその呼び名。
今回は多少可愛げのあるものだったが……しかし無理やり明るく言っているように見えるのは気のせいだろうか。
決してそんなことをさせたいわけじゃない。だから怯むことなく踏み込む。
「そうじゃない、ユーラ。不満とかやってほしいこととかがあるなら言ってほしいんだ。声に出してくれないと伝わらないから」
「別になんにもないよ。お兄ちゃんはユーラのために毎日いろいろなことを一生懸命やってくれているんだから。不満なんてあるはずがないでしょ?」
「じゃ、じゃあいつもみたいに頭を撫でていいか?」
「ユーラ今は大丈夫、ジュリにやってあげれば? そっちの方がお兄ちゃんも楽しいんでしょ?」
彼女はそれだけを放り投げて、またすぐに後ろの壁の方に向いてしまった。
その言葉を聞いて、ゼントは何も言えず愕然たるありさま。以前なら間違いなく飛びついて来たはずなのに。
漠然とだが原因は理解せざるを得ない。優先順位をはき違えたこともそうだが……
おそらくジュリを撫でる時のゼントの表情があまりに幸せそうで、子供らしく拗ねてしまったのだろう。
因みにジュリは隣の部屋に移ってもらっている。会話内容はどうせ筒抜けだが、実質二人きりの空間を作り出すことには成功していた。
だとしてもこれはいやはや、何を提案しようと非妥協的で従ってくれそうもない。かくなる上は……
ここで駄目だと諦めて、時間が解決してくれることを祈るのはもう終わりだ。
ゼントは覚悟を決め、息を整え、口の中の唾液を全て呑み干す。
頭に熱が籠るのを感じ、逃がそうとして顔が真っ赤になっている。
――そして、ユーラの真後ろに付くと、
――おもいっきり、横から両腕を体に密着させ、優しく包み込んだ。
別にこれは疚しいことや恥ずかしいものではない。
良くも悪くも心臓の高鳴りを抱き着いた自身が感じた。
ユーラの瞳は一瞬驚きの色を見せるも、ただ黙って受け入れている。
それでも彼女は素直になれず不貞腐れているようで、顔は未だ愁いを帯びていた。
「――ユーラ、愛しているよ」
それは唐突、そして随分と久しぶりに吐いた言葉。与える愛なんて碌に知りもしない、上っ面だけの単純明快な言葉。
でも、今のユーラに振り向いてもらうには絶対に必要だと感じたことは確か。
言わされたのではなく、初めて自分の意思を通じて口から出たものでもあった。
相変わらず家族として、という意味を持つのだが言われた側として些細な問題だ。ただ、その事実さえあればいい。
ゼントとて、あえて言及していない。もし伝えてしまったら、なんとなく全てが崩れ去る気がして。
それ即ち、
ずっと前、落ち込んでいるときに恋人にこうしてもらった覚えがあった。
見様見真似でやってみてしまったが、これで合っているのだろうか。事後になって後悔の念がやってくる。
だが実際には藍より青し、当時のゼントよりも今のユーラの方が心に響くものがあっただろう。
両者しばらく固い意志を以て動かなかった。
互いに互いに相手の次の行動を見極めていたのかもしれない。
しかし……ユーラの体はいよいよ耐えきれなくなり震えだす。
頑なだった口元と頬が決壊しかけ、思考の定跡など崩れ去る。
石造りの冷たい家の中に、炎心にも劣らない熱さが灯った瞬間だった。
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