第178話『添寝』

 



 ゼントは背筋に悪寒が走る。しかしどうやっても喉が動かない。

 ただ恐怖で震えているからだけではない。まるで寒さに抑圧されたように口がかじかんでいた。

 半ば体も動かせない。なぜこのような事態に、そして構図になっているのか。


 この場だけを切り取ってみればライラが床に押し倒したように見える。

 実際ほとんどその通りなのだが、問題なのは彼女がなぜ突然そのような行動に出たのか。

 答えは彼女からの一連の問答で分かった。それは力強く際立つも静謐な一声から始まる。




「――ゼントは昼間のあの襲われた時、なんで抵抗しなかったの?」


 純然たる疑問と、沸々と何かの感情を兼ね備えた表情。明らかに今この体勢で聞くような内容でもない。

 でも彼女の目は鋭く全てを通り抜けるほどにまっすぐで真剣。気まずい空気を強引に切り裂いて。

 だからそれを見てゼントは応えるように、やがて息を整えてなるべく冷静に口を開こうとする。



「……それは、既に知っているんじゃないか? お前が殺した相手に助けを求められたと思ったからで――」


「――違う。私が言いたいのは、見知らぬ女性に突然押し倒されたのに一切動じてなかったこと。まさに今みたいに」


 努力してみると、清涼感を伴って喉からすっと抜けるように意思が伝えられた。

 だから自分の考えたことを話す。少しだけ気持ちに素直になって。


 ライラを前にしながら、殺したなどと敢えて否定的な単語を使った。人を殺めたことに少しでも意識を向けてほしいから。

 しかし現実的に考えてくれるとは期待もしてなかったし、事実予想通りになった。それどころか回答が見当違いだと思い知らされる。



「今みたいに……」


 ゼントは想定外の返事に言葉を反復するしかなく、そして改めて昼間の出来事を省察する。

 確かにあの時抵抗はしなかった。でもただつかみどころが無く動揺しており動けなかった、というのが正しい。

 今も浮かぶ感情は変わらなくても、その質が違う。今なお激しく動き続ける心臓がそう告げている。


 それにしても、未だライラの行動理由に説明がつけられなかった。

 しかし次に続けられた驚くべき言葉に、ゼントは動揺せざるを得ない。



「だったらさ。このまま私が同じことをしても抵抗しないんだよね? 現に今だって嫌がるようなそぶりは見せないから、いいんだよね?」


 一体何を言っているのか、まるで理解できなかった。ただ間が抜けて口をあんぐりと開ける。

 なんとなくでも嫌な予感が少なからずしたので、無意識に両手を痙攣させて揺り動かす。

 だが当たり前のように少しも動かせない。ライラに押さえつけられているからだ。


 周囲の手繰り寄せた情報から、改めて自身の置かれている状況を顧みる。

 左右は塞がれ背中には床、そして正面にはライラ。文字通り八方塞がり。

 彼女は口元を明るく歪ませ頬を紅潮させながら、相手の心境などお構いなしだ。


 声を上げて今乗っている荷馬車の御者に助けを求めてもいいが、どうせ今何かが変わるわけではない。

 それどころか下手に巻き込んで面倒を大きくする可能性もある。

 だったら自分でどうにかする他なかった。しかし現状は悲しくも何もできないまま。



 そして、ついに瞳は今までにないほど接近する。それこそ、虹彩の幾何学的な凹凸模様が確認できるほどに。

 加えて中央に見える深淵のように黒いその瞳孔の底に、身の全てが囚われてしまいそう。

 息を呑むほどの恐怖と同時に暗闇の中に映える赤という、純粋で冴えた美しさを感じた。


 しかしだからといって、体を全て委ねるとは言っていない。押し倒しただけとて、後に何をされるのか知ったところでいいことはないだろう。

 顔を近づけてくるあたりから漠然とライラのやることが見えていた。だから余計に手足に力を籠める。

 ただし、抵抗できるとも言っていない。彼女の膂力にゼントが太刀打ちできるものか。


 だから、青年が少女に絡めとられるのは必然だった。抗っていた力が決壊し、受け入れるしか選択肢がなくなる。

 清らかで透き通る水面みなもに首筋の後ろから落ちるように、あの何もできず倒れていった盗賊らと同じように。

 ゼントはただただ自分より幼い存在に屈し、そして遂に彼の体にライラが覆い被さる。




 ……たった一つ予想と違うことがあったとすれば、彼女の顔はゼントの横の頬に軽く触れ、そして通り過ぎては肩にぶつかったこと。


 そのまましばらく幌の中は風が吹き抜ける音と、馬車が道を進む音しか聞こえてこない。

 ライラに別のことをされると勘違いしていたので、ついぞ待っても来ない唇の寄る辺なさが不思議に感じる。



「――お、おい……?!」


 何が起こったのか、恐る恐る現実を確かめるように声を上げる。しかし返事はない。

 目を瞑るしかなかった彼は、やがて数舜の後に違和感に気づきゆっくり眼前の光景を受容する。


 するとそこにはゼントの胸に凭れかかり、目を閉じているだけかと思いきや、

 すやすやと寝息を立てて呑気に夢の世界へといったライラの姿が……

 呼吸のたびに彼女の胸が膨れ上がり、直にゼントにも伝わってくる。



「……寝ているのか?」


 神秘学でも解き明かせない謎の現状に困惑を隠せないゼント。

 何が何だか分からないけれども、少なくとも恐れていた未来は回避できたようだ。


 一先ず起き上がろうとするも固められていてできず。落ち着こうと左右を見渡し安全を確認しては呆然と口は開きっぱなし。

 冒険者の依頼なんぞでは到底味わえない緊張、そこから解放されてゼントは今までにないほど深い安堵のため息を漏らす。




 考えることは一旦後回しにして、ライラを除けようと彼女の上腕を掴んだその時――ゼントは気づいてしまう。

 運ぶのに大剣を振り回していたとは思えない、病的なまでの腕の細さに。


 立て続けで引っ切り無しに訪れる新たな理解に、ゼントの頭は弾けそうなほど熱くなる。

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