第172話『虚心』

 



 ――空気を焼きつかせるような灼熱、あるいはすべてを凍り付かせるような冷酷さ。

 そのすべてを含めて……全く感じなかった、させなかった。何一つも感じることはできない。



 唯一あったのは――“無”


 喜びや憧れといった正、または怨嗟や業障といった負の感情、全てが無かった。

 それが何故かと問われれば、分からないという他ない。でも本人ならきっと知っているのだろう。




 気が付くとゼントの目の前には無数の盗賊らが地面に伏している。

 刹那に見える情報からは何も理解しえなかった。


 ライラが手を離れ、何かをしたのだけは見えた。

 空気の僅かな流れがそれを現している。

 しかしそれすらも夢か現か確信が持てない。



 始め、槍を持った盗賊の一人がこちらに向かって投げてきて……

 ゼントの脳裏に残った記憶はそれが最初で最後。次に視界に入ったのは倒れていた盗賊達だけ。



 しかし実際には瞬きする一瞬の間にかなりの出来事が詰まっている。

 彼らに技量がないと侮っていたが実力か偶然か、投擲の精度はかなりのものだった。

 このまま行けば確実に心臓の高さを射抜かれていただろう。槍先は先頭ではなくその後ろの追随者に向いていた。


 次の瞬間、ライラの強膜が黒々しく染まる。俗世の悪を残らず詰め込んだかのように。

 少なくとも人間ができるべき瞳の色ではなかった。見開かれた眼はもはや生き物ではない。

 表情は、それが自然の摂理かのように怒りにひずみ原型を留めなくなる。


 飛んできた槍を造作もなく叩き落とす。光速にも迫る機敏は着こなすコートを翻して。

 そして自分の所有物を傷つけようとした罪人を罰するべく、しかしあるのは憎悪ではなく無感情。

 何も感じず、何も思わず、心は果てしなく空虚。だがその身から放たれる剛撃は際限のない無慈悲。


 ゼントと繋いだ手をほんの一瞬だけ、名残惜しそうに手放す。

 直後、槍を投げた男へ駆け寄り綺麗に静止した。そして背負っていた魔術具に手を掛ける。

 例の力を発現させるわけではなかった。下衆相手にそんなものは使う価値すらない。


 ただ、屈んだ状態から大剣を軽く無造作に振り上げる。世界の理を捻じ曲げるほどの速度で鮮やかに。

 体を捻ると長く伸びた髪は空間に引っ張られ重みを保ったまま崩れる。


 受け身である盗賊の男がどうなったのかは想像に難くない。彼女にとっては何も無い宙を切るのと相違ないのだろう。

 男の股下から頭頂部に通った刃物は鋭利そのもの、中央から両断された体の断面は無機質な標本のようだった。



 だが、ライラの攻勢はまだ終わらない。手に握られた魔術具は近くにいた残党に伸びる。

 難しいことは何もない。一人、また一人と大剣の腹で頭部をそれなりの強さで殴打していくだけ。


 殺すのは簡単だが命を刈り取りはしなかった。ゼントにそう命令されていたから。

 最初の唯一の男の死は見せしめにもならない。他の者が視認する前に全員気絶したのだから。

 単純に罪を犯したから略式極刑となった。意味すら成さない終幕に同情の意すら覚える。



 これら全てが一回の瞬きの合間に行われた。日常生活で何気なくしている、目を閉じて、開いたら既に戦闘が終わっていたのだ。

 気が付いたらまたすぐにゼントの傍へ駆け寄り、一度は放した手を再び絡め取る。

 常識ではありえない素早さ。彼女は、いやこいつは、この大陸で最強の存在なのではないかとゼントは感じた。いや、誰もが嫌でも理解する。


 これほどの力を持っていれば多少なりとも、大陸で名を知る機会もあるかと思ったのだが……

 加えて強大でありながら増長もせず謙虚な姿勢、周囲から聖人と崇められても不思議ではなかった。

 もし仮に彼女が敵になったらと思うと……ただただ自らの過ちを嘆くしかない。



 ゼントは数舜立ち尽くすばかりだった。何が起こったのか、少しずつ理解しながら。

 その瞳の奥には孤独を憂いた少年が居る。まるで目の前の存在がこの世のものではないかのように。

 殺気を全くと言っていいほど感じなかった。その辺の石ころを流し目で見るように、無残な光景を生み出していたのだ。


 振り返る少女はいつもと変わらぬライラだった。付け加えるなら口を尖らせ上目遣い、少しばかり物欲しげな顔をしているか。

 敵を処理したことを褒めてほしかったのかもしれない。


 しかし、ゼントは不思議でならなかった。

 人を殺しておいて、何故そんな無邪気な顔をしていられるのか。






「――お前は……いったい、何処へ行きたいんだ……?」


 恐怖と懐疑とが相まって、ふとそんな疑問を声にしてしまった。人を殺したという罪悪感は置き去りになって。

 それは相手の目的を欠片なりとも知って害意を向けられないようにするための、いわば理性の伴った防御反応だった。

 彼女の邪魔さえしなければ矛先が向くこともない。そんなことを無意識に感じ取る。



「ん……知りたい?」


 問われてライラは一時的に首を傾げるも、すぐに顔に笑みを張り付けた。

 まるで明鏡止水の境地を何者かに押し付けられたかのように。

 質問の意味を理解しているのだろうか。



「――いや、聞かないでおく」



 ライラの明け透けた笑みを見て、ゼントは戦き逃げるように視線を逸らす。

 知っておいた方がいいのかもしれない。でも知ってしまったら、二度と後戻りできなくなる気がした。

 聞く前なら可能性の段階だ。彼はまだ確定される未来を直視できる心構えではない。

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