第170話『呼称』
「――じゃあ、この仕事が終わったらすぐに取り掛かるね。明日の夕方に町の北西の門に来て」
ライラは白い歯を見せ目尻を下げた純粋な笑みを現す。
それも普段無口な者が浮かべ、見る人が見れば一瞬で惚れてしまいそうな、あざとくも可憐な笑顔を。
ゼントはしかし、口では信じると漏らしたものの心の内ではあまり期待できない。
いくら彼女が正直だと言っても、流石にこう何度も容易くない約束をされればしっかり果たされるのか疑問だ。
それになんだが淡々と物事が進みすぎている気がする。本当にこのまま任せきりでいいのか心配になるほど。
だからこう言葉をかけるのは必然だった。指を咥えて眺めているだけでは居られない、優しい彼であったればこそ。
「俺に何かできることはないか?」
それに対してライラは目を瞑り時間をかけ深刻に考え込んだ。しばらく馬車の中には車輪が進む音と彼女の唸り声しか聞こえなくなる。
やがて意を決したように目を爽快に見開き、ゆっくりと口を開く。
「じゃあ……その代わりと言っては何だけど、一つ私のお願いを聞いてほしい」
「なんだ?俺にできることなら何でも……」
ゼントは聞き入れる体勢ながらも恐る恐る身構える。
あまりに真剣に悩んでいたので、とんでもない要求をされるのではないかと心配になったから。
がしかし――夢想だにしない内容が返ってきた。
「――私のことをちゃんと名前で、“ライラ”って呼んで。他の人にはいつも名前を呼んでいるのに、私にだけは数回しか声を聞いていない。ずっとお前とかは言うのは理不尽じゃない?」
「それは…………」
この世界のどこにいるかも分からない人間を探すのがどれほど大変だろうか。
だがその代償として提示された冀求はなんとささやかなものだろう。
にもかかわらずゼントは尻込む。それ相応に理由はある。
確かに彼女の名前をまともに呼んだのは数回、初めて会った日に無意識に口にしてしまったこと。そして緊急時、咄嗟に叫んだ時くらい。
それ以外には意識して名前を呼ばなかった。なんとなく恋人と話しているような気分になってしまうから。
恋人の名を口にすることは可能な限り避けたい。特に好きでもない別の女性なんかに向かって……
「……分かったよ……もし本当にサラと会えたならいくらでも呼んでやる」
それでもゼントは首を縦に振る。呼び方なんて、あくまで自分の気持ちの持ちようだと割り切った。
物事には必ず優先順位がある。今はサラに会えるなら多少の犠牲は致し方ない。
普段使いする呼称に抵抗が、そもそも約束が履行されるかも分からない。
「――それじゃあ約束。必ず守ってね」
しかしライラは未来が確約され、もう既に済んだことのように振舞う。
余裕というものがあるのは構わないが、下手に増長しないだろうか。
何に対しても存在する過剰な自信がゼントは少し心配になった。
その後はしばらく、二人は無言で馬車に揺られている。
することもなく暇なので馬の手綱を握る御者の男と世間話でもしてみた。
男曰く、ずっとこのまま隣町まで行くという。だが馬車の護衛が一人もおらず心配になった。
護衛を雇うとほとんど利益が出ないので金を出し惜しみしているんだとか。
命あっての物種なのに……ゼントは理解できない。今の今まで盗賊に遭遇しなかったのは完全に運が良かっただけだ。
合間、時々ライラが足を絡めようとしてきてゼントはそれを足で跳ね除ける。
止めろと意思表示したのに時間を空けてまたやってきた。でもわざわざ声を上げるのも気が引ける。
やがて除けるのすらも面倒になってされるがままの状態になっていた。
目的地が近づいてくると御者の男に挨拶して逃げるように馬車から飛び降りる。
ライラも続いて大事そうに膝に抱えていた大剣を背中に掛け、勢いよく飛び上がって降りた。
同時に地面を僅かに震わせ砂埃を舞わせる。魔術具の重量故だろうか。
ともかく街道から外れ、日がわずかに差し込む森の中を二人だけで進む。
苔の生えた木々、植物が豊かで水源もあちこちに見られる。
まさに人の手が入っていない原生林と呼称するに相応しい。
引きも切らず木漏れ日に眩しく照らされ鬱陶しかった。
辺りには小動物の気配が微かに残るだけ。
しかし地形が複雑で奇襲される可能性もあるため警戒は解けない。
「――ところで今更なんだが、魔術具に関してはしっかり扱えるのか? お前、普通の剣も初めて触るみたいだったじゃないか?」
道なき道を越えながら、幻想的とも言えるが大して代わり映えしない景色。
とうとう飽きが来て後方に向かって話しかける。やはりこれからのことも心配だ。
「通常の武器と魔術具は勝手が全然違う。だから大丈夫だよ」
何が大丈夫なんだが全く分からないが、そう言われたら引き下がるしかない。
魔術具を扱ったことがない外野があれこれ指図できるものでもなかったから。
その後、特に接敵も予想外の出来事もなく目的地のすぐ傍までたどり着く。
遠くから偵察するまでもなく、堅牢さが見て取れた。
それは情報通り森の中に忽然と現れる、侵入を拒む洞窟だらけの岩山だ。
内部が要塞化されているとは知っているが、そもそも岩山自体が天然の要塞みたいなもの。
わざわざこんなところに正面から、それも二人だけで攻め込もうとする輩などそうそういないはず。この彼らを除いては。
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