第166話『差出』
「――お前……人間を殺したことがあるのか……?」
朝も涼しく過ごしやすい気温、湿気も程よく快適、
それなのに協会前の空気だけは重く鈍く、しかし殺気のような小さな鋭さが漂っていた。
早朝で周りに人こそいないが、もしいれば二人が不気味に映るだろう。
「――ゼント私はね、何も争いが好きなわけじゃないの。でも害意を向けてくる奴はいくらでもいる。だから、例え取るに足らない相手だろうが全力で叩きのめす、ただそれだけなの」
宝石のように赤い瞳が鋭く光った。落ち着き払って声色からしても一瞬笑っているようにも見えたが、本人は比較的真面目な表情。
ライラの表情には微かに鬼気迫るものがあった。でもすぐに穏やかに切り替わり、声には温かさがこもっているようにも感じる。
ゼントはその言葉を聞いて悍ましいものを見たかのように身震いする。
質問の回答にはなっていないようでしっかり答えていた。人間を殺したことがあると。
少女ともいえる齢なのにいつどこで? いや、今まで外で生きていれば盗賊に襲われることもあるか。
でもきっと、いや絶対、やむを得ずやったに決まっている。彼女の言葉を信じる限りであれば。
この世界で人殺しは、そこまで珍しいことでもないのかもしれない。
斯く言うゼントも人間を……殺したことこそないが殺人の光景を眼下に収めたことがあった。
とある依頼で遠出したとき、帰りに運悪く荷馬車が崖に落ちる出来事があった。
幸いにも死人は無かったものの、同時に一緒に運んでいた食料が尽きる。
残ったのはたまたま居合わせて一緒に移動していた三人だけ。でも初めは狩りや採集で食料も水も確保できていたので何とかなった。
しかししばらくすると辺りの生物を狩りつくし、とうとう食べ物がなくなる。
そのうち餓えが苛立ちとなり、真面な思考ができずに襲い掛かって来た同乗者を恋人のライラが……
本当は自分がやるべきだったのに、恋人の手を汚させてしまったことを後悔していた。
襲ってきた者を悪く言うつもりはない。恋人にも悪いところがあったから。
彼女は持っているものを分け合おうと言い出したのに、黙って余分な食料を隠し持っていたのだ。
それは当然、ゼントを餓えさせない為の物だったのだが、飢餓の目を携えた者が気を急ぐのも無理はない。
窃盗、傷害、殺人、あるいは公共の福祉を阻害する行為は罪として法で裁かれる。
基本的には各町の自治体で裁かれるわけだが、よほど凶悪な者や精神異常者は即刻極刑。
その他ほとんどの者が奴隷となった。例え幼い子供であろうと例外なく……
その後、かろうじて町に戻れてライラはそこで経緯を皆に打ち明けた。
被害者が市民でなければ罪にはならないのだがこの時は違う。
どういうわけなのか。誰も見ていなかったのだから、隠し通せば良かったものを。
聡い彼女らしからぬ行動、何か思惑があったのだろうか。
実際彼女は殺人を咎められず、同情の声が周りから相次いだ。
冒険者として高位の格と信用、周囲からの人望、そして状況から正当防衛と認定される。
食料を隠し持っていたことなど、多少誤魔化した部分もあるが。
それでも彼女が一時的に拘束されていた時、ゼントは恋人が奴隷にされるのではと気が気でなかったのだ。
事実、釈放された時は安堵というよりも不安で衰弱しきっていた。
しばらくは子供のように、何処へ行くにもライラに自分から付き纏ったという。
ゼントは生きていく上で極力人を殺したくない。例えどんなににくい相手がいたとしても。
人が失いかけている優しさから、という理由もあるがそれ以上に自分が殺されないかという臆病者のそれだ。
今までも悪事を働いた人間相手の依頼からは目を背けてきた。
だから正直、この依頼は断ってもいい。むしろ違約金を支払ってでも断るべきかもしれない。
金なんて失ったところで所詮、命には代えられないのだ。恋人が二度と還ってこなかったように。
「――まあ、そんな話はどうでもいいでしょ。それよりこれからの依頼で提案なんだけど、例のゼントの家にある武器を私に使わせてくれない?」
苦々しくも恋人との思い出に浸り、胸を馳せているもライラの声で現実に呼び戻される。
人を殺した過去がどうでもいい……確かにその通りだろう。今はこれからの話をするべきだ。
ゼントは息を落ち着かせ答える。気分を害されたと言わんばかりに不機嫌となりながら。
「必要ないだろ。十分できると思ったから受けたんじゃないのか?」
「それはそうなんだけど、やっぱり強い武器があった方が早く片付く。それに私も現場でより安全にゼントを護衛できる。あと、今回は私が先走ったのが原因だから一人で全部終わらせる。今日は近くで見てくれているだけでいいから」
その言葉を聞いてゼントは一考の余地を態度で見せる。
見ているだけでいい。条件的に受け入れられるだろう。
しかし、魔術具を易々と使わせてもらえると思っている辺り、ライラの態度がどうにも気に食わない。
自分が護衛される前提ということも……実際ありがたい事だとしても、素直に喜べない。
加えてなんとなく話を誘導されている気もした。
魔術具を渡さなくとも何とかなるのであればそうしたい。いや、しかし……
「……分かった。一旦、俺の家に行こう……」
ひねくれていても意味がないとゼントは悟った。このまま後ろ向きに生きていても損にしかならないと。
道具は用途に合わせて使って初めて価値を発揮する。大切に保管されていても剣が可哀想だ。
誰でもない、恋人がゼントに向かって言っていた言葉。より安全に依頼を進められるのなら少しくらいは許されるはずだ。
それに――恋人と同じような戦う姿をもう一度だけ見てみたいと思ったから。
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