第163話『不意』
――ゼントは唐突に起こった出来事に頭が追いついてこなかった。
ジュリが突然に自分の腕から離れてしまって、代わりにユーラ目の前にいる。
なんでそんな動きを取ったのかが分からない。そしてこれから事態がどうなろうとしているのかも。
「――ねえ、お兄ちゃん」
「ど、どうしたんだ、ユーラ……」
だから突然目の前の彼女に平然と声を掛けられて、よりひどく動揺してしまった。
だが向こうはお構いなしに言葉を続ける。抜け目なく子供が強請るかのように。
「ユーラのこともジュリみたいにだきしめて……頭もなでてくれないかな?」
「え、あ、そ、それは……えーっと、なんで今なんだ……?」
鈍感で状況が読み込めない。つまりゼントが疑問を持つのも必然。
だが時によって無知は罪と言われるように、今回ばかりは心の機敏が疎すぎた。
発言直後、瞬く間に部屋の温度が下がり彼女は珍しく声を荒げる。
「――ジュリにはしたのにユーラにはやってくれないの!?」
声色は嫉妬に狂って毒々しいというよりは、子どもが可愛らしく駄々を捏ねるようなものだった。
それは例えばゼントとジュリが一緒に寝て、ユーラがぐずって部屋の隅に寝床を移した時のように。
「いや、勿論そんなことはないんだけど。ほら、あれだ……ユーラには日頃からやっているからさ」
ゼントは些かとは言い難いほど愚かだった。何も考えず抱きしめてやればよかったものを……
ただ、状況を精察できなかった。それだけだと言えば単純に聞こえるかもしれないが、少し考えれば分かったはずなのに。
だから逆に、ユーラが絶念の意を覚えることも決して不思議なことではない。
しかし彼女はめげない。相手がどういう性格の持ち主なのか分かっていたから。
それに後ろには心強い味方のおかげで自信がついている。失敗を恐れずに詰め寄れた。
「――おあっ!? 一体どうしたんだ?」
もうユーラは期待というものをしない。望みが外側から自ずとやってくることはないのだから。
自分で叶えて行かねばならないとようやく理解する。故に拙いながらも行動に出た。
何も言わず、ゼントに抱き着いてきたのだ。背中に腕を回され完全に動けなくなっている。
顔を胸の中に一旦埋め、押し付けた。そして間を開けることなく彼の右腕を持ち、手の平を自身の頭の上にさりげなく乗せる。
それはさながら、今しがたのジュリであった。
でも彼女とは違って、ユーラの瞳は湿り気を帯びて今にも泣きだしそうだ。
頬はまあるく膨らみ、その表情のまま下から力強く見上げている。
流石の彼も見覚えのある光景に知覚せざるを得ない。
今胸の中に居る幼い少女が何を求めているのかを。
ゼントは自身の直情的な感性を信じて右手を左右に動かし始めた。
すると途端にユーラの目は安堵と共に閉ざされ、すぐさま幸せそうな表情を表に出し始める。
頬は艶めかしく紅潮し、口からは安らかなる吐息が漏れていた。
感情的なのに穏やかに、喜劇的に眼下が彩られる。
何が何だか分からないけど、ただ綻びた髪を少しづつ丁寧に撫でた。
ジュリと違って特別感触が良いというわけではないが、代わりに表情が冴えわたるようによく見える。
ユーラが幸せそうな表情を見せたことでゼントも嬉しく思った。
そして彼の表情を薄ら眼で確認していた少女も……
数十秒という時間を経た後、ゆっくり頭から手を離す。
だがその時――高速で意識外から何者かに腕を掴まれる。
「――まだはなしちゃダメ!!ユーラがいいってゆうまでやって!」
その者とは、今まさに抱き着かれているユーラだった。
一瞬、襲われたのかと勘違いして心臓が張り裂けるように暴れている。
まさか赤い悪魔がまたやって来たのかと……
今でも出会った光景が怨嗟の如く脳裏に蘇る。
瞬きする程度の時間だったのに呼吸は乱れ汗が額に滲んでいた。
でも正体が分かってゼントは苦し紛れにだが息を整える。
どうやら彼女は未だ行動に満足していないようだった。
ゼントの変わった様子など露知らず、ユーラは抱擁し続け一方的に愛撫を要求する。
傍らのジュリは青ざめた顔で口元に手を翳していた。
自分の行動で心労を掛けさせてしまったのでは、と心配している。
しかし心配をよそに、ゼントは言われるがまま無心で撫で続けた。
心なしかユーラの顔色は全体がますます赤くなっている。
「あの、そろそろいいか?俺も右手が疲れてきたんだが……」
「えっ……わかった。じゃあ今はこれくらいで……」
気が付くと十分程の時間が経過していた。流石にゼントも同じ動きで痺れを感じ始めている。
そしてもう終わりたいと告げると、渋々ながらもあっけなく了承してくれた。
徐々に離れていき近くの椅子に腰かける。だが傍からは満足しきった顔はしてくれない。
でもやっと彼女の欲に塗れた抱擁から脱することができる。ようやく落ち着く事ができて一息つく。
……にしても彼はここ数日、本当に忙しい日々を送っていた。それこそ息をつく暇もないほど。
原因は言うまでもなくジュリなのだが、別に誰が悪いというわけでもない。
しかし冒険者稼業をしばらく休んでしまっており、家計や家の食料備蓄という面ではやや心許なくなっていた。
セイラから預かった大金はあるが、できることなら手を付けたくない。
そんなことを頭の隅で考えていると……思考に誘われるように玄関の扉を叩く音が部屋に響く。
直後、ジュリが驚いてその場で飛び跳ねた。すぐさま二階へ隠れる……のではなく、どうしてだかゼントの傍まで駆け寄ってくる。
動きがおかしいことには気が付く。しかしそれ以前になぜ外の気配に気が付かなかったのか疑問に感じた。
しばらくすると入口に居た人物は反応が返ってこないことを知り、こちらから開けてもいないのに勝手に入り込んできた。
そしてその人物を見るや否や、疑問の一部は氷解する。
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