~結氷~
――恐怖と不安に塗れた、私の逃走劇、
いや、“劇”なんて呼べるほど華麗でも簡略でもない。
やはり体の関節など、まだ慣れ切っていなかった。
木の根につまずいて何度も転び、また全身泥だらけになる。
口の中で懐かしい土の味がした。こんなにも惨めな境遇に身を置くのはいつぶりだろう。
冒険者を始めたての頃、大型魔獣に襲われて命からがら平野を走った記憶がある。
今も追われていることには変わらない。でもここまでくればそうそう捕まることはないだろう。
おそらく、ゼントが私の存在を町に知らせている。だからあいつらが家に来たんだ。
別に責める気じゃない。ただ町を守ろうと当然のことをしたのだから。
とにかくこのまま数日、どんなに焦っても一日は様子を見て動かないほうがいい。
騒ぎがある程度収まって人間が減ってから動き始めるのが今後の最善。
でも……私はそれがどうしてもできなかった。本能がすぐに引き返せと叫ぶ。
なぜなら、あの化け物にいつ襲われるか分からない。やっぱりゼントの近くに居たい。
それにこの手では、まともな食事にもありつけないだろう。
多大なる迷惑がかかるのは分かる。でも、生きていくために私には彼が、例え何を置いてでも必要なんだ。
ゼントを傷つけた私が安全に生きたいと願うのは罪なのだろうか。あるいは彼の元から化け物を引き剥がすことは?
はたまた戻ったところで、ゼントにとっての私は完全なる濡れ落ち葉ではないのか?
……楽な方向へ考えることはやめよう。これらは全て望みとは正反対へ行く。
それでもこうすることしかできない。魔術具を失った私は、試す以外の行動が取れないから。
――私は逃走してから真夜中を待たず、踵を返しゼントの家へと向かった。
◇◆◇◆
――森の帰り道には私を捜索しているであろう光源がいくつも確認できた。
しかし辺りは闇よりも暗く、人間がこの中を動き回るのなら灯りが必須。
つまり、森の中で
しかも、ある一定の場所を越えれば全くと言っていいほど遭遇しなくなる。
家の近くまでは苦も無くやってこられた。でも中にゼントが居る気配がない。何処へ行ったのか。
もしかしてだけど……私を探しに森の中へ出てくれているとか?いや、淡い期待を抱くだけ無駄だ。
現に雨で薄れているが僅かにゼントの臭いが漂ってくる。近くにいるはずだ。
こんなに嗅覚が研ぎ澄まされているのに、自身の臭いには気づけないとは何物にも勝る皮肉。
こんな夜更けに森の中で何をしているのだろう。どちらにせよ会うために歩み寄る。
周囲には誰もいない。聞こえるのは弱まった雨の音だけ。
ここまであまりにも簡単だったので、何もないことが逆に不気味に感じる。
――あっ、ゼント!
一瞬見えたっ、灯りを持つ彼の姿が……
不安を抱えながらも顔を綻ばせながら駆け寄ろうと思った。
でも、そうしようと思った次の瞬間、
――魔術具による氷結が眼前に巻き起こる。
それは片手で数えるほどしか見たことない光景。
なんでこんなところに?まさかゼントが……!?
冷気が肌を震わせた。私のトラウマでもありながら、もし適正が彼にあるのならば今後の展望ががらりと変わる。
……しかし、予想は外れるどころか最悪の者がそこにいた。見た瞬間思考までもが凍り付いた。
反射で、すぐ近くの茂みに隠れおおせる。なんであいつが!?臭いも気配も何もしなかったのに。
あの化け物――まだ人間のふりをして彼に媚び打っているのか。しかも魔術具を扱えるなんて……
でも少なくとも、今はやり過ごさないと……次見つかったらどうなる?
息を殺し、緊張で打ちひしがれることしかできなかった。それなのに……
――突然何者かに体を抱きしめられる。
あいつに見つかった、逃がすまいと力強い抱擁が如実に語っていた。
恐怖が限界に達し、五感の全てが外界の情報を拒絶する。
頭ではなく体が直感で絶望を感知したのだろう。
なるほど、生物が死にも勝る恐怖を受けた時、冗談抜きで本当に暗闇に落される。
何も見えず、聞こえず、感じず、でもそれが今はとてもありがたい。
精神の防御機構に感謝しながら、ただただ時が過ぎるのを待った。
「――ジュリ……ジュリっ!!落ち着いて、大丈夫だからっ!」
かなり長い時間が経ったように感じた。でも実際はほんの数秒だけだったようだ。
声に反応が遅れた。それでも意識が戻ってきた理由は、安心できる主の声が耳元で聞こえたから。
またしても体で安全だと判断したのだろう。鋭い感覚が成せる技だ。
一瞬だとしても、失神というよりは残酷な期間だった。
だが例え意識が離れていても体は無造作に暴れまわっていたようだ。
それなのにゼントは抱きしめ続けてくれていた。泥だらけになった身体を、自身を顧みずに。
呼吸が整ったのも束の間、すぐにあいつが横から見覚えのある大剣をもって姿を現してきた。
直視しなければ良かったものを、愚かにも私は存在を頭から追い出してしまっている。
再び背筋が凍り付く、首や手足が痙攣し始め、生きられないと悟った心肺は逆に弱まった。
本能が、直感が、須らく逃げるべきだと告げている。体が言うことを聞かず、ゼントの腕の中から振り払おうと暴れ始めた。
でも私はそれを理性で押さえつける。なぜなら逃げても意味がないことが分かっているから。
ゼントの傍に居ること、それが最善だと思った。これは損のない賭け。
もしこの場であいつが私を殺すのなら、ゼントに危険性を伝えられる。
それだけでも私の勝利だ。ここまでやって来た甲斐があるのだ。
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