第161話『解消』

 



「――そ、そうか……無理強いしようとして悪かった。さっきのことも本当にすまなかったと思っている……」


 考えてみればジュリには最初に出会った日の事を既に赦してもらっている。

 一度限りと言っておきながら、きっとあまりに強欲だったのだ。

 二度目はない。だから自分が悪いのだといとも簡単にけじめがついた。



「ジュリ、その……故郷に帰る手助けでも、他のなんでも。できる限りのことはするつもりだ。だから何かあれば教えてくれ。でも、少なくとも今は関わらないようにするよ」


 ゼントは遠慮気味に差し伸べたはずの手を戻す。一番繊細な問題に触れてしまったのだから、しばらくはそっとしておこうと思って。

 今後は当面、いや一生涯口をきいてくれないのかもしれない。



 しかし、ジュリの本心は違う。彼の考えは思い込みでひどく的外れだった。

 彼女はゼントなしでは生きてゆけない。物理的だけでなく精神的にも。


 先ほど不可抗力とも言えなくないが力の限り殴ってしまっている。

 もしそれが原因で嫌われたら、それこそ見放されでもしたら待っているのは絶望のみ。

 だからおもむろに立ち上がり、徐々に遠ざかっていく彼を逃すわけにはいかなかった。


 そうと決まればジュリの動きは目に留まらない。

 家具の下から飛び出し、瞬く間にゼントの背中へと飛び掛かった。

 それはまるで獲物を仕留めるような軽やかさ、地面を駆ける音すらなく。



「――うん? おぶッ?!」


 空気の微かな揺れを感じ取り、不意に振り返る。だが彼の冒険者としての反応は鈍い。

 後ろを向いた時にはもう遅かった。間髪入れずの声を上げ、そのまま勢いで床に押し倒される。

 幸い床に毛布が敷かれていたので怪我はなかったが……いや、それも織り込み済みか。



「――ジュリ!?急にどうしたんだ!?」


 ゼントは仰向けに寝転がり、胴体の上には馬乗りのような体勢のジュリが。

 獲物を食らいつくすのかと思いきや、なんとそのまま身体を預けてきた。

 顔と顔がこれ以上ないほど近づく。鼻先同士が接触してしまうほど。


 彼は咄嗟にジュリを抱きしめてしまう。両手を力いっぱい彼女の後ろに回し、それはもう、言い逃れできないほどの熱い抱擁だ。

 現状を鑑みれば絶対的に控えるべき行為。だが、向こうからやって来てくれたことに深い感銘を受け、身を震わせながらやってしまった。


 そしてまた柔らかい体毛の感触が手のひらに伝わる。

 でもすぐに自身の過ちに気が付き、彼女を腕から開放した。



「――ご、ごめん! つい……」


 ジュリのことは一人の人間として見ようと心に決めたはずなのに。

 またしても人相手にはしない行動をしてしまった。

 今後は二度とないようにしなければならない。


 だがどうしてだろう。彼女は嫌がる素振りすら見せず、ゼントが手を放すとむしろ疑問と恐怖の色が表情に宿った。

 なぜなら抱擁をうれしく感じていたから。求められたことの安心感、体を通して広がる高揚感。


 だがその気持ちは伝えられない。声を上げようものなら怪訝な顔にさせてしまうから。

 ユーラの時同様、ゼントもゼントとて感情の機敏に疎い男だった。いや、きっと現実的には難しいことなのかもしれない。



 ひとまず起き上がりジュリを持ち上げ、話し合いの姿勢に戻そうとする。だが、案の定というべきか体から引きはがせなくなっている。

 彼女にしがみつかれ、完全に固定されていた。こうなるともう人間の力だけではどうにもならない。



「――ジュリ、その……離れてくれるとありがたいんだが……」


 彼女の体格も体重も人間とそう変わらない。言うなれば人ひとりを抱えている状態だ。

 だが重量があって体が動きにくくなってしまうから、と余計な一言は付け加えない。


 情けを求めた懇願、しかしジュリは当然というべきか、抱き着いたまま首を横に振る。

 せめてその理由を知りたいのだが、何度聞いても真意を言い当てられない。

 少なくとも拒絶されていたわけではない、と考えるのは楽観視しすぎだろうか。



「――さっきのことで俺のこと嫌いになったか?」


 いよいよ気持ちが抑えられなくなり、つい尋ねてしまう。

 ジュリは一瞬目を丸くしたが、すぐに首を横に振って答えてくれた。


 こんなことをわざわざ聞くなんて、面倒くさい人間だと言われてしまいそうだ。

 だがこの時点で彼女の気持ちはどうしても知っておきたかった。

 何かしらの訳があってくっついてきているのは明白。もしかしたら、嫌々な相手に無理しているのかもしれないと感じて。



「そうか、ならよかった……本当に」


 だが、そうではないと知って弱々しく安堵の声を漏らす。むしろ愚問ですらあったらしい。

 実際、ゼントは抱き着かれていることに対して満更でもなかった。

 なぜなら、安心しているジュリを間近で見られて悪い気はしないから。それだけが理由でもないが……



 獣臭さがあるとは言ってしまったが、あってないようなものだった。鼻を至近距離で近づけてようやく分かるほどの。

 おそらくずっと逃げ回っていたせいで水浴びができず、偶然気づいてしまったのだろう。

 今に至っては全く気にならない。これならジュリの存在隠し通すことは容易になるはずだ。



 そして、彼女にはそのゼントの気持ちが全て筒抜けだった。

 細かな瞳孔の動きや仕草を鋭い観察眼で見切り、知識を以って感情を的中させられるから。

 無論、もう口に出して伝えることは叶わないのだが。

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