第160話『齟齬』

 



「――まだうごいちゃだめだよ。からだがどうなっているかわからないから。かおにもおおきなあざが……」


 ゼントは半分放心状態だった。所謂、膝枕をされた態勢で聞き入れざるを得ない。

 ユーラは安堵と共に少し変わった笑顔を見せた。口元からは甘い息が漏れている。


 いつも着ている服の感覚がない。池で濡れたので一時的に脱がしてくれたのだろう。

 今彼は下着姿だった。それよりも重要なことを先行する。



「……ジュリは?」


 恐る恐る知りえないことを尋ねてみる。一刻も早く確認したい内容だった。

 自分よりも他者が優先、図らずともこれがゼントの信条だ。


 曰く、殴られて痣が出来ているとのことだが、顔ならば痕にはならないだろう。

 それ以外の体の痛みも特に感じなかった。



「そばにいるよ。しんぱいするようなことはなにもおきてない」


 本意ではなくユーラ頭を撫でられながらも、ゼントも安堵の息を漏らす。

 だが安心ばかりもしていられない。ジュリに会って早く謝らなければ……

 それにユーラもずっとこの体勢では辛かろうと案じて、隙を突き勢いよく起き上がった。



「――あっ……!」


 起き上がった後ろから茫然自失の声がする。

 不意を突かれ、しかし驚愕というよりは落胆したような様子で。



「大丈夫、体はなんともない。もう問題なく動けるよ」


「そ、そうなんだ……」


 心配させまいと元気な様子を見せ、優しく声をかける。

 だがユーラの望みを察せていない時点で彼はどうしようもない男だった。



 ユーラを一旦忘れ、上半身を起こした状態で部屋を見渡す。

 そうしてジュリはどこにいるのか目視で探すと彼女はすぐに見つかった。


 部屋の隅、家具と床の隙間に碧い双眸が光る。

 例え暗闇の中だろうと彼女の存在は、瞳おかげで居場所がはっきり分かることだろう。



 申し訳なさそうな、あるいは恨めしそうな。薄っすらと判別できる表情は複雑そのものだ。

 ただ床に伏せた状態でひっそりとゼントを見つめていた。

 どのような思いをしているのか、残念ながら顔を見ただけでは思いは伝わってこない。



「――じゅりがおにいちゃんをここまではこんできてくれたんだよ」


 横からユーラの、から元気で明るさが耳に入る。

 なんと語り掛けたらよいか言いあぐねていたが、ゼントはせめてもの感謝を述べた。



「そうか、ジュリ、その、本当にありがとう……それから――」


 ゼントはジュリに対して向き直り、正座をしてから手を床につけ深く頭を下げる。

 一呼吸おき、全力を以って真摯に謝意を口にした。



「――先程のことは本当に申し訳ない! 言うにしても言葉を選ぶべきだった、全部俺の意識が足りなかったことが原因なんだ!」


 それは最大限の反省、詫びを示した姿勢。上半身裸の姿、猥雑にも程度というものがある。

 嘘偽りない顧みる態度を見せ、証として誠心誠意尽くした謝罪を声に出した。

 赦されるかどうかは別にして、それ以外に彼ができることは何もない。



 一方のジュリは憤慨している様子は微塵もなく、ただただ意気消沈していた。

 目を著しく背け、眉の部分は明らかに下がり、尾も覇気なく付け根から垂れている。

 そして頻りに自身の腕を鼻前にもっていっていた。何を気にしているは明白。


 その様子を見てゼントの感情も地の底に沈み込む。赦してもらえないのだと悟ったから。

 だが実際は少し事情が違った。二人の認識には乖離が生じている。



 ジュリはゼントのことを、ほんの少しも責める気はない。むしろ多大な感謝すらしていた。

 なぜなら彼女は一人だけでは生きていけないからだ。その身は町から追われ、糧を取ることすらままならない。

 更に絶対に遭遇したくない脅威が外にあった。それから逃れるにはならなかった。


 だからジュリはここに戻らざるを得なかったのだ。

 どうしようもならない自らの境遇を悲観していたのは事実。

 しかし感情は自身に向けられたもの。決して周囲にではない。



「ジュリ、一度限りでいい、俺に償う機会をくれないか……!?」


 ゼントは図々しく、最後の悪あがきを見せた。

 例え自己中心的だと言われようが、理が非でも和解したかったから。

 一見自分勝手にも思えるがその行動は正しい。彼女は怒ってすらないのだから。



 赦しを乞うため顔を上げゆっくりと手を差し伸べる。

 最後の希望を賭して、これでだめなら諦めるしかなかった。

 するとびくびくと震えながらだが、向こうも手を家具の下から伸ばしてくる。


 その手には本来あるべき指はなく、痛々しく焼けた断面が残っていた。

 代わりに丁寧で淑やかな体毛が備わっている。あともう少しでつかみ取れるはずだった。



 ――だが触れ合う直前、ジュリは己の手を瞬時に引っ込める。


 恐怖したわけではない。どうしても頭の中には躊躇が生まれてしまったのだ。

 果たして、自分の“この体”で彼に触れていいのだろうか?

 本当は迷惑なのに無理して気遣ってくれているのではないのか。



 そして、ゼントがその行動で拒絶されたと感じるのも仕方がない。

 絶望というよりは、もうすでに想定して諦めもついていた。

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