第159話『純然』

 



 サラが以前言っていた。亜人の獣臭さが嫌悪の一つの要因だと。

 でもジュリを見れば分かる。彼らも十分気を使っていたのだ。

 やむに已まれぬ致し方ない事情もあったのかもしれない。



「――ジュリ、お願いだから!!さっきのことは謝るから!!」


 ゼントは謝罪を続けながら制止しようとする。だがこれは謝ればいいという問題でもない。

 一度本人の前で口に出たということは、即ち本人には事実としてそれが伝わってしまったということ。

 悪意があってもなくても、ジュリが傷ついたことには変わりないのだ。


 その証拠に今の行動はまさに体のにおいを嫌い、落とそうとしているのだろう。

 もはや言葉による説得は用をなさない。やめさせるには実力行使しかなかった。


 何も考えずにまずは羽交い絞めにしてみる。

 だがジュリの身のこなしには隙がなく手の付けようがない。

 仮に不意を衝いて手足を拘束できたとしても人間にはない膂力で弾かれる。

 まるで執念というべきか、それ以上に過剰なまでの行動力。



 言葉だけでは現状を変えられないと知りここまで来たのに、実力でも彼女相手ではどうにもならない。

 ならば結局聞き入れてくれるかわからずともまた言葉に頼る他なかった。

 だが錯乱状態というのか、一切を受け付けてはくれない。


 とにかく死に物狂いでジュリを止めなければという思いで頭を埋め尽くされる。

 何が最善か、賢い者ならどうするのか。当たり前だがゼントはその人ではない。

 例え賢者には成れずとも彼は正しくあり続けなければならなかった。



「――ジュリ……お願いだから……!」


 もし時間を巻き戻せるなら、ゼントは魂すらも売り渡してしまうかもしれない。

 どうせ死後は何も残らないだろう。なかったことにできるなら安い代償だ。


 だがそれは些か早計かもしれない。混沌とした中で思案を巡らせた結果とある案を考え付く。

 卑怯かもしれないがここはひとつ、一縷の望みとして賭けてみることにした。



 一抹の不安はありつつも、終始水の中で揺らめいていたジュリの尻尾の先を強く掴んだ。



「――あ゛ぅ!?」



 ゼントは知っていた。多くの生き物は鼻先や尾など、体の末端は急所になりやすいことを。


 “知識は力なり”――かつてその言葉を信じ、魔獣を研究したときに得た知見だ。

 だが現実は違った。知識があれども、それを実現できる技術がなければ無意味だと。

 そもそも力無き者は、強者の門出に居合わせることすら許されないと理解してしまった。



 しかし、今回に限ってはその前提が覆る。絶えず暴れるジュリに変化が訪れたのだ。

 彼女は目を見開き、胴は背中側にのけぞり、全身を石膏のように強張らせる。

 そして短く悲鳴を上げて数舜の硬直の後、のっそりとゼントの方向へと振り向く。


 彼女の顔は目を疑うほどに赤く染まり、所謂半泣きの状態でぐずっていた。

 二人の間には動作がなく、まるで時間を止めたかのような空気が流れている。


 ようやく話を聞いてもらえると思ったゼントは優しく笑いかけた。疲労故か引きつっているようにも見えたが。

 しかし現状から一歩前進したのは確かだ。

 このまま宥めて落ち着かせようとしたその瞬間――



 ――束の間の好転も須臾の夢と散る。


 端的に換言すれば、ジュリから右フックがゼントの顔面に飛んできたのだ。

 厳密に言っても掌で横向きに殴られただけだが。


 だがその単純な破壊力は侮れない。亜人の身体能力は……

 現に油断して直撃を避けられなかったゼントは、余儀なく意識を明滅させたのち手放す。

 そして比喩ではなく物理的に池に倒れ落ちて沈んだ。



 ――それは、傍らで水の泡が弾けるよりもあっけなく。



 仕方がなかったとしか言いようがない。

 誰がこのような結末を想像できただろうか。


 しかしこの出来事はあながち間違いではなかったのかもしれない。

 冷たい池の底に沈んでいく彼を見て、ジュリの顔は再び真っ青になっていた。



 ◇◆◇◆




「――おにいちゃん、おにいちゃん!!」


 呼び起され、次にゼントが暗闇から目覚めると見知った天井がまず視界に入った。

 ここは家の中、近くでユーラの心配している声が何よりの安心材料だ。


 同時に左頬に鈍い痛みが走った。骨を伝わり、疼痛は顔全体や首にまで及ぶ。

 どうやらジュリのこぶしをもろに叩き込まれてみっともなく気絶したらしい。

 そしてどういう経緯か、家の床で横になっている。あれからどうなったのだろうか。


 急いで状況を確認しようと頭を持ち上げ、体を起こそうとしたその時――

 何者かに上から頭部を押さえつけられた。



 意識が朦朧として抵抗もできず、頭は床に叩きつけられる……前に何かにぶつかった。

 後頭部に感じる柔らかく、優しく包み込むような感触。

 その絶妙な弾力に、ゼントは慌てるどころか落ち着き払ってしまう。



「――まだうごいちゃだめ!!」


 真上から聞こえてくるのはユーラの声。見上げると彼女の真剣な顔が見えた。

 意識もだんだんはっきりしてきて、なんとなく今の状態が理解できてくる。


 ゼントの頭は今、ユーラに“膝”の上に乗せられているのだ。

 ならば頭の後ろの感触も自ずと納得できた。


 役得……と言いたいところだがさすがはゼント。

 自身の不甲斐なさ故に、また呆れながらため息を吐くのだった。




―――――――――――――――――――――



一般に動物の尻尾を掴むと嫌がります。

大きな怪我の原因にもなるので絶対やめましょう。

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