第158話『紛糾』
「――おにいちゃん!!!」
それは迸る噴煙のようなユーラの怒声だった。
部屋に響いて鳴りやまぬほどの音量につい耳を塞ぎたくなる。
彼女はまだ怒りが収まらず、感情をまき散らす。
「おんなのこにたいして、なんてこというの!もっとやさしくつつみこんだいいかたとかあったでしょ!?」
「そ、それは……」
信じられないとばかりに悲壮な言葉を投げかけるユーラ。
刹那に表情は悲しみに暮れ、憎しみの一歩手前といえるほど。
一方のゼントは開いた口が塞がらず、みっともなく狼狽する。
なぜなら今の今まで、自分が何をしたのかを理解していなかったからだ。
ただ必要なことだと思って事実を告げただけだと考えていた。
ジュリの突然の行動、そしてユーラがなぜ怒っているのか。
それは女性同士だからこそ即座にわかる感情の共有。
今更の理解、今更の得心、だがまだ手遅れでもない。
「なにしているの!?はやくおいかけて!!」
荒ぶる声に急かされて、ゼントは返事もせずに家を飛び出す。
ジュリの姿をもし誰かに見られでもしたら大変なことになる。
それは、正しく彼女の喪失と同義だ。何としても追いかけ見つけ出さねば。
初めのユーラ叫び声がまだ耳に張り付いて離れない。
思い返せば彼女がここまで強く意見を言うことなど、今まであっただろうか。
いつも何か言うたびに顔色を窺っていたのに、妙々たる成長といえるだろう。
きっとジュリに対する足りる強い絆を持っていたのだ。
まだ出会って間もないのに羨ましい限り。
そんな話はさておき、ゼントはジュリに後を追った。そこまで遠くには行っていないはず。
外は快晴だったが地面はまだぬかるんでいる。
彼女の作った特徴的な足跡はすぐに見つかった。
細長い肉球の形がはっきり残っている。
跡を見失わないようにその上を一歩一歩踏みしめてゆく。
しばらく歩いていくと、騒々しい水の音が耳に入った。
意を決して陰から覗くと、そこは森の中の池。広さは人が何十も入れるほど。
いつもゼントらが水浴びをする場所だった。
そしてその中心に居た――探している彼女、ジュリが。
昨夜会ったときは茶色に見えた毛並みも今や限りなく純白を取り戻していた。
陽光に照らされ、白く光るようなその姿からは儚くも力強さを感じる。
ジュリはユーラが貸した服を脱ぎ捨て、池の中心に飛び込んだのだろう。
全身から水が滴り、そして――そこで必死に体を洗っていた。
腕に掌を重ね体毛が擦り切れるほど多力に、片腕が見えなくなるほど凄まじい速度で。
しかも、もう十分だというのに同じ部分を何度も擦り続け止まる気配がない。
このままでは皮膚や体を痛めてしまう。ゼントはすぐに飛び出して声をかける。
「――ジュ、ジュリっ!」
決して小さくはない声量のはずだったが、彼女はちらとゼントを見るだけで行為をやめる様子はない。
鬼気迫る表情で体を洗い続けていた。焦りと心咎めからか歯を食いしばって。
その姿を見たゼントは躊躇いもなく池に入水した。
聞かないのなら物理的に止めるしかない。
それが彼の義務であるのだから。
なぜこんなことになったのか、頭を働かせるまでもない。
そう、全てはゼントの先ほどの発言にある。
もう一度示すことすら憚られる単語。
少なくとも女性に対して使うべき言葉ではなかった。
どうしてかその辺り、深層意識の途中で配慮に欠けている。
「――ジュリ、ごめん!!俺の言い方が悪かった。さっきはそんなつもりで言ったんじゃなくて……」
ジュリに近づきながら、ゼントは謝罪の言葉をひしひしと述べる。
その表情は苦悶と後悔に満ち、申し訳なさで胸がいっぱいいっぱい。
彼を唯一擁護できる点があるとすれば、においの件は死活問題だった。
万が一、またグリモスたちが家を訪ねてくることを考えると、においだけでなく音などにもかなり気を使わなければならない。
しかし、にしても言い方が非常にまずかった。そのせいで起きる全ては自業自得だ。
動きにくい水の中をかき分け進む。
ジュリに触れられるほど寄ったゼントは迷わず両肩を持ちなだめようとする。
だが予想通り彼女は暴れ出す。言葉だけならそう難しくないように見えるが、獣人の力は桁外れだ。
当然、為されるがままで動きを止めることはできず。
本当に最低な人間だ。彼女にここまでの行動をさせてしまうなんて。
全ては言動を軽んじた自身が原因だ。なぜあんなことを言ってしまったのか。
それにはいくつかの理由があるがどれも似たようなものだ。
然り獣人、もとい亜人との接し方が判らなかった。いや、それは愚鈍にも程がある言い訳だろう。
ジュリを……彼は一人の人格ある者として見ていなかった。それが全ての元凶だ。
一般的に亜人は人間達から下に見られることがほとんどだ。
ただ会話ができるだけで魔獣とそう変わりないと思われている。
だが実際は違う。姿かたちが違い、文化が多少異なるだけで本質に差異などないのだ。
人間と亜人、それぞれ認識の違いが互いの種族間の摩擦を生じさせている。
ゼントは人間の中でも珍しく、亜人に偏見を持たない人物のはずだった。
しかしジュリに対してだけは、その見た目や動きからどこか愛玩動物みたいだと感じていた。
表面上は思って接してなくとも、心の奥底ではそう間違って理解していたのだ。
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