第155話『瑕疵』

 



「――ゼントそいつと何を……しているの?」



 ライラの視線の先、木の傍で信じられない光景を見る。

 胸中には収めきらぬほどの混乱が渦巻き、しかし現実が事実だと正当に認めていた。


 彼がいる。ただそれだけならまだ問題がない。

 見覚えのある薄汚れた獣を抱きかかえて、いや抱きしめている。

 今まで一度も見たこともない幸せそうな顔で。


 その存在とは疑いようもなく、ジュリであった。

 綺麗にした毛並みや服はまた泥で汚れていたが、彼女の手を見れば見間違いようがない。

 どうしてここにいるのだろうか。遠くに逃げ出そうとして何か問題があって戻ってきたのか。


 しかしライラにとってはそんなこと至極どうでもいい。

 何より許せなかったのは他の者と抱き合っていること。

 ゼントのそこは己の居場所のはずなのに……


 そして彼はなぜ涙ぐむのか、なぜ自分以外の存在に微笑みかけるか。

 自分の声には反応もくれない。こんなことは初めてだった。

 同時に、心に湧いてくるのは……どうにも抑えきれない火炎のような怒り。



 思えばゼントとの関係は、最初からどうにもならない劣弱意識が心にあった。

 他の人間とはある程度物腰柔らかに会話するのに、自分に対してはどこかぶっきらぼうだ。

 名前もほとんど呼んでくれない。今まで聞いたのは精々緊急時に数回程度。


 なぜ、なぜ、なぜ? 思考を繰り返し、実験を試してもみてもわからない。

 どうしたら態度が軟化するのか、どうしたらこちらを見てくれるのか、どうしたら認めてもらえるのか。

 何が他の人間とは違うのか。この恋人と同じ名前を使ったのが悪かったのか?


 いくら努力しても報われないのなら、彼の心に変化が訪れないのなら、もういっそ……

 ――自身の持つ力の全てで、強引に支配してしまってもいいのではないか?


 今まではあまり目立ちたくないから少しずつの変化を期待していた。

 だがこれ以上は無駄に思えてくる。自らを苦しめるだけで、募る想いを叶えることもできない。





 ……しかし、ライラは握っていた大剣の力を緩める。

 瞳からは消えかけていた理性の色も戻ってきた。



 もう少しなのかもしれない……と彼女は考え直す。

 あと少しで靡いてくれるのかもしれなかった。

 今までの自分の行動に背きたくはない、それもすべて自身なのだから。


 今に至るまでにも進捗が全くなかったわけではなかった。

 少しずつ見えないところで変化が出始めている可能性はある。

 それに、無理やりに物事を進めて上手くいった試しもない。


 行為を抑止する理由としては些か弱すぎる。

 だがライラは元々の持ち合わせていた願いを思い出した。

 なぜ己がゼントの傍に居たいのか。初めて抱いた想いを。



「……でも、今目の前にいる不快の要因くらいは排除しても許されるよね」


 まるで自分に言い聞かせるように妥協を静かに呟く、でないと我慢が続けられないから。

 再び大剣を持つ手に力を入れ直し、軽々しく振り上げる。

 嫉妬か独占欲か、とにかく少しでも気が晴れるなら何でもいい。



「――だから、ねえゼント、お願いだから早くそいつから離れてっ!!」


 それは、もはや声と言っていいのかも怪しい荒々しい金属が擦れるような音だった。

 緊張の糸が緩み切っていたゼントも流石にこれには目を見開く。

 そして音の方向を見るや否や荒波のように慌てだす。



「――ライラっ!? いや、これは違うんだ!ただちょっと誤解が……」


「何が違うの、何も違わないでしょ?」


 そうだ、彼女の言う通りおかしなところは何もない。

 想像するに、ゼントの背筋は金属よりも固く強張っていたことだろう。


 彼の体を這っているのは魔獣か亜人か。どちらにせよ対処は同じだ。

 今の町では居るだけで、蛇蝎の如く嫌われる存在なのは疑いようがない。


 一緒にいるところを誰かに見られでもしたら……考えるだけでも憚られる。

 だがその想像が今現実のものと化していた。よりによってこのような形で。



「言ってたよね、亜人が嫌いだって。どうしたのゼント、今目の前にいる奴は亜人だよ。ほら、早く離れないと……!」


 ライラは耳朶を撫でるような優しい声で語りかける。

 おそらく彼女は敷かれている町の規律など知らないし、興味もない。

 だから以前聞いたゼントの言葉を信じ、切な心配しているのだろう。



「いや、えっとそれは…………とにかく見逃してくれないか!!?その代わりに埋め合わせはする!!それに……その、かわいそうだろ!?」


「ゼント、それはダメだよ。でも安心して、殺しはしないから。ただそいつは遠くに行ってもらうだけ」


 どうやら周囲に言いふらすようなことはない、らしい。

 だがそうではない。ゼントの考えは。



 ジュリがそれを望むならまだしも、彼女はずっとゼントに抱き着いて離れずにいる。

 ライラが現れてからは怯えが顕著だ。体に痛みが走るほどの締め付け。

 そして目を開けようともしない。まるで目の前の人物が危険だと分かっているかのように。


 これはもう問答を繰り返さなくても意思が判る。ジュリが居たい場所は、居るべき場所はここなのだと。

 理由などもうどうでもいい、そう感じるなら想いに従えばいい。ゼントはただそれをうれしく思った。

 だからその為にもライラをどうにかする必要がある。



「……大丈夫だ、これくらいお前の手を煩わせるまでもないさ。今日はもう遅いから剣を置いて帰っていいぞ」


 誤魔化して、会話を流そうとした。

 しかし軽口を叩き、いつも通りに振舞った直後――

 ゼントは自身の甘い考えを手放す。



 正面のライラは、そう。笑顔ではなく軽蔑の瞳を向けていた。

 ゼントにではなく、その傍らのジュリに対して。

 大剣を振り上げたまま一向に動かない姿を見て、

 どうやらこの現場から脱するには一筋縄どころではいかなそうだと直感が物語った。

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