第149話『取捨』
――部屋の空気は嵐の後の静けさに包まれていた。
非常事態だったとはいえ、随分とあっけなく。
その空間を切り裂くように向かっていくアモス、視線はすっと真正面の一点を捉えている
対してやはり身構えるゼント、固唾を呑んで知らず知らずの内に拳に力が入っていた。
「――ゼント、魔獣に裏をかかれて動揺しているのは分かるが、そう気を落とすな。まあそんな時もあるさ。あの様子だと、おそらく外壁を登って隙間から侵入して潜伏していたんだろう」
苦笑いを浮かべながら慰めの声を掛けてくる。声には温かさがあった
気を落とすな……と言うからには、どうやら魔獣を匿っていたと疑われていないようだ。
あれほど慄然と動揺していたのに、まるで理由を気に留めていない様子。
別の意味で落胆していたのだがそのすれ違いが功を奏したらしい。
ゼントは初めてこの場にサラが居なくてよかったと思ってしまった。
もし彼女と面を対峙させたのなら、たちまち希望の在る窮地から絶望へと変貌するのだから。
だが同時に畏敬の念も抱いた。この性格がバラバラの三名をよくまとめていたのだから。
アモスは軽く会釈をしては走って出て行く。彼も外に逃げた魔獣を追ったのだろう。
向かって来るならいざ知らず、逃げるだけの獣人を人間が捕まえられるとは考えにくい。
しかし手負い、かつ多勢に無勢で追い詰められていけば、時間の問題とも思える。
部屋にはゼントとユーラだけが残された。二人顔を合わせ、二階を確認した。
当然だが、そこにはジュリの姿は見えなくなっている。唖然とするばかりで、これからどうしたらいいのかと頭を抱えた。
危険を冒してでも自分も探して連れ戻すべきなのか、下手に手を出さず天命に委ねるべきなのか。
ただ一つ確かなことは、彼の心の中には間違いなく喪失感があったと言うことだ。
ジュリと過ごした期間は短くとも、離れたくなかったという思いが芽生えていた。
それは、彼女がサラに通じる唯一の手掛かりでもあるから……なのかもしれない。
もしかして彼女はあえて姿を見せてから逃げることで、ゼントから疑いの矛先を背けたのだろうか。
二階に居ても獣人なら下の会話は筒抜けだ。逃げるにも事前にどうにかなったはず。
だとしたら助けに行くべきなのかもしれない。しかし彼はどうにも決めかねていた。
「――俺はこれからどうしたらいい……?」
とうとう堪らなくなって、傍に引っ付くユーラに向かってつい尋ねてしまった。
本来は己の手で決めなければならないのに、ジレンマに陥り時間も余裕も残されていない。
「それは……おにいちゃんがしたいように……すればいいとおもうよ。ゆーらのことはきにしなくていいから」
その返答は子どもながらに無責任なのか、あるいは猶予を与える慈愛に満ちていたのか。
人によって感じ方が異なるだろう。少なくともゼントにとっては後者の他ではなかった。
なぜなら、ユーラは容認したのだから。自身の持つ篤い願いを手放すことすらを。
選択肢はあるように見えてまるで無かった。ユーラを引き取る時、心に誓った覚悟があるからだ。
怯えた表情を潜めた少女を、もう一度見たいとは到底思えない。ならば、とるべき行動は初めから決まっている。
「……俺は、追わない。ユーラと一緒に、ここに居るよ」
「そっか……」
ジュリのことは、このまま全てきれいさっぱり忘れてしまおう。
たかが数日、出会いは散々で、それでも和解して、多少なりとも親しくなっただけの存在。
きっと、サラに逢いたいがために見てしまった幻なのだろうと思い込んでしまおう。
この思考が覆ることは無い。決してあってはならない。
それは人間自身の美徳を消し去ってしまう行為なのだから。
だがどうしてだろう、ひどく物悲しいのは。
瞬きするたびに瞼の裏にはジュリが居た光景が今も見える。
これは代償なのかもしれない。過去に囚われ、サラを強く思い過ぎたが故の。
過ぎたるは猶及ばざるが如く――鋭く研ぎ澄まされ、痛みすらも伴う。
「じゅりにはわるいことしちゃった……でも、おにいちゃんはわるくないよ!」
昨夜の軽い口論のことを顧みているのだろうか。考えてみれば喧嘩別れほどつらいものもない。
しかしそうユーラの言う通り、遅かれ早かれこうなっていたのだ。
であれば、より親しくなる前に別れてしまった方が――
「――それにもしかしたら、ここへこっそりもどってきてくれるかもしれないし……!!」
ゼントは自分の心を守るために必死に言い訳を考えていた。
そんな時に横から聞こえてくるユーラの希望の声。
そんな淡い期待を抱いてもいいのだろうか。報われなかったらよりつらくなるだけだ。
もちろんジュリが居てくれたらこの上なく嬉しい。だが虚しい願いではないだろうか。
どう気を保ったらいいのか。鋭い趾に鷲掴みにされて、締め付けられるような痛みが心臓に走った。
実際のところ、ここへ戻るべき理由が全く思いつかない。
この家に居ても安心はできないことが証明されてしまった。
ならばあのまま町の警戒網の外へ脱してしまった方が、町の人間達に追われず安全というもの。
――だから、彼女が帰ってきてくれるはずがなかった。
ここは大人しく、身の程を弁えて……いつもの日常へ戻ろう。
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