第143話『寛恕』

 



「――も、もしかして許してくれるのか?」



 ゼントはゆっくり頭を上げる。まるで救いを求め彷徨する愚者のように。

 だがそんなはずはなかった。そんな簡単に許されるような行為ではないのだから。

 故にそう感じたのは彼の妄想だ。ありえない妄想のはずだった。



 しかし見上げると彼女――ジュリは黙ったまま何回も何回も頷いてくれている。それは肯定の意。

 そして何も言わずに両手で抱きしめてきた。それはまるで、向こうから縋りつくように。


 全てを赦してくれた……と考えるのはあまりに楽観的だが、それでも。

 少なからず、海洋よりも広い寛大な心で受け入れてくれたことには違いない。



 顔全体が彼女の体毛で優しく包まれ、あたたかい体温が伝わってくる。

 迷える者であるゼントからすれば、それは神々しい存在に感じたのかもしれない。

 彼の瞳は潤んでいた。あと一歩抑えきれなければ決壊し、体の水分は川のように流れていたことだろう。


 なぜジュリがこのような態度を取ったのかは分からない。それほど大らかな性格というわけでもあるまい。

 しかし考える必要は無かった。ただ一心不乱に感謝し、これからの行動で最大限の誠意を伝えていけばいいのだ。



「……ありがとう……本当に悪かった。サラのことで頭がいっぱいで本当にどうかしていた。本当にごめん」



 腫らした目で世迷い言のように謝罪と感謝を繰り返すゼント。

 だが抱き着かれた相手――ジュリの瞳にもどうしてだか涙がある。人知れず彼女は泣いていた。


 辛い過去を思い出していたのか、体の傷が痛んだのか。確かな理由は霞の中に葬られた。

 今明かせるのは、彼女の顔は幸せそうな顔をしていたということだけ。まるで生き別れの家族にでも再会したかのように。




「――ジュリ、もしよければ体の怪我を見せてくれないか?」


 少しの時間を得て二人が落ち着きを取り戻した頃、

 腕の中にうずまったゼントの顔が上がり、その目は彼女の碧い瞳を捉えた。


 ジュリは慌てて両腕を彼の顔から離し、目を拭う。浮かんだ涙を見せないために。

 そして何も無かったようにゼントに向き直り、その場で腕を組んでじっくり考え込み始めた。



「いや、ただ怪我の様子を確認した方がいいと思って……特に他意はないんだ」


 しばらく待ってみてもジュリは頭を抱えて立ち尽くしたまま。

 話が進まないので言葉を付け加えて強調する。


 するとようやく決心がついたのか、頷きひたすらに覚悟を決めた表情を見せた。

 唯一の衣を堂々自ら剥ぎ取る。そして麻で出来た布が宙を舞い、ひらひらと床に落ちゆく。

 恥じらいながらゆっくり脱いでいくのかと思いきや、気後れも遠慮も無く取り去った。



 眼前にはあられもない乙女の素肌が露わになる。だがゼントは全く動じない。

 なぜなら異性であっても種族がかなり違うから。

 全身は体毛に覆われ柔肌が見られず、人間の女性特有の豊満な胸があるわけでもない。


 視界には言うなれば、家畜や野生のありのままの姿を見ているというだけ。

 あまり凝視することは避けたが、彼女の裸に性的興奮を覚える方が人として問題あるというもの。


 ジュリは脱いだ直後から鋭利な岩のように恨めしそうな顔を向けている。

 だがそれも当然かもしれない。腹を括って肌を見せたのにあまりに無反応なのだから。

 彼女の表情がどのような意味を持っているのか、ゼントは気が付かない。




 何はともあれ体の怪我を診た。医者ではなくとも冒険者の知識で簡易な診察くらいはできる。

 ゼントは自らの過ちの痕跡をしかと目に焼き付けて行った。終始罪過の念を抱きながら。


 全身が毛に覆われているとはいえ、お腹や顔は体毛が薄く青い痣が見てとれた。

 だが表面が軽く内出血しているだけで骨は折れていない。見た目ほど酷くはないらしい。

 体に出来た傷だけが罪ではない。ジュリが受けた痛みは想像の比ではないはずだ。




 彼は全身を隈なく見ていく内に他のことが気になり始めた。

 ジュリは自分が亜人ではないと言っていたが、体の造りはほとんど亜人と変わらない。

 今までこれ程近くで亜人を見たことが無かった彼は、怪我を診終わると身体の細かい構造につい目が行ってしまった。


 踵の浮いた趾行の足、その裏にある滑らかで手触りの良い蹠球、頭部に生えた大きな耳と角と洞毛。

 程よい大きさと長さと太さを兼ね備えた尻尾、全て人間の体には無い好奇な特徴だ。

 そして極め付きは全身に生え揃うしなやかな毛並み。


 決して過ちを忘れたわけでは無いが、それでも……

 見た目の恐ろしさを裏切る、体毛の細部に至るまで緻密な柔らかさの抱擁は何物にも替え難い。

 ずっと触っていても飽きというものを知らずに済んだ



「――口を開けてくれるか?」


 そう伝えるとジュリは不機嫌な顔は相変わらず、黙ったまま口を開ける。

 中を見ると強く湾曲した輪郭に添って鋭く生える狂暴な鋸歯、更にたるんだ口元から涎が滴る健康的な歯肉。

 怪我を診るつもりが、図らずも未知との遭遇に見入ってしまった。


 顎に関しては体以上に無傷。昨夜強く踏みつけた時は、ただ軋んだ音が鳴っただけだったらしい。

 加害者の全力があまりに非力だったのか、あるいは被害者の身体がはるかに強靭だったのか。



 とにかく致命的な怪我がなくてゼントは心の底から安堵する。

 興味に煽られ、必要以上に彼女の体をベタベタと触ってしまったことも否めないが。


 一方ジュリは途中、くすぐったそうにしたり恥ずかしそうに呼吸を荒くしたり。

 今は落ち着いたまま……様々な要因が重なり顔はご機嫌が斜めになっていた。



 ――しかし彼女の想いはもう、直接言葉で伝えることはできないのだろう。

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