第138話『明暗』

 



 ――目の前の仇は逃したくない。逃すべきではない。

 だがユーラの常識を超えた行動によりそれができずにいる。



 流石にゼントも完全に正気を失っているわけでは無かった。

 護るべきユーラを傷つけるなど本末転倒、僅かな差であってもどちらが大事かなんて明白だ。

 当然、剣を振り下ろす気なんて起きるはずがなかった。


 構え脅したら恐怖で慄いてすぐにどいてくれるだろうと考えていたのだ。

 だが予想とは裏腹にユーラの気持ちの方が堅いのか、目は瞑っても一向にどいてくれる気配がない。


 まるでこれが責務だと言わんばかりに、彼女の薄眼から見える亜麻色の瞳が示していた。

 とうとうゼントの方が察して根負けしてしまい腕を下げる。自分の取るべき行動が分からなくなったから。

 彼女も様子を見て少し頭が冷えたのかもしれない。



「ユーラ、そいつは危険なんだ。早く殺さないと周りが襲われて被害出る!」


 物理的に脅すのではなく、今度は理性的に説得を始めるゼント。

 どう考えても順序が逆だが、それくらいには余裕が無かった。

 ユーラは未だ目を瞑ったまま、だが手には握りこぶしを作りながら反論する。



「そんなのうそだよ!じゃあなんでずっといっしょにいるゆーらはいきてるの!?」


 勢いのある声で指摘をされ、ゼントは初めてユーラの姿を視界に捉えてみる。

 隅々までつぶさに見渡すが、あるのは泥のようなもので汚れた跡だけ。確かに襲われた形跡はなかった。

 だが相手がきっと顎を潰されて衰弱もしているからだろう。


 そして、怪我が無いからと言って殺さない理由にもならなかった。

 だがユーラにとって酷なことだ。互いの理解が及ばない限りは行動に移せない。

 だからゼントは納得を促すために、同情心を煽るように説得を続ける。



「……あと、多分だけどそいつは俺の大切な人の命を奪っている。そうでなくとも危険に晒していたはずなんだ。証拠にその人が絶対に手放さない物をこいつは持っていた」


「このこはゆーらのことばもわかるくらいかしこいの!だれかをおそったりなんてするはずがない!」


 彼女にしては凄い剣幕と勢いは衰えず必死の抵抗を続ける。

 言葉も通じないはずなのに、その根拠と自信は一体どこからやってきているのだろうか。


 それに聞き間違いでなければ、先程ユーラは後ろに居る獣を友達とも言っていた。

 考えてみればなぜ家でこの状況になっているのか、ゼントは知らない。

 互いの認識に齟齬があるのかもしれないと考え、念のために耳を傾けてみることにした。



「ユーラ、それはたまたま運が良かっただけかもしれない。顔見知りでも人間でもない相手なのに、なぜそう言い切れる」


「そ、それは……なんとなく……」


 論理の急所をつけたのか、ユーラの発現は虚を衝かれたように勢いを失った。

 おそらく彼女と獣が一緒に居たのは短時間だけ。それほどまでの信頼関係など築けるわけがない。



「それに俺は戸締りをしっかりして、外から来た者は誰であろうと扉を開けるなと言ったはずだぞ」


「ちがう!このこはおにいちゃんがでたあとすぐに、にかいからゆっくりあるいておりてきたの!すごくおびえていたし、けがもしてて、それで……」


 ゼントはその隙を逃さず追撃を行った。まるで自分の主張こそが正しいのだと言わんばかりに責め立てる。

 だがユーラの側にも声を大にできる事情があるらしく一筋縄ではいかない。




 ……話は平行線の一途を辿っていた。このままでは埒が明かない。

 だが理があるのはゼントのように見える。向こうの主張は一般的ではなく感情の流されるまま。

 だからと突き通したところでユーラは納得しないだろう。彼女を第一に行動すると誓ったためにそれは許されない。



 思えば、退行したユーラが他の生物にこれほどまでに関心を示すことなど今まであっただろうか。

 彼女には人間だけでなく、“全ての生物”が気持ち悪い怪物に見えるらしい。

 日課の水汲みなどで森の中に入るのだが、小動物がおどろおどろしいと怯えて逃げ帰ってきたことがあった。


 曰く、ゼントの不在を狙ったように現れた魔獣、だがその間ユーラに危害を加えるわけでもなく。

 彼女もまだよく分からない生物相手に理屈ではなく、まるで長年寄り添った友のように庇い立てする。

 様々な要因が重なり合い、彼の思考の中枢にあった亀裂から、懊悩が入りこんで来た。誰でもなくユーラの振る舞いによって。


 未だに殺すべきだと強く主張する己が思考の大半を占めている。

 だけども心のどこかに引っかかりが残っていた。初めて奴を見たその時から。

 本当に自分は奴を殺すべきなのだろうか、本当はただ怒りに満ちて鬱憤を晴らしたいだけなのではないか。


 ほんの心のどこかでは、ゼントはこの特殊な獣のことが気になっていたのかもしれない。

 今すぐ殺すことは至極簡単なことだ。ユーラの隙を突いて横から喉元に剣を突き立てればいい。


 だがその瞬間に現実は過去のものとなり、そして過去は己の制御を超えて決して届かなくなる。

 だからゼントはこう提案をした。それが彼なりの最大限の譲歩だった。



「……分かった、少なくとも今ここで殺すことはやめる。ユーラの話ももう少し聞きたい。でも危険じゃないと確認できるまで、こいつの手足は縛っておく。それでいいか?」


「うっ、うんっそれでいい!!すぐにおにいちゃんもこのこのすごさがわかるはずだから!!」


 そう言った瞬間、ユーラの目は見開かれる。同時に喜びの両手を挙げて子どものように飛び跳ねた。

 それは彼女がここに来てからも見たことがない笑顔。彼が一番見たかったものかもしれない。



 過去は絶対変えられない。それはゼント自身が一番よく分かっている。

 だからこそ、取り返しがつかない事態だけは避けたい。

 拘束できるなら話を聞いてからでも遅くはないだろう。


 ユーラの決死の庇いがあり、自身の思考が改められたことに対して、

 ――胸のどこかでは、僅かばかりに胸を撫で下ろそうとしている自分が居た。

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