第131話『絶念』

 



 ――亜人というのは人間の言葉が使えるのが通常だ。

 声帯が無く言葉を介さない種族もいるが、そんな者らは亜人の森から決して出ないはず。



 つまり、ゼントが今正面に捉えているのは少なくとも“亜人”ではない。


 ――確実、ではないがあの凶暴で誰かれ構わず襲う“魔獣”である可能性が極めて高い。


 本来、町の周囲は何重にも厳重な警備が敷かれ、魔獣は一匹たりとも近寄れないだろう。

 だからここに魔獣は現れないはず。でも、だとしたら目の前に居るのは何だ?


 ともかく今は原因を探る時ではない。魔獣は例外なく周りに被害をもたらす。

 冒険者として、誰かが襲われる前に一刻も早く駆除しなければ。


 そう思い至ったゼントは腰に手を翳すと、すかさず剣を引き抜こうとする。

 だがすぐに剣を持っていないことに気づく。基本外にでない限り家から持ち出したりはしない。



 まずいっ――!!


 目の前の獣はもう体を起こそうとしている。

 先程は不意を突けたからよかったものの、真正面から対峙したら丸腰では太刀打ちできない。

 ならばできることは一つ、逃げるしかない。




 そうであるというのに、ゼントの足は微動だにしなかった。

 走り出す、ただそれだけの事なのに、全身が凍り付き硬い金属にでもなってしまったようだ。


 腰が抜けていたわけではない。仰天して竦んでいたわけでもない。

 それに奴を倒す良い術を見つけたわけでも、賢い逃げ道を見つけたわけでも。

 ただ、ある一つの物を凝視し釘付けになっている。



 ――“それ”を見てしまってからからというもの、見違えるようにおかしくなってしまった。


 なぜなら、そいつは本来持っていてはいけない物を……口に咥えていたのだから。

 周囲の空気が歪に淀んだ。ゼントの視覚は正面に釘付けになり、それ以外の全ての感覚を寄せ付けなくなった。雨に打たれる触覚も、寒いという痛覚すらも。

 まるで悪鬼にでも取りつかれてしまったように、そこにやさしい性格の青年はどこかへ消え去った。




 ――勝負はほぼ刹那の間に決する。


 武器を何一つ持っていないのに、ゼントはその獣に飛びかかった。

 持っていた灯りを全力で相手に投げつけて敵が怯んだ隙に肉薄する。

 カンテラは見事に頭部に直撃し、中に残っていた燃料を消費しながら一瞬だけ大きな炎をあげる。



「――ぁがッ!!」


 不意をくらった獣は短い悲鳴を上げる。雨の音で容易にかき消される小さな声。

 一瞬とはいえ苦手な炎を前にして驚かない魔獣などいない。しかし全身に水を多く含んだ体毛、火が燃え移ることはなく。

 ゼントもそれは分かっている。鼻先で上がる火、焼けるような熱をものともせずに、そして――


 ――まだ起き上がる前だった獣の頭目掛けて、真上から全力の拳を繰り出した。


 当然殴った腕にも衝撃が帰ってきて痛むが、代償に最大級の攻撃を叩きこめる。

 脳に直接衝撃を貰った相手はよろめき、背中を上に前に倒れ込む。

 何が起こっているのか状況が呑み込めないのか、目を見開いて何度も瞬きをしている。



 勝負は一秒にも満たない中で決まり、制圧するに至った。雨の音が聞こえなくなるほどの大胆で華麗な攻めだ。

 本来はこんな流れるように上手くいくはずがない。相手も死に物狂いで応戦するからだ。


 だが先程よろめきながら近づいてきたところを見るに、かなり弱っているのかもしれない。

 獲物を見つけ最後の力を振り絞って近づいてきたようにも見えた。


 しかし油断していると今度はこちらが襲われかねない。

 最後に弱らせる目的でぬかるんだ地面に沈んだ獣を、何度も何度も胴体や頭部に蹴りを入れた。

 灯りを失ってしまい完全に暗い中での出来事だ。肉に当たる足先の感触だけでは気持ちの収まりはつかない。



 ……途中ふと褪める。怒りで我を忘れてしまい自分でも何をしているのか分からない状態だった。

 一旦ゼントは落ち着くかと思われたがすぐに同じ行動を繰り返す。まだ怒りが収まらなかった。

 そして暴力を行使する者の瞳には、絶えず溢れんばかりの涙が零れている。大切な者を失った人のものだ。


 抵抗もなく、それでも感情に流されるまま、力の限り複数回踏みつける。

 お腹を見せ仰向けに転がったところで、顔の前に伸びた口を足で強烈に押さえつけ動けなくした。

 灯りを確保するために予備の蝋燭に火をつけると、目的の物を回収するために屈んだ。



「――おい、動くなよ。少しでも妙な真似をすれば、このまま踏み抜いて顎の骨を折る!」


 どうせ魔獣に言葉は通じないのに脅迫の言葉を入れる。そして念のために獣の“手”を確認した。

 腹の部分には青い痣が、また口や鼻からは多量の出血。だがまだ息はあるようだ。

 これだけ非道なことをしておいてなんだが、万が一亜人であったのなら取り返しがつかない。



 ……でもやっぱり、詳細に見るまでもなく魔獣だった。



 亜人と魔獣の見分け方はいくつかあるが、その一つが手を確認すること。

 亜人の中の特に獣人、彼らは爪や肉球も備わっているが物を掴めるように枝分かれした指もある。

 一方、魔獣の手は物を掴むようには出来ていない。独立した指は無く、完全に狩りに特化していた


 そう言った意味で観察すると……今ゼントの目の前に居る獣は間違いなく魔獣だ。

 どう考えてもこの獣の手先は物を掴めるようには見えない。




 確認が済んだところで、ようやくゼントは獣の口元に手を伸ばす。

 そしてこれでもかと大事そうに咥えられていた、物を奪い取る。

 魔獣も気絶しているのかあっさり手放した。だが途中、何度暴行を加えられてもそいつが口から放すことはしなかった。


 “それ”をゼントは回収して、そして……




 ――今度こそ本当に絶望した。




 魔獣が口に咥えていた物、それはサラの部屋から唯一消えた彼女の持ち物。


 短杖の形をした魔術具だった。

 最上部の装飾を見て、偽物ではないと確信できる。



 では、それを魔獣が持っている理由は何だ?

 知性を持たない彼らは獲物以外に興味は無い。

 そもそもここに魔獣が居る事自体がおかしいのだ。


 だが、一番可能性として考えられるのは……

 サラがこの魔獣もしくは群れに襲われ、魔術具を手放さざるを得ない状況になったと言うこと。



 もうこの際だ。回りくどい言い方はせずに、はっきり言おう。


 それはつまり、旅に出て目的地に向かう途中でサラは襲われ、命を喰われたということ。

 目の前のこいつが、だ。そして何かの偶然で……魔術具の持つ力にでも惹かれ、咥えたまま町に来た?



 いやいや、それはあまりにおかしい。偶然が重なったのだとしても、あまりに考えにくい状況ではないか。

 それこそまさに天文学的数字の確立になってしまう。


 だが絶対とも言い切れないのも事実。そして、それ以外に思いつく理由も思い浮かばない。

 そうだ、こいつがサラの魔術具を持っている合理的な理由が何一つとして考えられない!

 戦利品として懇意の自分に見せつけに来た、と言われた方がまだ納得できる気さえする。



 とにかく今は考える時ではない。

 少しでも早く殺そう。こいつを……



 ――ゼントは涙を拭うこともできずに、顎に添えた足先に精いっぱいの力を籠める。

 自然ではありえない圧力がかかり、骨が軋む音が痛々しく路地裏の空間に響いた。

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