第125話『無稽』
――翌朝、雷雨は過ぎ去って空はいくらか明るくなった。
しかし雲は未だ晴れず天気も小雨と、気温も普段の調子が戻っていない。
その中でゼントは、少なくない水滴に打たれながら朝の鍛錬を行っていた。
もう誰の足も引っ張るまい、と強い意志を持って励む。
だが地面の土は夜通し降った雨でぬかるみ、素振りしかできず精が出なかった。
これ以上やっても意味を見いだせず、今日はもう終わりにしようかと思ってしまう。
しかしそれではさすがに味気ない。先程の気概はどこへ行ったのかと指を差されそうだ。
どうしようかと悩んでいる時、突然とある人物が後ろから声を掛けてきた。
「――ゼント、ごめんなさい」
「うわっ、なんだ!?」
薄ら寒い中、亡霊のように今にも消えそうな声が聞こえたら驚くのも無理はない。
慌てて振り返ると雨の中、傘も雨具も着ない状態で垂れる黒髪が見えた。
服も髪も振り落ちる水を吸収せず弾いている為、本人は一切濡れていないのが不思議だ。
ライラ――昨日家の前で会ったばかりの彼女が、見たことも無いひどく悲しそうな表情で立っている。
明らかに様子がおかしかった。どんよりと意気消沈とした姿が見られるなんて本来奇跡に近い。
もしや、昨日と同じ状態が今なお続いているのではと身構えてしまう。
まるで許されない罪を犯し、償うこともできずに懺悔をするためにここへ来たようだ。
つい最近もユーラが同じような顔をしていた。しかしそれよりも調子が悪そうに見える。
「ゼント、本当にごめんなさい」
「それだけ言われても困る。何か俺に謝るようなことを仕出かしたのか?」
「三日前ゼントに貰った青紫の綺麗な石、あれを私の不注意で壊してしまったの。もちろん復元しようと思ったんだけど、完全に粉々に砕けちゃってて……」
ライラは涙ながらに、といいたいところだが、今にも泣き出しそうな目でも涙は一つと出てこない。
決して悪いと思ってないわけではないだろう。ただ、謝意を伝えるためにどうすればよいのか分かっていないのだ。
なんだ、そんな事か、
とは思いつつも、目の前の光景が未だに信じられなかった。
わざわざ目の前に現れて、何も尊厳の無いやつに頭を下げにくるとは。
ライラは以前、カイロスに対して不適切な発言をして悪びれる様子も無かった。
だが今はどうだ。たかがという程“あれ”の価値は分からないが、それでも小さな石一つ壊した程度でこの有様。
やはり彼女の価値観は常識では測れない。できる事ならその基準を知りたいくらいだ。
正直なところ、石はサラから貰ったものでゼントに謝られても彼は困る。
でも確かにこれは彼女の意図するものではない。それとなく伝えた方が良いのだろうか。
「――ところでゼント、あれはゼントが私の為にくれたんだよね?」
そんなことを考えていると、釘を刺されるような一声。
思考を重ねられたことに思わず心臓が跳ね上がる。
目をなるべく合わせないようにしながら答えた。
「ああ、それはもちろん。何でそんなことを聞くんだ」
もし目の前に居るのがあのサラであったなら、たちまち嘘を見破られて不機嫌な顔をされるに決まっていた。
でもその本人からは口外するなと言われている。ライラ自身も飛び跳ねるくらい喜んでいたし、今更になって真実を告げる必要もないだろう。
「それは……なんとなく確かめたかっただけ。それより大切にするって言ったのに……とにかくわざとじゃないってことだけは、どうしても分かってほしくて……」
「それはもう分かっている。そんなことをするような奴じゃないってこともだ」
完全自立の機械のようなライラがうっかり物を壊すとは、意外と抜けているところもある。
珍しくあれほど喜んでいる姿をみたからか、少々気の毒にも思えてきた。
「私、どうすればいい?」
雨に打たれる中、俯き未だに赦しを乞う視線で語り掛けられる。
一瞬、瞳から水が流れて涙に見えたがただの早とちり、雨雫だ。
ゼントは頭の後ろを掻きながら、やりきれないとばかりにため息を吐いた。
「どうするも何も……事故だったんならそれは仕方ないことだ。謝る必要なんてない」
「代わりになる全く同じ石とかは、あったりしないよね?」
「分からない、でもそこまで言うのなら今度確かめてみるよ」
「うん……できればお願い、します」
昨日と態度は急転、唐突にしおらしくなってしまう。
普段落ち着いた彼女の慌てふためく姿は、微かだが優越感に浸れて悪い気分はしなかった。
それにしても、なぜ取り乱すほどにあの石にこだわるのか、ゼントは理解ができない。少なくとも価値は関係ないらしいが。
でもサラもわざわざ回りくどい方法を取ってまで渡すようなものだ。きっと何かあるのだ。
今度彼女に会ったら聞いてみよう。壊したことに怒るかもしれないが、新しく手に入るなら頭を下げてでも頼もうと思った。
とりあえず応急的ではあるが、話はひと段落つく。
暗い気分で辺りもどんより更に薄暗くなってきた。
気分を切り替えて、明るく元気に話しかける。
「なあ、もしよければ俺と手合わせしてくれないか?」
教えを乞うとまでは言わない。負けることなど目に見えているが、そこから得られるものがあるかもしれない。
てっきり後ろめたい事があった後で、素直にうなずいてくれると思っていた。
しかしライラは首を振り、返ってきたのはお断りだった。
「嫌、私はゼントと戦うために力を蓄えているわけじゃない」
「いやいや、俺が強くなるための訓練だよ。お前がどんなふうに戦うのかも見てみたいし」
彼女の戦い方を見たいというのは本当だ。
今後一緒に仕事をしていく上で、特性を知っておいて損はない。
「ゼントは戦闘で強くなる必要なんてない。私に指示をくれるだけでいい」
「じゃあもし今、俺がお前に剣で襲い掛かったとしたらどうする?」
「ゼントが……どうしてもって言うのなら……」
「……言うのなら?」
ゼントはその先を感じ取って、咄嗟に持っていた剣を正面に構える。
直感で上手く誘導できたと思って、口元は僅かに緩んでいた。
ぬかるんだ地面だがやれないことも無い。むしろ有利になる場面もあるはずだった。
がしかし――
――次の瞬間見えた視界は、一面真っ白の景色。
周りで鳴っていた心休まる弱雨の音すらも消えて、五感では探知し得ない世界。
しかし唯一捉えた視覚、それが雨の降る曇った空だと理解したのはかなり後になってからだった。
地面を踏んでいた足すらも宙に浮いている。何が起こったのか分からず、自分の体勢すらも把握できていなかった。
後ろから地面に叩きつけられそうでも、彼は受け身を取ることすらままならない。
「――私と真面に勝負して生きていたのはゼントが初めてだよ。これでもういいでしょ、もし勝算が付いたのならまた言って」
気が付くと、ゼントはライラの腕に支えられる形で仰向けになっていた。
後頭部や背中に痛みはなく、おそらく倒れる直前に下から支えてもらったのだ。
そこまで来て、ようやく我が身に何が起こったのが推測できるまでに思考が回復する。
あまりに一瞬の出来事で、頭では理解していても感覚がついてこない。
そうだ。薬草採りの時も目の前から瞬時で消えた。あの時既に小さくない片鱗は見えていたのだ。
ただ速度が速いだけではない。さび付いた剣を引き抜いたことからも分かるが、ゼントに勝る力も持ち合わせている。
「じゃあ、私はまだやるべきことが残ってるから、もう行くね。あの石の件は本当にお願いします」
慣れない敬語でしゃべりきると、放心状態で硬直するゼントを壁にもたれさせる。
のち、それ以上用はないとばかりに、雨の中を霞のように消えていった。
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