第122話『為楽』

 



 ――ところで、


 ライラは一連のやり取りの前、家を窓から覗き込んでいたが何を見ていたのだろう。

 その答えは中に一歩足を踏み入れるとすぐに分かった。

 外で二人が騒ぎを起こしたのに、ユーラが確認しに出てこない理由も、



「――ただいま。……ユーラ?」


 帰宅の合図を知らせるが、いつものように近づいてくる姿が見えない。

 それどころか必ず一緒になってくる声すらもない。またもや悪寒が走った。



「ユーラ!」


 慌てて家中を探し回る。だが今回ばかりは杞憂だったようだ。

 なぜなら隣の部屋ですぐに彼女の姿が見つかったからだ。

 しかし、胸を撫で終え押す前、その異様な姿にゼントは絶句する。



 ユーラの身に何か起こったわけでは無い。

 ただ部屋の床で、ゼントがいつも身に着けているコートを体に抱き寄せているだけだ。

 依頼で皮鎧を着ると動きにくく邪魔になるので、外に出るときはいつも家に置いていっているそれ。


 それだけなら何ら問題ない。

 独りが寂しすぎて、ゼントに近しい物を心の拠り所としているのだろう。

 だが、彼女の行動はそれだけではなかった。



 頻りに服に顔を寄せては鼻から息を吸い込んでは匂いを嗅いでいる。

 加えて、そのまま床の上で体をくねらせて、両腕は自身を抱きしめるように動く。

 夜中に見たユーラそのものだった、快楽全身をもって堪能している。



「――だめなのに……このかおりがたまらない。おにいちゃん、ずっとあいしてる。だからおにいちゃんもゆーらをあいしてね、えいえんに。おにいちゃんだいすきだよ。おにいちゃん…………」


 小さく同じような言葉をうわ言のように繰り返している。だが表情は幸せそのものだ。

 ゼントはその光景を目に入れて、不快感こそないものの唖然と立ち尽くした。

 その瞳はいつか見た毒々しさこそないものの、鈍色に濁ってしまっている。



 今、声を掛けるのが正しい行動なのか分からなかった。

 家の中で声を掛けても気が付かないほど夢中になっている。

 しかし何もしなければ夜までずっと続けていそうだ。



「ゆ、ユーラ……?」


「ほら、おにいちゃんがゆーらのなまえをよんでくれたよ!うれしい!しあわせだよ!!」


 恐る恐る声を掛けると、何を勘違いしたのか愉悦で更に瞳が染まった。

 視線はあるはずのない兄へ熱烈、かつ並々ならぬ狂い嗤いゼントの服を蹂躙する。

 見たことも無い笑みと恥じらいの赤で顔を埋め尽くし、喜びのあまり正気を失ったように悶絶していた。

 体の捩りはより顕著になって、彼女の両手はやがてその身の全身を巡る。



 ……これは非常にまずい。考えるのは後にしてひとまず見なかったことにしよう。一旦玄関まで戻って大声でただいまといい直すのだ。

 そうすればさすがにユーラも気が付いて、正常な反応を返してくれるはずだとゼントは考えた。

 それで、まだ様子がおかしかったら……


 気持ちを切り替えて、彼はその場から出直そうとする。

 ゆっくり音を立てないように去ろうとしたその時――



「――っ!?おにいちゃん!?あれ、ほんものだよね?あれ、あれ!?いえにいつかえっていたの!?」


 何度も体を動かして寝返りを打った挙句、運悪く目を開いた瞬間にゼントの姿を見てしまったようだ。

 まるで悍ましいものでも見たかのように、ユーラの目玉がぎょろりと動く。表情には天と地ほどの落差があった。


 辺り一帯は一瞬で張り詰めて、氷のように固まった。

 そして同時にゼントは手に持っていた剣を地面へと落として、存在を確立してしまった。

 まだ自身の妄想の中だと思い込ませておけば、まだ何とかなったかもしれないのに……



「――あ、ああ、たった今帰ってきたところだ。外で物音をさせたからもう気づいているのかと思ってたけど……ちょっと俺は外に出てくる」


 はっきり言ってゼントは彼女が何をしているのか、皆目見当もつかなかった。

 少し寂しくて感情が抑えられなかっただけなのだと予想する。

 嘘で誤魔化すのも忍びない。見てはいけないものを見てしまったと気を使って、愛想笑いを浮かべながら足早に立ち去ろうとした。


 一方ユーラの顔はこの世の終わりとでも言うように血が抜けて、全身を震わせながら青ざめている。

 自身は特段悪い事していたわけでは無い。ただ日常では決して成し得ない、少しばかりの欲求を満たしていたに過ぎない。

 それでも少なからず罪の意識はあるのだろう。目にはやってしまったとばかりに涙が待っていた。



「ごめんなさい、ごめんなさい!!ゆーらそんなつもりはまったくなくて……とにかくゆーらのことおいていかないで!」


 それは絶えず収まることを知らない押し寄せる波のような必死の勢いだった。

 足元に泣きつき縋りついて、なにがなんでも動かないように腕を絡める。

 どうやら互いの認識に乖離があるようで少し話し合う必要がある様子。



「ユーラ、少し落ち着いて。置いて行ったりなんかしないから」


「おりょうりとかおせんたくとか、みのまわりのことはゆーらがぜんぶするから!いわれたことはなんでもするから!きらいにならないで!!」


 突然の変化に対応が遅れて、宥めようとするも効果は非情に薄かった。なにがなんでも、意地でも、落ち着くことなどできないのだろう。

 ユーラにはゼントが全てであり後がなかった。もし見捨てられたら絶望を味わったのち、自棄に塗れたまま断末魔の死しかない。



「ユーラ……」


 嘆くように喚いて何を言っても通じない、言葉だけでは足りないようだ。

 仕方なく、ゼントは手段を講じる。全てを無条件に受け入れて、体を持ち上げて抱きしめた。

 しかしこの行動はなんとなく甘えてしまっているようで嫌だった。できる事なら言葉だけで諭したい。


 彼女は子どものような性格をしているが、体は大人と変わらないので持ち上げるのに苦労する。折れている右腕にも注意しなければならない。

 それでも文字通り童心に還ったユーラを少しでも安心させたい一心だった。



「ほら大丈夫だから。不安で怯えることも、謝ることも一切ないから」


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


 場の空気がいつも通り、というには大袈裟だがユーラは僅かに和んだ表情を見せる。

 ゼントの行動を伴った言葉は通じたのか、泣きじゃくった疲れも相まってか、ゆっくり瞼が落ちて眠ってしまった。いや、感情に振り回されて失神したというのが近いだろう。

 それでも依然、悲痛に歪んだ表情で呟くように謝罪の言葉を何度も何度も並べていた。

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