第101話『不穏』

 



「――お兄ちゃん、ご褒美に私を抱きしめて」



 遅めの朝食を言えると、ユーラが両手を広げて迷いもなく言ってきた。

 そう求められる理由は、食事を作り水を汲むなど、朝のうちにあらゆる家事を全て一人でこなしてくれたからだ。

 勢いに流されているような気がして不安になるも、笑顔で受け入れる。


 恥じらいはなく躊躇いもなく、とびっきりの笑顔と共に抱き着いてくる。

 それは彼女の全体重を乗せて、苛烈といえるほどの衝撃があった。

 それほどまで勢いを想定していなかったゼントは、構えておらずそのまま後ろに崩れる。



「――っつ!?ユーラ、怪我はないか?」


「大丈夫だよ、しばらくこのままで居させて」


 地面は硬い石、受け身が取れなかったが何とか頭だけは守った。

 心配で声を掛けるも問題なさそうだ。むしろ目尻が下がって笑みが深まっている。

 安心しきった声を出し、目はゆっくりとじていった。


 幸いなことに昨日受けた体の傷は一晩寝た時点でほとんど癒えているようだった。

 原因は定かではないがあと一日も経てば、完全にいつも通りに動けるようになるだろう。

 明らかに異常な事例にも拘わらず、目の前のユーラの対応で頭が追い付いていなかった。



「でもこうしているとやっぱり幸せ。ずっとこうしていたい」


 ゼントが驚かせないように起き上がろうとするも、少女とは思えないほど強い力で抱擁される。

 のしかかられた状態で体が密着されて、完全に身動きが取れない。

 目の前にユーラの瞳が来て、よく見ると顔全体が赤くなっていた。



「お兄ちゃん、私……」


 それは色を帯びた声だ。

 呼吸も熱く荒くなっている。



「……そろそろいいだろう。一旦体勢を立て直させて……」


「――ダメっ!!」


 いやな予感がして体を起こそうとすると、より強い力で地面に押し付けられる。

 強烈な拒絶が頭に響く。明らかに何かがおかしかった。ユーラがユーラでないみたいに。



「もう少しだけでいいから、このままで……」


「…………」


 ふとしたように上半身を持ち上げて、ゼントの顔を黙って見つめ続けている。

 彼女は歯を食いしばり、まるで何かを我慢しているようだった。

 それでも吐息が漏れていて、微かな熱がゼントの顔に当たる。


 地面に仰向けに倒された状態で、ただ異様な様子を固唾を呑んで見守っていた。

 接した体越しに激しい鼓動すら伝わってくる。終始ぎらついた眼だったことが底知れぬ恐怖を感じた。




 やがてそのまま数秒の時間が過ぎると、呼吸も心拍も落ち着けてくれたようだ。

 心身を弄する熱を出し切り、馬乗りのような状態から立ち上がって裾を軽く払うと――



「……ごめんなさい。ちょっと止まらなくなっちゃっただけ。ずっと抑圧されていたから」


「ああ、それは構わないんだけど、ユーラ、やっぱりこういうのはやめにしないか?」


 お互いにしばらく無言で見つめ合っていた。

 未だ疲れ切った表情で、息を切らし続けるユーラ。



「……なんだか体が熱くなっちゃった。少し外に居るね。ここから遠くは離れたりしないから」


「あっ、ユーラ……」


 呼びかけには一切答えず、早歩きで玄関から出て行ってしまった。

 取り残された側としてはあの異様な表情が気になって仕方がない。




 その後、結局ユーラは夕方になるまで戻ってこなかった。打ち拉がれてからの自己嫌悪だろうか。

 突然の事で状況が分からなかったが、今は一人の時間が必要なのかもしれない。



 ゼントはその間、暇を潰すためにも壁の修理を始める。

 現在この家は壁の所々にひびが入り、人が通れるほどの隙間すらあった。

 雨風を凌げると言ってもこれでは最低限にも満たない。

 天井も崩れかけて危険な部屋もあって、喫緊とまではいかなくとも補修する必要があった



 この場所を住処にしようと選んだのはゼント自身なのだ。

 しかし、快適に過ごせるようこれほどまでに改修するとは、半年前は思いもしなかった。

 少しずつ前向きに気持ちが動くのは、この考えは慎むべきだが今のユーラのおかげなのかも知れない。


 その代わりに、亡くなった恋人を想う時間はどんどん無くなってしまっている。

 彼女が死ぬ間際に語り掛けた言葉はもうずっと履行できていない。

 最後に交わした約束も、まだ少しも果たす兆しが見えなかった。



 絶えず考え迷ったところで現実が変わるわけでもない。さておき、ゼントは壁を直していく。

 とはいっても本格的な修理できない。木の板などで補強する程度。

 昼間までずっと寝ていたので体力だけは有り余っていた。



 そして、日が傾いてくるとユーラは何事も無かったように戻ってくる。

 心配そうに声を掛けるも、彼女は素知らぬ様子で言った。



「――さあ、これから私が夜ご飯を作るからね!」


 戻って来るなり台所の方へ歩いて行く。とても張り切っている様子だった。

 気持ちを切り替えられたのか、心配させまいとした空元気か。

 ゼントにうかがい知ることはできない。ただ近くで支えてやれるだけだ。



 しかしそれも長くは続かない。

 ユーラを手伝おうと思い隣の部屋へ移動すると、

 家の入口からとある人物が呼び止めた。



「ゼント、ちょっと協会まで急ぎ来てくれないかしら。支部長が呼んでたわよ」


 そこには赤髪を夕焼けに輝かせて、ゼントの冒険者の先輩が立って居た。

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