妖刀村正と時をつなぐ少女

@tonegawa_abiko

妖刀村正と時を繋ぐ少女

「妖 剣   (一)」


美しき山々 美しき海、美しき和歌山

和歌山よ 永遠に


 年末の寒い冬の時期に奈良吉野に訪れる人は少ない。朝のすっかり葉の落ちた、

下千本、中千本、上千本と何千、何万の桜の木の下を行くと、遠くに雪をいただい

た大峰山や紀伊の高い山々が見える。

桜の時期には大変賑わった店頭にも、人の姿がほとんど見えない。

しかし、年越しの準備に忙しく働いている物音が店の奥から聞こえ、山の中なのに

何かあわただしい年の瀬の雰囲気が感じられる。

蔵王堂を過ぎ、中千本より少し下るようにして行くと、如意輪寺に出る。

京都の大きな、寺院と異なり、華やかさはないが、ひなびた、古くからの由緒ある

お寺である。

この寺の宝物殿には楠木正行が、河内へ足利軍を迎え討つ折に、百数十名の一族と

共に訪れ「かえらじと かねておもへば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」

と辞世の歌を扉に鏃で刻んで死地に赴いていった。

その扉が展示してあるので、歴史好きな中高年の人々が多く観覧しに来る。


 朝の九時半、この寺の宝物殿の受付と管理をひとり任されている石井広子は忙し

かった。既にオープンはしていたが、観覧者はまだいなかった。例年、年末のこの

時期はお客が少ないので、普段はしていない部分を重点的に大掃除をしていた。

軒下のくもの巣や煤のような黒い汚れを、長い竹箒で一生懸命にはらっていた。

ふと後に誰かいるような感じがして振り向いた。少し離れた所に若い男が立って

いた。

二十歳前半の日焼けした肌で精悍な顔つきである。

いまどきの学生とは異なる雰囲気した男であった。しかし石井は、この人は最近

一度来ていると思った。この人の鋭い目付きに何か怖い印象が残っていたからで

ある。

中年の少しやせ気味の石井は、この男の鋭い目付きの視線を和らげ、何か意図を

持っていたなら、その気勢を少しでもそごうと、少し微笑みながら声をかけた。

何か普通ではない何かを感じたからである。

「いらっしゃいませ。宝物殿の観覧ですか」

その男は、石井の目を避けるように、視線を地面に落とし、うなずきながら「お

はようす」と言った。

石井はゆっくりと券売り場へ移動しながら「今日は見に来てくださるお客様が少

ないで、ゆっくりと観覧できますね」と言った。

しかし石井はあえて、今日始めてのお客だとは言わなかった。多少不安に感じた

からであった。

男は小銭入れから四百円のバラ銭を出し支払い、観覧券の半券を石井に切っても

らうと、少し頭を下げたが、それ以上何も言わず宝物殿の中に入っていった。

如意輪寺の中庭や、宝物殿の前には、まだ誰もいなかった。石井は誰か早く別の

人が現れないかと思った。

冬の寒い、曇り空の日であった。

男が宝物殿の中に入って三十秒も立たない時であった。

大きなガラスが二度三度割れる音がした。石井は本堂の控え室につながっている

非常ベルを押した。そして男が入っていった方向へ恐る恐る近づいた。

宝物殿は入り口と出口は一緒で、入り口からは左回りで四部屋の展示品を観覧し

ていくと、出口と入り口両用の、もとの場所に戻り、外にでる一方通行になって

いた。

石井が石で割られた陳列窓の前に来ると同時に、出口から男の走り出る足音がし

た。石井は直ちに何が起きたか悟った。

刀が盗まれのである。陳列の刀架のひとつに刀が載っていなかった。

陳列の説明書には重要文化財「村正」と記してあった。




 和歌山市小人町、この町はお寺が多い。二月の夕方七時半、もうあたりは真っ

暗である。

定年に近い庄司は仕事の後、少し同僚と飲んだ。

ほろ酔い気分で、市駅からのバスを降りると、お寺の塀沿いに家へ向かった。塀

を曲がり、あと百メートルほどで我が家である。庄司はそこで後に何か人の気配

を感じた。

その瞬間「ト-ゥ」と言う、低く小さな声が聞こえたか思うと、右肩に激痛がした。

振り向こうとしたが、そのまま庄司は意識が薄れていき、倒れた。

庄司が気がついたときは、病院のベットにうつぶせになっていた。

妻や子供たちが周りを不安そうに囲んでいた。右肩から背中に鋭い刃物で切られ、

全治二ヶ月の重傷であった。

一週間後、和歌山市鷹匠町、今度は三十五才の市役所勤務の公務員が、夜、自宅

付近の駐車場から車を降りたところで、やはり後から、右肩から背中にかけて切ら

れ重傷を負った。

 この連続二件の事件によって、和歌山県警は、同一犯による重大な事件として

「和歌山通り魔事件」の捜査本部を設けた。

ところが二人の被害者の関連性などを中心に調べていた捜査本部に、一日後、奈良

吉野町の毎朝新聞の支局長から電話があった。

それによって捜査方針が一変する事態になった。

支局長が「事件は辻斬りではないか」と言ってきたのである。

吉野の如意輪寺から村正の刀が、二ヶ月ほど前に盗まれた。その刀による通り魔事

件ではないかという情報である。

捜査本部は急いで、鑑識や県の法医学者に鑑識と調査を依頼した。

その結果、最初は鋭い切り口からサバイバル・ナイフなどによるものと思われてい

たのが、大量の豚や牛などの肉を購入し、各種の刀やナイフ、包丁などで切り付け、

調べてみると、鋭い日本刀による可能性が大という鑑定結論がでてきた。

翌日、新聞、テレビ、ラジオなどは大きくこの事件を取り上げ、全国の注目をあ

びることとなった。

「和歌山城下に辻斬り。江戸時代以来の百数十年ぶり」という見出しである。

それ以来、和歌山市内は夜、車の交通量は少なくなり、一人歩きする人はいなくな

った。


警察は日本刀愛好者、収集家と剣道をしたことのある有段者の中から、奈良、和

歌山を中心に容疑者を探そうと調査を開始した。ところが鷹匠町の事件発生付近の

聞き込みをした捜査官より、ある重要な情報がもたらされた。

事件がおきた当日の時間前後、大きい車の排気音がしたということである。小人町

でも暴走族の車のような、大きなマフラーの音が聞こえたと言う。さらにそれを事

件現場の周辺の人々に聞き取り調査をすると、音とともにも不審な白いシルビアの

車が捜査線上に浮かび上がってきた。和歌山県の白いシルビア所有者五百三十人。

捜査を和歌山の隣、奈良、大阪に広げると、たいへんな台数になる。

そこで一応、和歌山市と周辺に限定し、百五台。そこから捜査することになった。


数日後の夜七時過ぎ、あるパトカーより、不審なシルビア発見、現在追跡中の一報

が入ってきた。

白いシルビアに注意せよと、当日の夕方、和歌山全県に注意指令が流されていたが、

岩出署のパトカーが紀ノ川にかかる岩出橋で監視していたところ、国道24号線の

打田町方向から岩出橋に入ろうとした白いシルビアを発見した。

岩出橋をわたると和歌山市になる。その車は、前方にパトカーがいると分かると、

急にUターンして、スピードを上げ打田町方向へ逃げていった。直ちに追いかけた

が、猛スピードのため、一時振り切られ見失った。

しかし、再び他のパトカーが、信号無視し、スピードを上げてくるシルビアを、粉

河町で再び発見、連絡受けたパトカー併せて二台で追いかけた。

運転しているのは若い男で、一人である。パトカーはサイレンを鳴らし、マイクで

停止するよう呼びかけたが、シルビアの車は無視し、パトカーが前方に出ることを

防ぎながら飛ばし続けた。運転は巧みで、この辺の地理にも詳しいようで、前方で

パトカー数台と車止めで検問をしている場所では、手前で左折して細道に入り、巧

みに抜け道を通り、検問の後方に抜け出した。

やがて和泉葛城山への道に出て、坂道を登り始めた。

 この道は舗装されているが、急カーブが多く、標高八百メートルを超える山頂の

直下で、尾根沿いと、大阪岸和田へ下る道の二手に分かれる。

この道路は日中もほとんど車が走っておらず、暗くなったこの時間は全くほかに走

ってくる車はなかった。和歌山県警はシルビアの動きを見て、大阪府警にも連絡し、

岸和田からも捕獲するため登ってくるように要請した。

 白いシルビアは急カーブでもスピードを余り緩めず、タイヤをきしませながら、

後を追跡するパトカーとの距離を離していった。

パトカーが山頂直下、この道路で一番高い二股にたどり着いた時、シルビアの姿は

なかった。左の尾根沿いの道か、下の大阪へ降りて行く道のどちらをとったかわか

らなかった。

そこでパトカーは二手に分かれた。

 しかし、大阪への下り道を降りていくパトカーは、直ぐに前方の谷が火で赤く染

まっていくのを発見した。

しばらく降りていくと、赤い点滅灯のパトカーが二台見えた。大阪府警の車であっ

た。

大阪府警の警察官がガードレールの壊れた部分を示しながら「ここから落ちたよう

だ」と言った。

どうやら前方からサイレンを鳴らし赤く点滅して来る大阪からのパトカーに驚き、

急停止か、戻ろうとした時ハンドル操作を誤り、ガードレールを突き破り、谷底へ

落下していったようだ。

大阪府警の警察官は、この事故におろおろしていたが、和歌山県警の警察官は、直

ちに消火器を取り出すと、懐中電灯を持ち、落下して燃え上がっている谷に向かっ

て降りていった。


 翌朝早朝、明るくなると直ちに実況見分が行われた。車は五十メートルほどの比

較的緩やかな谷へ数回バウンド回転しながら落ち、燃え上がったようである。

火は既に消火されていた。運転していた若い男は、救急車で病院へ運ぶ途中、火傷

と全身打撲で死亡したということである。

車から救出した時から、呼びかけても答えなく、もう意識はなかった。


 和歌山県警捜査本部は凶器の日本刀「村正」がどうなったか知りたかった。

ところが車の中を何度も注意深く探したが出てこなかった。車の周辺、ガード

レールから車の落下点付近、全てくまなく探したが出てこなかった。

しかし、ダッシュボードより燃えカスの中に、かすかに燃え残った紙切れが発

見された。

判別しながら読むと「村正が切れ、切れと、------は---だ。-----魔物が----。

-----恐ろしい。------誰か--助けて-----」と記されていた。

村正の日本刀を持っていたことは確かなようだ。

和歌山県警は容疑者の自宅や機動隊と近隣の消防団の援助を得て、逃走中に捨て

られた可能性が大きい、和泉葛城山やシルビアの車が逃走した道路周辺を徹底的

に捜索したが、村正の日本刀は発見されなかった。





 「レイ、聞いている ?」と水谷美佳は石橋玲奈に、学校の校門の前で追いつく

と、声をかけた。

「何、ミズー。びっくりするじゃない」と石橋玲奈は笑いながら答えた。

二人は和歌山北高の同級生で、たいへん仲良しである。

「聞いているって何の話。ミズーの愛しの人、プースケの話。そう言えば、ミカが

プースケを、「ぶらくりちょう」のマクドで見たと言っていたわ」

「プースケはもういいの。終わったの。本当にプースケはあだ名の通りプー太郎と

言うことがわかったの。ふざけるだけで、それ以上考えることが何もないのだから。

そんなことでなくて、もっと大事な話よ」

「何、それ」と石橋は興味をもった。

「剣道部の先輩、三谷さんが来るのよ」笑みを浮かべながら水谷は答えた。

「えっ、二年前卒業して慶明大学に入った人でしょ」と石橋は驚いた。

「そおっ、今、大学はまだ夏休みで和歌山市に戻っているんですって。東京に戻る

前に,母校北高の剣道部に来て稽古をつけてくれると、顧問の村井先生が、まだ決

定ではないけれどもと言って教えてくれたわ」

「本当、いつねん」と石橋は言いながら、ニコッと微笑み水谷の顔を見た。

その先輩、三谷正人は慶明大学の剣道部で活躍していると噂では聞いていた。

石橋と水谷も、二年前に入学した時、新入生に対する部活紹介での剣道部、三谷の

美男子で格好良い姿に半ば惚れて、女子剣道部に入部することにしたのである。

「来週の月曜日、部活がある時間に来るらしいの。どうする。女子剣道部も先生に

言って参加できるよう申し込んでみようかしら、マネージャの私に任せてくれる?」

水谷の自信ある申し出に女子剣道部の部長石橋は異存なかった。

「楽しみやなぁ、是非参加できるようにしてもらってよ」と副部長兼マネージャの

水谷に言った。

「このごろ、ある新しん、かまえを考えたんよ。ほやさけ、強い人と当たり試して

みたいんよ」と石橋は、微笑みながら水谷に言ったが、目つきは鋭く光っていた。

水谷は最近数ヶ月の石橋の変化に驚いていた。

以前は剣道の実力は、ほとんど同等であったのが、石橋は最近ぐんぐん腕を上げ、勝

負して十本中一本取れれば良い方で、全く勝てなくなった。

女子剣道部は原則、男子剣道部とは別々に活動していたが、石橋だけは、ひと月半ほ

ど前から、男子と良く練習するようになった。

ところが最近は男子剣道部の中でも石橋に勝てる者はいなくなった。

腕力では男子には劣るが、不思議な気迫で相手を抑え、その気迫に負けまいと無理に

出ると、そこを狙われた。

まるで前もって打ち込んでくる場所がわかっているかのように待ち構え、避けられ崩

れたところを打ち込まれた。

石橋の気迫に負け、後に退いたり、たじろいでいると、鋭い面打ちが来た。

間合いから、まだ充分な距離があると思っていると、その面打ちに伸びがあり、安心

していたため、一瞬、防御回避処置は遅れ、石橋の竹刀が面をとらえた。

男子の中では石橋を鬼夜叉(おにやしゃ)と、裏で陰口を言うようになった。

水谷は最近の石橋の驚異的な変化に何度も理由を尋ねたが、まともな答えは返ってこ

なかった。今度も新しい構えと言ったので、また聞いてみた。

「どないして新しい構え覚えたんよ。誰かに教わっているんとちゃう」

「そんなことないんて、ええ感じが自然に沸いてくるんよ」と石橋は笑いながら答え

た。


 翌週、慶明大学の三谷が和歌山北高にやって来た。

三谷の姿を見た時、石橋と水谷は、無言、ニコリともせず、お互い顔を見合わせた。

二人とも胸がドキドキと高鳴り、しびれるような感じがして、身動きもできず三谷の

一挙一動を見守った。

同年齢の高校生にはない、大人の領域に入ったばかりの若さと雰囲気、鍛えられた体。

すきのない動き。全国大学剣道選手大会個人戦で常に上位にいる慶明大学剣道部の副

部長で剣道四段。体の隅々から発する覇気、匂に二人は感動し、ただ呆然として見つ

めていた。

もし、この時、三谷が寄って来て二人に声をかけたなら、二人は嬉しさと心の動揺で

気を失しない倒れてしまったかもしれなかった。

 三谷は和歌山に戻ってから四日間、剣道の練習をしていなかったので、約一時間ほ

ど軽く、体をほぐすように男子を中心に稽古をつけた。

そしていよいよ和歌山北高の代表五人と練習試合をすることとなった。剣道部の先輩

が訪高してくると恒例として最後に、生徒側実力者代表五人と三本勝負することにな

っている。

三谷は並んだ五人を見て驚いた。最後に茶髪の女子がいたからである。

学校で一番強い者が占める、五番目の位置に女子で頭髪が歌舞伎の連獅子のような格

好の石橋がいたからである。

そういえば二年前、女子部にかわいい女の子が一人入って来てたなと思い出した。

しかし、三谷は、まさか女子が北高で一番強いとは聞いていなかった。

石橋は三谷が来る前から面をかぶったまま座り、三谷が練習稽古をしている間、竹刀

を一度も握らず控えていた。しかし、目は終始、三谷の動きを観察していた。

石橋は三谷が驚いた顔で自分を見ているのを見て、微笑し頭を少し下げ挨拶した。

三谷も微笑を返したが、直ちに石橋のすきのない立ち居振る舞いに、本能的に、これ

は意外に強いかもしれないと気を引き締めた。

 石橋は昨日、学校から帰った後、茶髪に染めたのである。

いぶかる水谷に「きょうは勝負をする日だからね。着飾ったのよ」と言った。

「母が猛烈に反対して、夜中まで言い合いしたのよ。きょうも朝、話し合ったのだけ

れども、母はもう頭がいとうなったと言って、寝込んでしもうた。母には悪いから、

きょう帰ったら元にもどすつもりだけど」と付け加えた。

 練習試合が始まる頃には、学校の先生、生徒のほとんどが集まってきた。

他の部活をしていた者も練習を止め、部活動をしていない人も、和歌山で一番のええ

男が来るという噂がとびかい、他校の女子学生も多く集まり学校の講堂は一杯になっ

た。

こんなに多くの他校の制服を着た女子高生が集まることは、年一度の文化祭でもなか

った。

審判は剣道部顧問、剣道四段で日本史を教えている村井が担当した。竹刀でお尻を叩

いたり、エッチなことばかり言うので女子部員からは評判が良くなかった。


 大学の大会や全日本剣道大会にも出場するほどの三谷と、高校生の実力の差は大き

かった。三谷はたやすく三本を連取していった。

女子学生のほとんどは三谷を応援した。

三谷が一本取るたびに、拍手、歓声と「頑張って」と黄色い声が上がった。

石橋は三谷の得意技は逆胴であると感じた。しかし、時々見せる小手打ちも注意しな

くてはと思った。胴打ちは普通、相手の右胴を狙う。ところが逆胴は反対側の左胴を

打ち込んでいくのである。

試合では左胴は、よほど強くきれいに当たらないと一本として認定してくれない。し

たがって剣道の胴打ち練習は右胴中心である。左胴打ち練習は通常ほとんどしない。

ところが三谷は逆胴が得意であり華麗であった。つばぜり合いの接近戦から相手が面

打ちのために腕を上げ、体が伸びた瞬間、腰を低く沈め、相手の逆胴を、叩く音を大

きくこだませながら竹刀で切り払った。

その華麗な技に、剣道をあまり良くわからない人も、どよめき手を叩いた。

 石橋は三人目が対戦に立ち上がった時、防具の面をかぶった。

三人目も一分もかからずに三本連取され引き下がった。

四人目、石橋の隣に座っていた男子剣道部部長、天沼が立ち上がって対戦に向かおう

とした時、石橋は天沼に声をかけた。

「テンちゃん。一本とってきてね」

天沼は正面向いたまま「無理だちゃ」と小さい声で答え、立ち上がった。

三谷は全く疲労はなかった。

四人目は男子剣道部の部長している者なので、三谷は多少は彼に花を持たしてやろう

と、少し手を抜き、攻めるのをしばらく止めた。

その間、天沼は必死に打ちかかった。

面、小手と連続して休みなく攻めた。攻撃は二分ほど続いた。しかし、ことごとく三

谷の竹刀に止められたり、空を切ったりして三谷には当たらなかった。

天沼は息が乱れ、かろうじて肩で息をし、立っていた。

それでも必死に正眼に構えていたが、攻撃できる力はもう残っていなかった。

三谷は天沼の小手と面、最後に得意技の逆胴をやすやすときめ、三本を連取した。


いよいよ石橋と対戦となった。

石橋と三谷がお互いに対戦前の礼をかわした時、女子部員の数人から「石橋さん。

頑張って」の声が上がった。しかし講堂内にいる女子剣道部員以外の、特に他校

の女子高生の圧倒的な三谷を応援する声にかき消された。

 石橋と三谷は静かに正眼に構え対峙した。

三谷はなかなか攻めてこなかった。

その時、石橋の頭の中にささやきが聞こえてきた。

石橋が刀を拾った後から聞こえるようになったもう一人の石橋がささやいてきた

のである。

「相手は強いけれども、勝てるぞ。久方ぶりだ、このようなやりがいのある相手

に当たることは」とささやいた。

「でも、本当にいい男やっちゃ。ずうっと見ていたいわ」と石橋は心の中で言い

返した。

「馬鹿もん。相手は今までの者と違うぞ。もっと心を集中しろ」と、もう一人の

石橋は言った。

三谷は静かに正眼に構えていたが、驚いていた。

かって、こんな不気味な相手と対戦したことはなかった。

石橋の体より不思議な冷気が湧き上がり、三谷に向かって吹いてくるのである。

しかし、二人の対戦を見ている大勢の中で、風が全くないのに三谷のハカマが、

なびいているのに気がついた者は数人しかいなかった。

石橋には全く隙が無かった。

三谷が小手や面を攻めようとすると、石橋の竹刀は、合わせて三谷の動く前に

対応し、飛び込んで打ち込もうとする動きを封じるように、上、右、左と動い

た。こんなことは初めての体験であった。

三谷は恐ろしくなった。しかし負けたくない。なんとか打ち込まなければと思

った。

三谷は恐怖を振り払うように大きな声を出し「とりゃー」と叫び、竹刀を少し

上下させ誘いをかけた。

しかし、石橋は動かなかった。

もう一人の石橋が「来るぞ。小手、面、面の連続技で来るぞ」とささやいた。

同時に三谷は動いた。

素早い動きで石橋の竹刀の下を、三谷の竹刀が抜けたと思ったら石橋の右小手

に竹刀が襲ってきた。石橋は少し後に下がった。三谷の竹刀は小手に当たらな

かったが、直ぐに面に向かって三谷の竹刀が飛んできた。石橋は飛び下がり、

かろうじて逃れた。

しかし、さらに竹刀が面に向かって襲ってきた。三連続技である。石橋は避け

たつもりであったが、三谷の竹刀が石橋の面に少し当たった。

石橋は浅い、不十分と思ったが、審判村井の右手が少し躊躇していたが上がり

「面、一本」と叫んだ。

三谷はホッとした。意外に、これなら二本目以降も軽く取れるかも知れないと

思った。


もう一人の石橋が言った。

「ほら。気おつけろと言っただろう。相手は今までの高校生と違うんだから。ス

ピードが全然違うんだ。避けるなら、もっと素早く大きく動け。きょうのお前、

いつもと違うぞ。もっと精神を集中しろ」

「ごめんやでーーーー。三谷先輩の顔見てたら、しんどうがどきどきしちよっ

た。そやけど、これはやってみやんとわからんへんで----。おもしゃかっと---。

こんどは気をつけるよぅ」

「乱月の構えを使ったらどうか ?」

「ほな、そうしょうか----」


二本目が始まった。

石橋は直ぐに正眼の構えから、静かに竹刀を右に動かし、右半月のように構えた。

三谷はまた度肝を抜かれた。かって、こんな格好の構えをする者と対戦したこと

はなかった。

その静かな構えは、湖面に浮かんでいる三日月のように美しかった。しかし、石

橋の左腕の上から覗いている、防具の面の中に見える顔に三谷はさらに戸惑った。

笑っているような悲しんでいるような、無表情ともとれ、まるで能面のように不思

議な表情であった。

その顔を見ていると、三谷の闘争心は、吸い取られていくような気がしてきた。

たまらず三谷は、大きな声を出し「とりゃー」と叫び誘いをかけた。

しかし、石橋は全く無言で動じなかった。

一本目よりさらに強い冷気が石橋の体から吹き上がってきた。ハカマのすそが三谷

の足に絡んできた。

三谷はますます動揺してきた。このままでは相手の術中にはまってしまう、何とか

せねばならないと思った。

対戦の行われている場内は、全く物音がしなかった。見ている人全員、息をのみ

成り行きを見まもった。

それでも三谷は一本目が、思ったより簡単に取れたので、今度も、切り込んで行

けば、意外に取れるのではないかと考えを変えた。

相手の喉元にめがけて突きを入れ、崩れたところを、さらに二段目、三段目の打ち

込みをしてみようと思った。

そのため三谷は少し間合いをつめようと正眼の構えのまま、一歩、二歩と前進した。

しかし、石橋は動かなかった。端麗な無表情のまま三谷を見ていた。その中に三谷

は哀憐の表情が浮かんでいるのを感じた。

三谷は、それを振り払うかのように「トウ---、トウーーー」と低く叫んだ後、全身

の力を込め、左足を蹴り、前へ飛び込んでいくように「突きー」と叫び、竹刀を石

橋の喉にめがけて突上げた。

その瞬間、「エイッ」と石橋の甲高い声が聞こえ、石橋の右半月に構えた竹刀が、

まるで野球のバットのように振られ回転し、三谷の突きで石橋の喉に向かっていた

竹刀の上部に当たった。

三谷は竹刀が大きく右に振られるほどの強い衝撃を感じた。

それは危うく竹刀を落としかけるほどの強い力であった。

次の瞬間、その三谷が体を崩したところを、石橋の面打ちが飛んできた。

三谷は面に石橋の竹刀が当たった時、「痛テェ」と他の人には聞こえないほどの、

小さい声で叫んだ。女子高生の竹刀なのに、鋭すぎると思った。

審判の村井は左手を上げ「面」と叫び、石橋が一本取ったことを告げた。

場内はどよめいた。特に他校の女子高生は三谷が面を打たれた瞬間「キャー」と悲

鳴をあげた。

 石橋は毎日、剣道の練習がある日も、学校から帰ると、竹刀の素振りを最低二千

回することを日課にしていた。休みの日は五千回振ることもあった。

もう一人の石橋は、最近、さらに山に入り、立木に向かって、手が痛くなるほど打

撃の練習するよう指示した。

石橋の必殺の横打ちは、相手の刀の上部に、できる限り強い打撃を与え、日本刀だ

ったら刀を落とさせてしまうか、折るか、曲げてしまうほどの衝撃結果生じさせ、

そして相手が怯んだところを、二の太刀で倒そうという技である。


 三谷は面をとられた後、戻りながら考え込んでしまった。

これは容易ならざる対戦者だ。しかし、相手は高校生、女子である。絶対に勝たね

ばならない者なのに一本とられるなんて。三本目はどうしたらよいのだろうか ?

三谷は、皆には俺はまだ余裕があるのだと思ってもらうために、二、三回飛び跳ね

後、三本目の勝負にのぞんだ。


三谷は静かに正眼に構えた。

石橋は二本目と同様正眼から半月の構えに変えた。今度は右でなく、左半月の構え

である。

一分立った。

両者にらみ合ったまま無言、動かなかった。

もう一人の石橋がささやいた。

「相手は動くと、また横から強い打撃が来ると思い、今度はお前が仕掛けてくるの

を待っているのだ。うれしいね。直ぐに同じ手をくわないように補正して来るなん

て。こういう頭の良い剣士と会えることは本当に楽しい。さあ、こんどはお前がし

掛ける番だ。相手は接近戦を望んでいるようだ」

三谷は相手が動くのを待った。動いて来たらチャンスが出てくる、それまで我慢、

なんとしても勝たねばならないと思った。

石橋が動いた。左半月の竹刀をさらに上にあげ、頭の上まであげ、上段左半月の構

えになった。

三谷は面が来ると思った。石橋が一歩、二歩と少しずつ間を狭めてきた。

一呼吸、二呼吸おいた後、石橋の竹刀が動いた。

三谷は上から面に竹刀を打ち込んでくると思っていたが、石橋の竹刀は左片手だけ

で回転させながら、横から飛ぶように三谷の右横面に打ち込んできた。

三谷は、ハッとして防ぐために竹刀を右横面に持っていった。しかし、一瞬遅かっ

た。石橋の竹刀は三谷の右耳上の横面に、ポ-ンと音を発しながら当たった。

会場の女子高生の悲鳴が上がり、三谷はやられたと思った。そして直ぐに離れた位

置にいる審判を見た。

しかし、審判村井の左手は上がらなかった。きれいに面に入ったが、当たった位置

が横面より少し低すぎると判断したのである。

三谷は救われたと思った。

気を取り直し、石橋の方を見た。また驚き、アッと思った。

石橋は左半月上段から、右半月上段の構えに変化していた。柄頭を右手で握り、左

手は柄に添えている程度の、また、直ぐに面打ちを飛ばそうという格好である。

三谷は早い横面打ちに対応するために、正眼の構えを崩し、少し左上部に竹刀を上

げた。

構えている石橋の顔を見ると、変わらず能面のように無表情で三谷を眺めていた。

三谷は中学生の時から剣道をやっているが、剣道がこんな恐ろしいと思ったことは

なかった。

顔を見ていると闘争心が相手に吸収されるようで、三谷は視点を石橋の目から右こ

ぶしに変えた。こぶしが動いたら攻めが来ると判断しょうとした。

こぶしが動いた。右片手打ちで、竹刀が三谷の左横面に襲ってきた。

三谷はかろうじて、竹刀を左横上部へ持って行き防いだ。三谷の竹刀に「ガッ」と

大きな音がして、強い衝撃が来た。

三谷は今だと思った。石橋が構えなおす前に攻撃して一本取るか、悪くても接近戦

に持っていけると反射的に判断した。

石橋の面に三谷の強烈な面打ちが襲った。

石橋は構え直しながら、右斜めに素早く後退して、その打ち込みを防いだ。ところ

が、さらに三谷の追いかけるように前進して執拗な二段目の面が襲ってきた。

石橋はそれに対して逆に前進して竹刀で防いだ。勢いで両者は衝突した。

三谷が望んでいた、二人はつばぜり合いの接近戦になった。

力づくなら男の三谷が有利である。三谷は石橋の体を崩すために押し、隙を見ては

面を二度、三度と打ち込んだ。しかし、石橋は巧みに竹刀で防いだり、体を左右に

振り、まとを絞らせなかった。

そして時を待った。

それはもう一人の石橋が常に言っている「相手の得意技を打たせろ。それが礼儀で

ある」の言葉である。

「得意技を打たせ、それを看破し打ち勝つことによって、相手に完全に敗北感を植

えつけることができる。例え、得意技を決められて敗れても、剣士は敗れることに

よって、次に勝とうと練磨、研究しさらに強くなっていくのだ」と言うのである。

石橋は三谷の得意技「逆胴切り」に対抗するには「弧蝶の舞」しかないと思った。


三谷はこのままでは、やたら時が過ぎるだけでまずいと思った。審判が、これ以

上つばぜり合いを続けさせても進展なしと「別れ」と言ってくる可能性があった。

別れと言われたら、また離れて戦わなければならない。あの横面は脅威であった。

何とかして接近戦の中に活路を開かなくてはと思った。

三谷は思い切って勝負をかけた。石橋を力を込めて押した。それによって石橋が倒れ

ても良い、大きく崩れて隙が出たところを打ちこむつもりで力一杯押した。

その瞬間、石橋が面を打とうかのように竹刀を上にあげてきた。

三谷はそれを待っていた。石橋の両脇を固めていた腕が上にあがった瞬間を。

逆胴切りだ。三谷は「胴」と叫びながら石橋の左胴を大きく右斜めから切り込んで

いった。

三谷は、その後からのことは良く覚えていない。逆胴切りが空を切ったことは覚え

ているが、強い衝撃が頭に来て、それっきり気を失ったのである。

石橋は三谷が押した力とタイミングを利用して、竹刀を上段にあげながら飛び上が

った。押されていたため、後方に飛び上がるような形になった。

そして三谷が「ドウ」と気合を入れながら、うずくまるようにして右から斜めに切

り下げた瞬間、飛び上がっているため、よけいに石橋の下方に見える下を向いた三

谷の面が大きく目の前に浮かんだ。

その無防備の三谷の面に大きく「面---」と叫びながら力一杯竹刀を振り落とした。


場内は悲鳴と騒然となった。

呆然と立っている石橋の前に、三谷が、屈むこむような格好で倒れ、動かなかった。



続く

「妖 剣   (二)」



石橋は、家の者が寝入ったのを確認すると、自分の部屋の押入れから、静かに竹

刀袋にいれてある日本刀を取り出した。

部屋は薄暗く、天井の蛍光灯についているナツメ球の灯りだけである。

正座して日本刀を静かに抜き、波紋を上から下に向かって眺めた。

大きな波のような、山にも見える特徴ある波紋は心を静めるだけでなく、何かを訴

えるようでもあるし、何かを暗示しているようにも見える。

日によって、その様子、印象は変わった。長時間、見ていても飽きなかった。

疲れてくると、石橋は刀の肌を額に当てた。

それが終わると、薄く油がついた布切れで、軽く日本刀の刃全体を拭き、鞘に収め、

再び押入れに隠した。

これが石橋の毎晩、寝る前に行う儀式であった。


 石橋はある出来事から剣道の腕が格段に上がった。

今年二月のある土曜日、学校の帰りに、粉河町の母の実家に向かっていた。

翌日の日曜日に、祖父の七回忌の法事があり、母と弟は既に前日の夜に実家に行っ

ていた。石橋は土曜日の午前中も部活動があるため、皆と一緒に行けなかった。

粉河駅からのバスを降り、田舎道を実家に向かって歩き始めた。バス停から実家ま

で約十分の行程である。

夕方で、辺りはまだ薄暗かった。

石橋は用心のために、袋に入れた竹刀を持っていた。何か物騒なことがあれば、こ

の竹刀で叩きつけてやろうと思っていた。

石橋は小さい時から母の実家に遊びに来ていたので、この周辺は詳しかった。

小、中学生の時は毎年、夏休みの間、実家で過ごしていた。右には龍門山、左は和

泉葛城山が良く見え、石橋にとって、ここが故郷のように思えた。

ほどなく先に実家が畑や木々の間から見えてきて、もう五分ほど歩けば行ける所に

ある。

石橋は突然声をかけられた。

かけられたように感じたのかもしれない。

不審に思いながら振り向いたが、誰もいなかった。

気のせいと思い、再び前へ歩き始めた時、今度は、確かに聞こえてきた。

「竹刀袋を持った娘さん-----」

石橋は再び振り向いたが、木々が茂った田舎道には、人っ子一人いなかった。

しかし、また声が聞こえてきた。

「ここだよ、こっちだよ」

石橋は五メートルほど戻り、声のするほうへ、道から少し降りるようにして田んぼ

のあぜ道に入って行った。

その場所で、草むらの中に投げ捨てられているように置いてある刀を発見した。

辺りには誰もいなかった。

石橋は最初、良くできた玩具の刀と思った。拾い上げた後、そおっと刀を抜いた。

重さと鉄で出来ているので、これは本物だと思った。

抜き放ち、刀の波紋などを眺めていると、刀の真ん中へんと、続いて切っ先のほう

が瞬間であるが光り輝いた。

石橋は、その時「コキーン」と音がしたような気がした。

続いて、頭に何か当たったような気がした。

それにつれて右の頭が少し重くなったような感じがしてきた。

それからである。石橋の頭の中に刀の分身が住むようになった。

苦痛は無かった。

分身が住むことによって、石橋には、特に不自由は無かった。

しかし、剣道の時はうるさかった。頭の内部から声を出して「ああしろ、こうしろ」

と指示をしてきた。しかし、その指示は的確であった。

最初はやかましいと思ったが、剣道に非常に精通し、理論的に教えてくれる。不思

議なくらいに正しく判断してくれるため、石橋は従うようになった。

分身は剣道に関すること以外は全く干渉しなかった。そのため石橋は誰にも、親に

も、そのことは言わなかった。



三谷との練習試合後、一ヶ月たった或る日、水谷が学校の帰り、石橋に「おごる

から相談にのって」と言って、二人で和歌山市駅近くのマクド店に入った。まだ夕

方五時前だったので、店頭は学校帰りの高校生などで混んでいた。

水谷は他の人に話の内容が聞かれないように、隅の席に石橋を連れ座った。

石橋に一番高いものを頼んでも良いと言ったが、石橋はフィッシュ・バーガーを水

谷はチーズ・バーガーを選んだ。飲み物は二人ともコーラを取った。

水谷はなかなか本題に入らず、進路のこと、学校のことを話していたが、回りに座っ

ている人が少なくなって来たのを確認すると、やっと本題に入った。

「実は私の母が再婚するかも知れないんよ」

「うわー、それはええ話しやなぁ」と石橋は水谷の顔をうかがいながら言った。

石橋も、水谷も父が離婚して、母親だけの片親であった。そのため余計、二人は気

が合った。

「ええ話しじゃないんよ。私、今、ほんまに悩んでいるんよ。私にとって再婚はあ

かんと思うちょるけど、母の幸せ考えちゃると、反対と言えへんのや」

「なんぎやなぁ! 私も私の母がもし再婚するとゆうとら、今の私も反対するやな

ー」「そう思うじやろ、私は、出来るだけ今のままで行きたいんよ。家はそれでう

まく行っているのだから。そこに知らない人が入ってくるのは煩わしいし、その関

係が崩れてしまうんよ。新しい父とうまく行けばよいけど、うまくいかなくなった

ら最悪の状態になるんよ。そやけど、私も妹も、いつかは巣立ちで家を出るかもし

れない。その時は母一人残されるし、可哀相なことになってしまうんよ。私のため

に母を束縛してしまうことは、余りにも子供のわがままと思わへん ? 私、どうし

たら良いのかわからんへんのや」

水谷は今にも泣きそう顔になっていた。

石橋は同情した。石橋にも、今のところはなさそうだが、母の再婚話しはあり得る

ことであった。

「相手の人は、どない人なんや」と石橋は尋ねた。

「年は三十一才、警察に勤めているんよ」と水谷は言った後、しばらく沈黙した。

何か考えているようである。

「どないしたんよ。何考えておるんよ」と石橋は尋ねた。

「実は頼みがあるんよ」と水谷は答えた。顔には決意した表情を浮かべていた。

「その警察に勤めている人な、剣道が好きで、そのために警察に入ったんやって。

三年前に全国警察剣道大会で二位になり、その年の全日本剣道選手権大会個人の部

で三位に入賞したんねん。今まで、剣道一途にいたために結婚をしなかったらしい

んよ。真面目そうで、母が好意を持つのがわかるような気もするねん。そこであな

たに相談があるんよ」水谷一呼吸おいて、少しコーラーを飲み、石橋の反応を見た。

石橋は何で私が、という表情を浮かべていた。

「結婚は反対なんやけど、私が反対したために、母の一生を制約、左右してしまう

のも、身勝手すぎる気もする。そこであなたに賭けるんよ。あなたと彼が剣道の試

合をしてもらい、彼が勝てば結婚を認める。もし彼が負ければ結婚認めない。彼が

本当に強いのかどうか、剣道にどの位真剣に取り組んでいたのか、どういう性格な

のか、あなたとの試合を見てから決めたいんよ。できたら、家の近くにある梅原の

大年神社の境内で試合をして欲しいんや。私の七五三の祝いをした神社に願をかけ

てみたいんよ。その結果が、何か神様の啓示を私たちに与えてくれると思うんよ。

大年神社なら普段無人で鬱蒼と茂った山の下にあるから、私たちだけで、静かに試

合できる場所だと思うんよ。どう、この話にのってくれる、是非やってもらいたい

んよ」

石橋は思いがけないことを言われ、あっけに取られていた。

しかし、相手が全日本で三位に入賞した剣道の強い人であるという点に、惹きつけ

られた。あの大学生の三谷に勝って以来、三谷は一時的に気を失っただけなのに、

誇張され、いろいろな噂が和歌山県下の高校剣道部の人たちに広まった。

そのため、他の高校女子剣道部からの試合申込は皆無になった。こちらの学校から

他校の男子剣道部に交流練習試合を申し入れても、いろいろな理由をつけ、断って

きた。

一度、他校との試合する機会があった県大会では、通常は一番最後に対戦する大将

に剣道部の部長など強い人を当てるのに、対戦する他校はわざと一番弱い人を大将

にした。勝ち抜き戦でないため、勝者数2対3の一回戦で和歌山北高は敗退した。

「おもしゃい話しやなー。最近、剣道の強い人と当たらへんので対戦したいような

気もするやん。私は試合してもええよ」

それを聞いて水谷は喜んだ。

しかし、直ぐに石橋は、水谷が全く予想だもしないことを言ってきた。

「試合方法は防具無し、木刀での勝負を申し込んでみちょんね」

水谷は驚いた。「ほんま---? 防具、付けんで怪我したらどうするんよー」と思わ

ず声を上げて言った。

「私、一度、映画やテレビの時代劇で見るような、粋な、しびれるような試合して

みたいんよ。木刀が危のうなら、ほな、竹刀にしましよ。体に当てる時は、出来る

限り力を抜くようにしちょったら、当たっても、ひどい怪我をしないと思うんよ。

剣道の上手な人なら、それは出来ると思うんや。私、ほんまに真剣勝負みたいな試

合をしたいんよ」

「相手は剣道では全日本クラスの人よ。高校生相手に真面目にやってくれると思う

ちょるの」水谷は困惑しながら言った。

「私も相手の方が絶対強いと思うてるよ。そうやさかい相手の人も安心して、この

話にのると思うんよ。対戦相手が女子高校生なら勝つのが当然と思うし、たとえ私

の竹刀が相手に当たっても、力が無いだろうから、たいした事無いと思うんよ」

水谷は困難な問題を抱えてしまった。しかし、自分の思惑と少し異なったが、母

の結婚しようとする人が、どう言うか、今のところ検討つかないとしても、話を

進めてみようと思った。

自分たち家族の運命を、全て大年神社に願かけして、神様にゆっくり決めてもらう。

そのために見ていただく舞台と、それにふさわしい多少の演出も必要なのかもしれ

ないという感じがわいてきた。


水谷が梅原の家へ帰るために和歌山大学行きのバスに乗ろうと、とぼとぼと考え

込みながら歩いて行く後姿を見ながら、石橋は小声で心の中にむかって言った。

「おいやん、これでええやんしよ」

もう一人の石橋は直ぐに言った。

「よーし。これでまた強い剣士と戦うことが出来る。まだお前には今度の相手は早

いと思うが、全日本三位の強さの男と戦うことが出来る機会は、めったに無い好運

だ。それを逃したら当分、もしかすると二度とその機会はこないだろう。お前の現

在の力では、とうてい勝つことが出来ないから、対戦する日まで相当の練習努力が

必要になるぞ。最近、お前は受験勉強ということで修行時間も少なくなっている。

勝つためには修行の時間をさらに増やすか、無理ならば練習の質を工夫して高めな

ければならないぞ」

「わかりました。大学も行きたいから剣道の練習時間は増やせないけれど、試合す

ることになったら是非勝ちたい。武士道でいう文武両道という言葉知っているでし

ょう。私、この言葉たいへん好きなんです。私は若いから、今は一つに片寄らない

で、両方を追ってみたいのです。武の方では、あなたの指示に従って、どんな練習

もします」と石橋は真剣もう一人の石橋に訴えた。

「わかった。私はいままで何十人もの人にとりついたが、女の人は今回始めてだ。

女の人の特性なのかわからんが、お前は今までの人と何か違う。筋力では今までの

人の中で最悪だが、精神力や頭脳では一番優っているように思う。私は女特有の性

格のようなものと思っていたが、それだけではないようだ。勝つことは無理かもし

れないが、出来る限りやってみよう。少なくても惨めな負けをしないようにやって

みよう」

刀の分身は、石橋本人には言わなかったが、この全日本三位の男との対戦が、どの

ような結果になるか分からないが、これがそろそろ石橋との別れの切っ掛けになる

ような感じがしてきた。この俺が今まで取りついた人が悪なら悪、善なら善で対応

したが、この者は、侵入してから意外に楽しく過ごせた。指示には良く従うが、疑

問があると、とことん聞いてきた。しかし、話していても反応が今までの人と異な

り、面白かった。

刀の分身は、今度の試合が自分自身の大きな戦いになるのではないかという予感、

思いを抱き始めた。



 それから一週間たった。石橋は学校の一時間目と二時間目の休み時間に、別のク

ラスの水谷が教室の出口に立っているのに気がついた。水谷は教室の外へ出るよう

合図を送ってきた。

水谷はだいぶ焦っているようだ。

校庭に出て、付近に誰もいないことを確認すると、水谷は直ぐに「母も反対だけど、

相手の人、菊川さんとゆうのだけど、断ってきたんよ」と言った。

石橋は「理由なんやけど、何とゆうとるんよ」と尋ねた。

「一番の理由は、結婚するかどうかは、当人同士の問題であって、他の人との剣道

で決めることではないとゆうちゃるのよう。二番目の理由は、はっきりと直接には

ゆわへんが、つきつめると、やはり相手が高校生、特に女の子だからと思うんよう」

「そうやなー、当然そうゆうても、しやーないけどなぁ。ほやけど、私、勝負して

みたいんよう」と石橋は言いながら考えた。

水谷は言葉を続けた。

「防具を付けないで試合するのは、相手がある程度の怪我を承知するなら、特に異

存はあらへんとゆうちよるんよ。柳生流も袋竹刀で防具を付けないで練習するので、

かまわんへんとゆうちよるんやー。そうやけど、試合をする理由がないと、こんな

問題で勝負することはできへんとゆうちよるんやー」

「もう一度、その人と話しおうてみてくれへんかー」と石橋は言った。

「どう話しをしたらよいのよう?」と水谷は聞いた。

「菊川さんに、もし試合してくれるならば、行方不明の刀についての情報を教える

ことが出来るかもーーーとゆうてみてくれへんかー」と石橋は考えながら言った。

「刀とは何なのやー。どないことなのよう」と水谷は尋ねた。

「いいから、そのままゆうといてー。何か別の反応があると思うんよぉ」と石橋は

答えた。

「その刀って、もしかして今年二月頃ごろ話題になった、辻斬り騒ぎの刀とちやう」

と水谷は不安そうに言った。

「そう」と石橋は一言、応えた。

「ほんまに知っとるんかいよぉ」となお、水谷は尋ねた。

「それ以上はゆえへんよー。もし菊川さんが私に勝ったら教えることが出来るかも

ーーと、条件を付けておいてよ。私、どないしても試合したいんよ」と石橋は首を

振りながら言った。

丁度その時、二時間目始業のオルゴールが鳴った。

石橋は「頼んだけんな」と強く言いながら、逃げるようにして教室に走っていった。

「そーやけど、やってみんとわからんへんでーー」水谷は追うように叫んだ。



 三日後、また水谷から連絡があった。昼休み、石橋が弁当を食べ終わった頃を見

計らって、水谷が教室にやって来た。直ぐに、二人は校庭に出た。

階段で降りていく途中、水谷は「菊川さん、試合受け入れてくれたんよ」と言った。

野球場脇のベンチに二人は座った。周りには誰もいなかった。

「菊川さんは、試合するからに、絶対にあなたが刀の約束を守るようにとゆうとる

んよ。私は彼女は絶対約束をたがえる人でない。私が保証するとゆうといたんよ」

水谷は言った。

石橋はうなずきながら「必ず約束は守るんよう」と言った。

「菊川さん、あなたの噂、知っていたんよ。あなたが試合したいと言うので、どう

いうことなのか少し調べたらしいんよ。そしたら市の警察道場で、土、日曜日に小、

中高生を教えている同僚の人から、和歌山北高に女子高生なのに凄い剣道の使い手

がおって、全日本大学ナンバーワンの剣道五段の大学生を一撃のもとに倒し、大学

生は、まだ和歌山医大に入院していて、意識が回復していない。そんな噂を中高生

が言っているのを何回も聞いちよるんと菊川さんに教えたんやー。ほやけど、菊川

さんは同僚も笑いながらゆうとるんで、そのまま信じてよいのかどうか疑問あるん

じやとゆうてんねん。そこで北高で剣道やっている私に、そういう事実がほんまか

と聞いてきたんよ」と水谷は少し笑いながら言った。

石橋も少し苦笑いした。本当に噂は、どんどん誇張されると思った。もし今度、試

合が決まったら、出来る限り外部には漏らさず、ひそかにしなければならないと、

ますます確信した。

「菊川さんには、私が正確に知っている限りの情報を伝えておいたんよぉ。相手は

北高の先輩で慶明大学の四段、ナンバーワンではないが大学では活躍しており、高

校生では絶対勝てない相手であったんやと。ほやけど、あんただけが、私も信じら

れへん強さで三本勝負を二対一で勝った。三本目の面打ちで相手が倒れ、救急車が

来る大騒ぎになったんやけど、直ぐ気がついたんで病院にはいかんへんかった。噂

は少し大げさに広まっているんやけど、倒したことは事実であると菊川さんにゆう

たんや」

「菊川さんは、どない顔してたん」と石橋は尋ねた。

「大学現役で活躍している四段の資格ある者が、高校生しかも女子高生に負けると

いうのは信じられへんが、事実ならどんな人なのか会ってもええし、どの程度の腕

なのか試してみたい。何か昔からの剣術の流派に属して練習しているのかと、相当、

真剣に私に聞いてきたんよ。余りにも、えろう剣のことを具体的に聞いて来るんで、

後で気がついたやけど、やはり警察に勤めているからだと思うんや、聞き方がもの

すごくうまいんや。私もつい、先輩の三谷さんとの三本勝負の成り行きを全て話し

てしもうたわ」

石橋は苦笑した。相手方に全てを話されて、どんな剣さばきを使ったか知られても、

それも構わないと思っていた。私は挑戦者なのだ。ただ一生懸命に全力で戦うだけ

だ。結果はどうなっても構わない、私は勝負の一瞬、一瞬に美しさ、光り輝くこと

を感じることが出来たら、それで良いのだと思っている。刀の精が言っている「光

り輝け、この一瞬一瞬に全力を傾けよ。身を燃やせ、心は冷やせ。さすれば剣身一

体となり、光り輝く不敗の武士となるだろう」

かって数人しか達することができなかった伝説の武士になるために。私には無理だ

と思うが、少しでも、その伝説の武士に近づきたい。



 試合は六日後の日曜日、朝六時、大年神社の境内で行うことになった。立会人は

水谷と母親の二人だけで、試合のことは絶対外部に口外しないと約束された。

石橋は翌日から学校を休んだ。五日間全て休むと、学校から母親へ連絡が行く可能

性があったので、三日目だけ学校に出た。それも午後は早退した。風を引いて熱が、

なかなか下がらないと理由をつけ、休んだ。体が痩せ、頬もこけて来たので、先生

も「早く直せよ」と言って疑わず許した。

学校を休んでいる時間は、全て家の近くの山に入って、剣の練習していた。

母も朝は弁当を持って、きちんと学校へ行く格好して家を出て行くので気がつかな

かった。

剣道の部活も、三年生は受験,就職でほとんど出る人はいなかった。今は、一、二

年生が主体で活動をするようになっていたし、石橋は既に二年生に剣道部長を引き

継いでいた。

山に入ると、ストレッチをして体をほぐした後、素振りからはじめた。それが終

わると立木に向かって木刀で腕と手が痛くなるほど打ち込んだ。練習方法も刀の精

の指示を受けたりして工夫した。

周りを囲むように立つ五本の大きな樹の枝にロープを付け、各々の先に一メートル

ほどの丸太をつるした。木々の真ん中に立ち、ロープの丸太を木刀で強く打つと、

はね上がり、振り子の原理で、戻ってくる。それを体に当たらないように、木刀で

避けたり、また強く打ち返した。

五本の丸太全てに、強打し揺り動かすと大変なことになった。

石橋は最初は剣道の面と胴の防具をつけ実行したが、それでも背中や腕、頭があざ

だらけになった。三日たち、少し慣れてくると石橋は、その練習を防具をつけない

でするようになった。

石橋は最近は、さらに工夫して眼にアイマスクを付けて練習する方法も考えた。全

くの盲目状態にして、その練習を開始した。



 試合当日、試合をする石橋と菊川は水谷の家に集まることになっていた。ところ

が二人は約束の時間になっても来なかった。

やがて三十分位たってから二人は、ほぼ同時にやってきた。水谷の母は、宮本武蔵

が巌流島の決闘で遅れて来た古事をあげて、武蔵が二人いるようだと言って笑った。

石橋は、そこで初めて菊川という男に会った。

痩せ型の長身で、濃紺の剣道衣を着ていた。石橋と目と目が合うと、にこやかに微

笑みながら「ケガや悔いのない試合をしましょう」と言った。とても全日本三位の

剣道五段の猛者には見えない、誰からも親しみやすい愛嬌のある顔をしていた。石

橋も思わず、微笑みながら「お願いします」と答えた。

石橋は上下、真っ白な剣道衣を着ていた。少し緊張気味に、口をしっかりと閉じて、

和歌山城の方向を見た。今は試合のことは考えず、心を出来る限り静かに落ち着か

せようと、城がここから見えるかなと眺めていた。しかし、高いビルなどに隠れて、

水谷の家からは見えなかった。

空は晴れて、今日の和歌山は澄み渡っていた。

石橋は、楽しかった。菊川さんは、さすが長年、剣道をやっているので迫力があっ

た。大学生の三谷と異なった剣士の風格がにじみ出ていた。このような人と試合で、

剣の道をさらに深めていけることがうれしかった。


水谷の母の運転で全員、同じ車に同乗して大年神社に向かった。家から五分ほど

の距離であった。神社の裏山は神域として伐採、植林などもされず自然のままに残

っていた。そのため、木々は大きく鬱蒼としており、神社と境内は静かな幽玄のた

たずまいをしていた。

日曜日の早朝、あたりには誰もいなかった。

菊川は車に乗っている間、無言でいた。車の外を見ることもなく、前を見たまま考

えていた。試合をすることを後悔していたのである。

何故こんな成り行きになってしまったのだろうか。若い時、俺には終わりのない剣

の奥義へ少しでも進んで行こうと崇高な目的があった。その剣を自分の結婚するか

どうかという、俗事の判断に使われることはたまらなく悲しかった。何故、断って

いたのに刀の情報を教えると言われて了解したのだろうか。ただ、本当に刀だけの

理由なのだろうか。結婚したいとは思っているが、余りにも水谷の娘さんの真摯な

願いにほだされたこともあるが、やはり俺には何か厳しさが足りない弱さがあるの

かもしれない。

原因の一つは、この俺にあるのではと思った。三年前に全日本剣道大会で三位にな

ったが、それから大きな壁に突き当ってしまった。自分より上の強い相手に勝てな

くなってしまった。練習時間は以前より増してしているのに、剣の腕が比例して上

がらなくなってしまったのである。剣道の技でなく、心に問題があるのではと、剣

道に関する本を読んだり、座禅にも参加した。しかし、心の大きな隙間は埋まらな

かった。

悩み苦しんでいるうちに、署内の交通安全協会で働いている水谷の母と知り合った

のである。水谷の母と話していると悩みを忘れることが出来た。楽しかった。そこ

で最近は彼女と結婚して剣道からしばらく離れてみようかという気になっていた。

離れたあと、何か転機があれば再び始めれば良いし、最悪のまま、そのまま剣道か

ら去ってもかまわない気分になっていた。

今の俺には、何か迷いがある。そのために何事にも、直ちに決断できず、周りに流

されてしまう。今度の場合も、強く結婚を申し込んで、さっさと進めていけば、こ

のような試合もすることもなかったのに、時間をかけすぎたのが良くなかったのか

もしれない。

この試合に勝てば、結婚は決定される。相手はいくら大学生に勝ったと言っても、

高校生である。負けることはないであろう。しかし、何か石橋という高校生は不思

議な感じがする子である。今まで他の人に感じたことのない、これが気というのだ

ろうか、オーラというのか、何か他の人にないものを発散しているようである。

負けるはずのない大学生の三谷の例がある。一気に攻めないで慎重に楽しみながら

やってみよう。

菊川はとりとめなく、そのようなことを何度も考えていた。


 菊川、石橋、それに水谷親子の四人は、大年神社の社殿にお参りした後、境内を

見回り、落ちている木の枝や大きな石を除くと、柄杓で水を数回まいて清めた。

試合は静かに、水谷親子の二人が見守る中で始まった。審判をする人はいなかった。

菊川は正眼中段に、石橋も中段に構えた。

水谷親子は、剣道の防具なしの二人に、息をのみ見守った。対峙する二人の姿は美

しかった。

菊川は石橋の少しずつ変わっていく異様さに、びっくりしていた。

三谷と同様に最初の印象は、これは不気味だという思いであった。

石橋の体より不思議な冷気が湧き上がり、菊川に向かって吹いて来た。菊川のハカ

マはその風でなびき、足にまとわりついた。石橋の髪は総毛立ち、まるで歌舞伎の

連獅子のようであった。

もう一人の石橋がささやいた。

「今度の相手は強いぞ。もしかするとお前は負ける。前回試合した大学生より格段

の差がある。こういう強い剣士は出会い面や出会い小手が得意とするものが多い。

不用意に中途半端な技を仕掛けると、それを待っているかのように外され、すきを

見つけて強い反撃の返し技がくる。相手に余裕を与えない、常に、この一撃で倒す

のだというつもりで打ち込みをしなくてはいけない」

石橋は「乱月」とささやきながら、構えを正眼から竹刀を左に動かし、左上段より

少し低く、左半月に変えた。

しかし、菊川は、あえて構えは変えず、正眼のままでいた。水谷の娘から情報を得

ていたので、左から面を狙ってくるは判っていた。また直ぐに、逆の右からも面が

飛んで、あたかも回転するかのように竹刀が来ると知ったので、右、左の両側から

に対して、直ちに対応できるように、正眼の位置は変えなかった。

石橋の、まるで能面のような無表情な顔にも、三谷は心乱されたが、菊川は何とも

思わなかった。全日本大会に出てくる強い選手は、攻めてくる時は心を顔に出さず

強烈に技を仕掛けてくる者が多かった。

石橋は積極的に出た。左半月の竹刀をさらに上にあげ、頭の上まであげ、上段左半

月の構えになった。そして一呼吸後、「トォー」と言う声と同時に、竹刀は上段左

より回転し、鋭く菊川の右面を襲った。予期していた菊川はその打刻を、竹刀を右

頭部横に置き避けた。石橋の竹刀は「ビシッ」と音を立て止められた。

菊川は、止めたときの凄い衝撃に驚いた。

直ぐに逆の左面に、石橋の竹刀は音を立てて襲ってきた。菊川は、それも竹刀を左

横に動かし「ビシッ」と音をさせながら止めた。

石橋の攻撃は止まらなかった。さらに再び右、左と連続して菊川の頭部に竹刀が飛

んできた。菊川は、その三段、四段の攻撃も竹刀で防いだ。そして四段の攻撃で石

橋の腕が伸び、面が空いているところへ目掛けて、菊川は鋭い面打ちの逆襲をあび

せた。しかし、菊川の面打ちは空を切った。石橋は右へ素早く回り込むように移動

したからである。菊川は直ちに二段、三段と連続して面、面、そして最後に胴と打

ち込んできた。

石橋はそれをことごとく竹刀で防いだ。

菊川の攻撃が止まった一瞬、今度は石橋の竹刀が半月より真っ直ぐ菊川の面に振り

落とされてきた。菊川はその機会をひそかに待っていた。

柳生流の「合撃」、一刀流で言う「切落し」である。相手が面を打ってくるところ

に対して、少し遅れて真っ直ぐに相手の刀に打撃を与え、そらしながら面を打ちを

狙い、切落とす技である。相打ち覚悟の、その技を使えるようになるためには非凡

な才能と相当の練習が必要である。

菊川は直ちに左半身から大きく竹刀を振り落した。菊川は、この一刀で勝つと思っ

た。ところが菊川の竹刀は、石橋の竹刀に当たり、そらさせるはずが、逆に跳ね返

されてしまった。石橋の竹刀が下から右斜め上に跳ね上がり、菊川の竹刀を払うと、

直ぐに菊川の面に向かって再び襲ってきた。菊川は頭を大きく右に傾け、面に竹刀

が当たるのを防いだ。石橋の竹刀は菊川の左肩に当たり止った。石橋は菊川の面に

当たらないので、衝撃を緩めるため竹刀を絞った。そのため菊川の左肩には勢いで

当たったが、打撃は軽かった。

菊川は中段の構えのまま大きく後へ退いた。真剣勝負だったら、左鎖骨打撲か骨折

で負けたと思った。

菊川は三年ほど前から柳生流の道場に時々練習に行きだし「合撃」を習得したが、

この必殺の剣が、こんなに易々と跳ね返されるとは思ってもいなかった。

しかし、気力は逆にさらに充実していた。石橋との戦いの中で、今まで忘れていた

剣に対する楽しさ、ひたむきな気持ちが戻ってきた。石橋の剣に対する感覚、感じ

が、伝染するかのように菊川が若い時に持っていた剣に対する思いを呼び覚ました。

菊川は、この試合の勝敗は度外視し、一刀、一刀全力をそそごうと思った。

菊川は「ソリャー」と気合を入れながら、大きく息を吐き自分の闘志をかきたてた。

刀の分身は、菊川が柳生流の袋竹刀を知っていたので、石橋に柳生の「合撃」の

技を教え、それに対する対抗策を考えさせていた。しかし、さすが菊川は並みの相

手ではないと思った。普通なら石橋の合撃封じの面が当たっていたのに、避けるこ

とが出来たからである。

水谷親子は息をつめ、二人の試合を見ていた。最初はお互い少し離れてみていた

が、いつの間にか二人は手を繋いでいた。

二人の剣は鋭く、水谷親子には、剣が打ち込まれるたびに「ヒュー」と空気が振動

し音が聞こえてくるように思えた。その度に首をすくめ、目の前の光景に身を震わ

した。

石橋は菊川が柳生の「合撃」を見せてくれたので、今度は私の方が、最近修得した

技を見せてみようと思った。

石橋は竹刀を正眼に戻すと「秘剣 飛燕」と静かに言った。菊川はどんな技が来る

かと思い、全神経を石橋にそそぎ、技にそなえた。

石橋は竹刀を左に動かした。そしてゆっくりと戻しながら、切っ先を下げ、今度は

右に上げながら動かした。丁度、浅いVの字を描くように、ゆっくりと左から右へ、

右から左へと動かした。菊川は石橋の不可思議な竹刀の運動に、何をするのかと惑

いが生じた。

石橋の最初の狙いは、この惑い、疑いを生じさせることであった。菊川は石橋の術

中にはまってしまった。

剣道では「不動心」という言葉がある。常に心を動かされない不動心を持て言われ

ている。剣道では、驚き、怒り、惑い、疑い、この四つの気の病が心に起きると、

体が自由に動かなくなり負けるという。従って「不動心」を得るために、心の修行

も必要であるとして、熱心に座禅をする者もいる。

石橋のVの字は少しずつ早くなっていった。やがて、それはツバメが飛び交うよう

に竹刀はスピードをあげた。

菊川は石橋の動きに惑いはあったが、竹刀が打ち込んできたら対抗できるという心

の余裕はまだあった。

ところがである。突然、菊川の竹刀が左右にぶれ始めた。菊川は竹刀の振動を止め

ようと力を入れると、ますます左右のぶれが大きくなっていった。石橋は菊川の惑

いが生じているのに乗じて、全神経と力を集中し、超スピードを上げて菊川の竹刀

を左右から叩いたので、ぶれが発生しているである。

石橋は、菊川が慌てている表情が見え、今だと思った。

そして面を取ろうと竹刀を振り上げた。

その時である。菊川は「アアッ」と言いながら、ぶれを止めるために、夢中に、我

も忘れて、自分の竹刀のみね、中程を右手で握った。その瞬間、ぶれは止まった。

同時に石橋が振りかぶってくるのが見えた。

「バシッ」という竹刀と竹刀がぶつかる音がした。

菊川は倒れるようにして、右ひざをつき、左手で竹刀の柄頭を右手は竹刀の中程を

持ったまま、石橋の鋭い面打ちを、かろうじて止めることが出来た。

 水谷親子は菊川が悲鳴をあげるように「アアッ」と叫び、竹刀を押さえてぶれを

止め、なんとか石橋の上段からの面打ちを避けたのを見て、何故か、ほっとした。

石橋はさらに二段、三段と攻撃を続ければ、体制の崩れた菊川を打ち込めると思っ

たが、あえて攻撃せず、逆に引き、菊川の体制を戻す時間を与えた。

あくまで堂々と必殺の一刀で勝ちたかったからである。

 菊川は反省した。石橋の攻撃方法などの情報を、水谷の娘から聞きすぎて、あま

りにも先入観を持ちすぎ警戒しすぎたのかもしれない。

無心になろうと思った。

無心になり、今までの二十数年の剣道の経験を、練習の成果を、すなおに飾らない

で出していこうと思った。

菊川は正眼に静かに構えた。

もう一人の石橋は、オヤッと思った。菊川の心が読めなくなったのである。

石橋に警告した。「危ないぞ。相手は変わった。不動心で構えている」と言った。

 菊川は攻めて来た。最初に、つり上げ小手を狙って来た。

少し誘うように竹刀を上げ、石橋がそれにのり少し竹刀を変化させたところを、す

きを見つけ鋭い小手打ちをしてきた。石橋は相手の竹刀を右に払い避けた。

菊川はそれから猛烈に攻めてきた。面、胴、小手とあらゆる部分を、石橋が息つく

間もないほど連続して攻めて来た。大きな迫力ある気合を入れて、一刀、一刀、こ

れで決めるのだという意気込みで鋭く、無心で打ち込んだ。

石橋も最初は声を出し、夢中で竹刀を振り防いだ。しかし、菊川の執拗な連続攻撃

が二十打を越える頃になると、もう声を出す余裕はなくなっていた。

ただ、必死に竹刀を振り、当たるのを防いでいた。

五本の丸太をロープに吊るして木刀で打つ練習をしていなかったら、何打目かで、

菊川の竹刀が、どこかに当たっていたであろう。

やはり石橋と異なり、菊川の長年修練した違いが出てきた。じわじわと、打ち込みな

がら石橋を追い詰めて来た。

水谷も、もうだめだ、石橋は打たれると思った。ボクシングだったらタオルを投げた

くなる心境であった。

ところが、ここで予想もしなかった事が起きた。

菊川は、無心で攻めたてたため、警察剣道では問題のない技が出てしまった。

警察剣道では犯人の捕縛をも目的にしているため、稽古では良く足がらみの技も取り

入れ練習している。菊川は無意識に、最後の詰めの場面で、石橋には予想外の足払い

をしてしまったのである。

石橋は左足を足払いをされて、仰向けに腰をつき倒れてしまった。

菊川は直ちに、崩れた石橋に対して面打ちをしようと、竹刀を上段に振り上げた。

倒れた時、両手をついたが、石橋は、直ぐに片手で竹刀を振り上げ、何とか避けよう

と試みた。

 その時である。石橋が倒された時、低い悲鳴をあげていた水谷の娘が、大声で「ず

るーい」と叫んだ。

菊川は、竹刀をまさに振り落とそうという時、その声が聞こえ、思わず水谷の娘の顔

を見てしまった。

水谷の娘の恨めしい顔と厳しく自分を睨む目を見てしまった。

菊川は躊躇した。一瞬、それでも打とうとした。

しかし、もう一度「柔道の技を使うなんて、ずるい」という声が聞こえた。

菊川は竹刀を振り落とすことを諦めざるをなかった。

水谷の娘は、その時、自分を一瞥した菊川の顔と変化を、一生忘れられないと思った。

その悲しそうに、自分達を見た菊川に、水谷親子は、電気を受けたような、しびれる

ような感じを受けた。同時に、言ってはいけないような事を言ったと後悔した。

そのすきに石橋は立ち上がり、体制を整えることが出来た。

菊川は、再び、境内の中央部で試合を再開しようと、石橋に促すように「真ん中へ」

と言った。

石橋は「ハイ」と答え、菊川の後に続いた。


低い声で、もう一人の石橋の声が聞こえてきた。

「明らかにお前は負けた。俺もうかつだった。足技を使われるとは、全く念頭になか

った。昔は足技や体を使い倒すことは普通のことだった。足払いの技を使ったからと

言って相手を非難する何のいわれもない。あのまま相手が竹刀を振り落としていれば、

お前は一回目は避けられたとしても、二打目で絶対、面打ちをくらっていただろう。

今度は俺が戦う。体の使い方、太刀さばきをよく見ておくのだぞ」とささやいてきた。


再び、境内の中央部で、石橋と菊川は正眼に構えて対峙した。

もう一人の石橋は完全に石橋に乗り移り「波動剣」と低い声で言った。

石橋には、もう一人の石橋がお経のように呪文を言うのが聞こえてきた。

「土の精よ、木の精よ、風の精よ。我は摩利支天に使えし者なり。摩利支天の力を示

さんと欲するならば、我に力を貸したまへーーー」

石橋は、こんどは竹刀を右斜め下段に構えた。

正眼の構えの菊川は、石橋の構えが下段に変わったのに「オヤ」と思ったが、それ以

上に目をみはる変化が石橋に起きているのに驚かされた。

石橋の体から冷気と共に黒い霞か雲のようなものが湧き上がってきた。

風がますます強く石橋より菊川に向かって吹いてきた。裏山の木々も、強い風のため

なのか音を立てて、なびき始め不気味な雰囲気になってきた。

菊川は自分の目がおかしくなったのかと思い、何度も目をしばたいた。しかし、変わ

らなかった。

菊川は石橋の竹刀が地面に少し差し込まれ、地面に線を引くように左に引っ張られて

いくのを見た。

その次の段階である。石橋の剣が、地から左に回しながら上段に振り上げられたとき

である。

今まで見たことのない恐ろしい光景が見え、菊川は息をのんだ。

つむじ風のようなものが起こり、土ほこりや落葉が舞い上がった。石橋が竹刀を左、

右に振るたびに、「ブオー」と音を発しながら、竹刀の後を追うようにして、落ち葉

や土ほこりが舞い、まるで波のうねりのように見えた。

石橋が剣を振るたびに、波とうねりはますます勢いを増していった。

菊川はこんな剣法を見たことも聞いたこともなかった。

その勢いで菊川は後退せざるを得なかった。

しかし、一度だけ菊川の竹刀が「ブオー、ブオー」と音する石橋の竹刀に触れた。

その瞬間、菊川は危うく竹刀を振り落とされるほどの衝撃を感じた。まるで野球の重

いバットに殴られたような強い圧力を受けた。

菊川は、波に触れないように、どんどん後退する他なかった。やがて境内の隅に追い

詰められて行った。

石橋は追い詰めると、竹刀を前方左右に円形を描くように振った。その為、波のよう

な波形が石橋を覆い、菊川からは石橋の姿を見ることは出来なくなった。

菊川は、円形の波形から、竹刀が自分の、面か、小手か、胴に打ち込められてくると

悟った。

そのため咄嗟に八双の構えを取るため、竹刀を右に寄せ立てるように構えた。

予想したとおり、前面の波を切り裂くようにして、石橋の面打ちが上段から飛んでき

た。

菊川は頭に当たるのを避けるために、直ちに竹刀を頭上にかざした。

菊川の竹刀に「バシッ」と猛烈な衝撃が来た。

石橋の竹刀の勢に菊川の長年愛用していた竹刀は支えきれず折れ、石橋の竹刀は菊川

の左頭部をしたたかに打った。

菊川は「ウワー」と声を上げ、崩れるようにして倒れた。

 それを見て、水谷親子は大急ぎで菊川の所に駆け寄った。

水谷の母親は、菊川の上体を起こした。

意識はあるようだった。しかし左頭部から出血していた。

「菊川さん、大丈夫ですか」と水谷の母親は、心配そうにたずねた。

菊川は無言でうなずいた。目は石橋に向け、凝視していた。

「私のために、申し訳ございません」と水谷の母は、涙を流しながら言った。

水谷の娘はハンカチで出血部分を押さえながら、竹刀を右手に下げたまま茫然として

いる石橋に言った。「怪我はさせないと約束したのに、話し違うじゃないか」と顔つ

きを変え石橋をにらんだ。水谷の親も涙目で、石橋をにらんでいた。

石橋は三人の冷たい目に耐えられず、少し引き下がった。

そして叫んだ。

「何でよう。助けて欲しいと言われてやったのにーーー。何で私はいつも悪役になっ

てしまうのよう」

そして振り向くと、石橋は走るようにして大年神社の境内から抜け出した。

悲しかった。何故か、涙がどんどんあふれ出てきた。


続く


「妖 剣   (三)」



大年神社での試合後、石橋はいろいろ考えた結果、水谷親子へあやまりに行くこと

にした。怪我をさせたことは確かに自分が原因であり、悪いと思ったからである。

菊川本人にも直接会い言いたかった。しかし、どこに住んでいるか分からないので、

水谷の母経由でわびることにした。

四日後の夕方、石橋は水谷の家を訪ねた。

意外なことに、水谷親子はこころよく迎い入れてくれた。

菊川さんから、石橋さんを決して恨まないで欲しいと強く言われたそうである。

剣と剣との闘いは、傷つき、当たり所が悪ければ、不具となったり、最悪の場合、死

に至ることは良くあることである。その事で相手を恨んではならない。

菊川さんに何度も何度も念を押されたそうである。

幸いなことに菊川さんの傷は浅かった。一応、市内にある大きな脳神経外科の病院に

行って調べてもらったが脳には異常はなく、外傷だけの治療ですんだそうである。

石橋は夕食をご馳走になったあと、水谷に市駅行きのバス停まで送られながら二人だ

けで話しをした。

「菊川さん、もしかすると警察を辞めるかもしれんのや」と水谷は言った。

石橋は驚き、聞き間違えたのかと思いたずねた。

「ええ、何ですって、もう一度ゆうてみてよ」

「警察を退職するかもと、母に言ってきたんよ」

「私が原因なの ?」と石橋は、深刻な表情で聞いた。

「多分、大きな原因だと思う。でも、あなたは悪くはないわ。悪いのは、このような試合をさせた私にあるのよ」

水谷は言いながら涙を流した。

「ミズ、あなたは悪くないわ。悪いのは私よ。防具付けないで試合をしようと申し入れた、私のわがままがいけなかったのよ」石橋もそのように言うと泣き出した。

二人はしばらく、手と手をとり抱き合うようにして泣いた。

「でも、菊川さんは、あなたのことを感謝していた」と水谷は言った。

「あなたと試合したことによって剣道に対する考えを大きく変えることが出来た。勝負は負けたけれども、私にとって、それ以上に転機になるものを得ることが出来た。試合して大変良かったと言っていたんよ。だから私たちの行為は、菊川さんには良かったのかもしれない。でも問題がもうひとつあるんよ」

水谷は、石橋に告げてよいのか少し躊躇したが、さらに話しを続けた。

「母も、私も今度の試合で菊川さんの剣道の実力は充分にわかったし、菊川さんは誠実な方だと再認識でき結婚は問題ないと思っているのだけれども、菊川さんが了解しないんよ。少し考えてみたいと言うんよ」

水谷は、そこまで言うと、また声を出し泣きはじめた。

「私、菊川さんの顔、忘れることできへんのよ。あなたが足を使われ倒れ、私が思わず、ずるーいと叫んだ時、私を見た菊川さんの顔。今、竹刀を打ち込めば勝てるの、なぜ止めようとするのか、なぜ理解してくれないのかと私に悲しそうに訴える目を、私は生涯忘れることが出来ないかもしれない。その瞬間から、私は菊川さんに対して不思議な感情を持つようになってしまったんよう。それで本当なら、あなたが勝った時、私は喜ばなくてはいけないのに、逆に菊川さんが、なぜか猛烈にいとおしいという思いがわいてきたんよう。それであなたに強く当たってしまったのよ。私、あなたに辛い思いをさせて申し訳ないと思っている。でも菊川さんは、もっと苦しんでいるようで、かわいそうなのよ。母も結婚できず悩んでいるし、なんて私は馬鹿なんだろう。私が原因でみんなを苦しめてしまった。なにもかも私がだめにしてしまったんよう」

「ミズ、あまり自分をそんなに追い詰めないで。誰もあなたを責めていないのだから。菊川さんは全日本3位の剣道のつかい手なのだから、きっと、すぐに傷も回復し再び強い菊川さんに戻ることが出来ると思うわ。必ず立ち直り、さらに強く成ると思うわ。私たちが予想もしえないようなことを考えているかも知れんや」

石橋は水谷を勇気づけた。そして、さらに付け加え言った。

「私は菊川さんは、何か苦難に合うと落ち込んでいく人でなく、逆に勇気を奮い立たせ、立ち向かっていくタイプのように思うんよ」

水谷は石橋の話で、少し安心感がわいてきた。

菊川さんは、決して、そんな弱い人でないと、石橋の話で自信が出てきた。




 菊川は上司の栗崎監察課長と面談していた。

課長席の後に、長椅子が二つと小さなテーブルが置いてあり、簡単な会議や雑談は、

そこでいつも行っていた。

栗崎課長は吸いかけのタバコを灰皿に置きながら菊川に言った。

「普通、休職届けは、半年、一年など、長期に休みますと言って届けを出すのだが、

君のは期間3ヶ月、少し短期すぎる。休職にならないのだ」

頭に包帯をしている菊川は、上司の栗崎に3ヶ月の休職届けを提出していた。

高野山へ行き剣道の修行をしたいという理由である。

栗崎は包帯をしてきた菊川を見た時、驚き包帯の理由を尋ねた。

菊川は悪びれることなく「剣道の試合で負けたからです」と答えた。

そして「栗崎課長、ちょっと相談があるのですが」と言って休職届けを提出してきた

のである。

栗崎も今はほとんど竹刀を振ることもないが、かっては四段になるまで剣道に、のめ

りこみ、県警の剣道大会にも出たことがあるほどの実力がある。

栗崎は直ちに、これはただの剣道の試合ではない、よほどの事情があるなと感じた。

「高野山での剣道の修行といっても、私にはどういうことなのか分からんのだが、高

野山というのは弘法大師が開山した真言宗の総本山としか理解していないしなぁ。お

坊さんになるというなら分かるが、剣道と、どう結びつくのか私には全く理解できな

い。その辺をもう少しよく理解できるよう教えてくれ」と栗崎は尋ねた。

「今回、試合して私は負けました。相手は強かっただけでなく普通の相手ではないよ

うに私には思えるのです。あのような剣さばきを、私は見たことも聞いたこともあり

ません。通常の認識を超えた剣なのです。私は剣道を二十年以上やっていますが、あ

のような相手と戦ったことはありません。言い換えるならば魔剣というか妖剣と言っ

たほうが良いのか----、相手は体全体から妖気のようなものが発散しているのです。

私は剣道が強くなりたいために座禅をしたりして、心も鍛錬してきました。無心とか

不動心の心を持てと言われ、ある程度、その境地も分かってきたと思っていましたが、そんな無心だとか不動心の心なんか関係ないのです。あの魔剣、妖剣には通じないのです。無心だとか不動心という、わかったようなわからないようなものは吹き飛ばされ全てを超えたパワーを見せつけられたのです。私の今までの練習方法では絶対あの剣には勝てません。既存の剣や修行方法では絶対かないません。私は悩み考えた結果、勝つ方法は、たったひとつ、あるかもしれないと思いついたのです。それが私の郷里の近くにある高野山なのです。あそこなら魔剣や妖剣を封じる方法があるかもしれないと思ったのです。空海が開いた山に、こもり修行すれば、何か対抗できる技が修得できるのではと思っているのです。私には、例え高野山で教えてくれる人がいなくてもかまわないとも思っているのです。あの山の霊気の中で修行すれば何か得るものがあるだろうと考えているのです。是非三ヶ月間休職するのを許してもらいたい」

菊川は石橋の不思議な剣法を思い浮かべながら言った。

「私も、お前の知っている通り剣道四段までいった男だ。魔剣、妖剣と言われても、

イメージが全く湧いてこないが、昔からの柳生流、天然理心流、小野派一刀流とか、

それとも何か無名の流派の剣ではないのかな」と栗崎は尋ねた。

「いや、私もいろんな剣道に関する本や、剣豪小説を読みましたが、まったく異なり

ます。何か私の知らない流派なのかもしれませんが、私たちの既成の概念を超えた剣

だと思います。それに対するには、私も今までの剣の練習方法、考え方を変えて、全

く異なった思考方法で練習しなければ勝てないと思います。そのヒントを高野山は教

えてくれるのではと思うのです」

栗崎は困ってしまった。菊川があまりにも真剣に訴えてくるし、断ったら警察をきっ

と辞めると言うだろうと悟ったからである。

そこで、栗崎は休職届けは一応預かるが、少し私に考えさせてくれと言って、菊川に

休職の回答を一時保留、待ってもらうことにした。


 翌日、栗崎課長は菊川を会議室に呼び寄せた。

菊川が行くと、栗崎は菊川に書類を渡した。和歌山脳神経外科病院の診断書である。

「お前が治療に行った病院の院長とは俺は小、中学校の同級生なのだ。子供の頃から、よく遊んでいたし、今も家族同士つき合っている。そこで昨日の夜、頼んで、わざわ

ざこれを書いてもらったのだ。脳への打撲により脳挫傷を起こし、意識障害、感覚障

害と軽い言語障害があり、三ヶ月の安静と治療が必要となあ。だから後は、お前が病

気療養届を書いて、この診断書を付けて提出して欲しいのだ。高野山へ行くからとい

う理由で休職届は出しても断られるに決まっている。これなら絶対に通るから、そう

しろ、いいなあ」

栗崎は有無も言わさず菊川に指示した。

「本当にありがとうございます。ご迷惑かけて申し訳ございません」

菊川は、そう言いながら栗崎に頭を下げた。

理由はどうであれ、高野山へ是が非でも行きたかった。栗崎課長はヤクザ口調で、口

は悪かった。また自分の部下にも厳しかったが、部下を守る時は、相手が誰だろうが

例え上司や署長でも徹底して部下をかばった。

半年ほど前、同僚の妻が躁うつ病になり入院しているのに、新宮警察署への人事異動

が発令された。栗崎は署長に訴えるだけでなく、県本部へ出向き、とうとう発令を撤

回させた。栗崎は、その時、県本部でだいぶ強硬に主張したので、そのうち俺はどこ

かへ飛ばされるかもしれないと署長に言った。

菊川は心底、栗崎課長に感謝した。


 ところが療養願いを提出した一日後、今度は署長が菊川に署長室へ来るよう連絡が

あった。

行くと、栗崎課長と村上署長がソファに座り待っていた。

栗崎は微笑して、菊川に目で合図した。

菊川は、願いはその時、承認されたと理解した。

村上署長は「いやー、参ったなあ。こんなこと初めてだ」と菊川の顔を見るなり苦笑

しながら言った。

菊川は「わがまま言って申し訳ありません」と言いながら頭を下げた。

「菊川君の高野山に行きたいという理由は、栗崎課長から大体聞いた。私も橋本警察

署に四、五年前、約三年間いたから高野山交番にも常駐したことがある。君の剣道の

修行に高野山を選んだことに対して、いろいろアドバイスをしたいのだが、高野山は

本当に分からない、何か通常でない場所なのだよ。昼間は観光客で賑やかだけれども、

夜は、一変してしまうのだ。特に車が通らないような、お寺の奥のほうとか、周辺の

山は恐ろしくなるらしい。橋本警察の猛者の連中も、口には余り出さないが時々怖い

目に会うらしい。そのような変な出来事が良くある特定の場所も、私は何ヶ所も知っ

ている。でも昔からの言い伝えで、高野山は弘法大師が生きながら仏さまになった霊

地であり、大師の力がいまだ及ぼしているので、妖怪変化のようなものを見て驚かさ

れても、人間には決して悪さをしないから安心してよいと、何度も聞かされている。

問題は菊川君、君が高野山のどこへ行って修行するかだ。高野山には百以上の寺院が

あるのだ。金剛峯寺のような有名なお寺から、無名の僧がいるのかいないのか分から

ないような荒れ果てたお寺もある。なにか当てはあるのかな」と尋ねた。

「いや、全く見当がつきません。しかし金剛峯寺に行って、尋ねてみれば何か教えて

くれるのではないかと淡い希望を持っているのですが-----。場合によっては私の身

分を明かし、同じ警察官だと言って高野山交番で情報を集めようかとも思っています

が-------、考えが甘いですかね------」と菊川は首を捻りながら答えた。

「甘い、甘い、大甘だ。いきなりそんなことを言って尋ねても誰も相手にしてくれな

い。変な気が狂った人間が来たと思うのが普通だ。交番の者だって、剣道なら高野山

高校でクラブ活動でやっている者がいるという程度しか知らないと思う。その辺の世

界を、高野山の影の部分、普通の人が理解できないような世界に詳しいと思われる人

を、私は一人知っている。なんだったら紹介状を書くから、それを持って尋ねてみな

さい。そのほうが手っ取り早いと思うよ。その人は金剛峯寺で真言宗副管長をしてい

る者で、私はたまたま高野山の交通安全の会合で一緒になって知り合いになったのだ

が、なかなか頭が切れるし、世事にもたけた人だよ。高野山の、あるお寺を舞台に永

代供養料とか偽ってネズミ講のようなものを開き何十億の金を動かした事件があった。関西でも大きな話題になった犯罪で協力してもらった。高野山の多くの寺院は警

察が介入することに反対したのだが、反発をおさえ、説得してくれ、そのお寺を捜査

することが出来るように手配してくれた。絶対、その人の助けを求めたほうが良いと

思う」

菊川は感激した。是非、紹介状を書いて欲しいと署長に頼んだ。



 翌々日、菊川は自分の軽自動車に衣類や身の回り品と、竹刀袋に数本の木刀と竹刀

を入れ高野山に向かった。

金剛峯寺の駐車場に車を置き、紹介状だけを持って、お寺に向かった。平日の朝まだ

早かったので観光客もまだ誰もおらず静かであった。受付に聞き、裏へ回り、手入れ

の良く出来た庭に面した一室に案内された。

しかし、副管長の松田玄祥さんは、なかなか現れなかった。

約一時間たった頃、松田副管長は「どうも、すいません。朝は忙しくて------」と言

いながら部屋に入ってきた。

「村上署長は元気ですかな。いや----、紹介状には、この男はいい奴だから三ヶ月ほ

ど面倒を見てくれとしか書いてないのだけれども、あなたの顔を見たら安心しました

よ。私は何か罪を犯した人をかくまってくれと頼まれるのかと思い、あの人の頼みな

ら、しょうがないかと考えながら来たのだが、あなたは真面目な警察官の顔をしてい

る。安心しましたよ」松田副管長は笑いながら言った。

菊川も、思わず笑ってしまった。村上署長らしい紹介状の書き方だと思ったからであ

る。しかし、一目で菊川を警察官と見破った松田副管長の眼力は、並の人でないと思

えた。

菊川は高野山で修行を望むに至った経緯を松田副管長に話した。

体から黒い霊気のようなものが発生し、体が飛ばされかけるほどの風が吹き起こるこ

と。波動剣という恐ろしい剣の技、これは石橋という高校生の体に魔物がとりついて

いるからではないか。決して催眠術などで目をくらまされているのではない。実態の

ある剣の技である。普通の者が出来る技ではない。まして、高校に入ってから剣道を

やりはじめた女子高生には絶対に出来るはずはない。必ず何かが、あの高校生に取り

付いたのか、入れ替わったとしか考えられない。剣の試合前に見せた、はにかむよう

に語りかけるかわいい女子高生が、試合になると顔つきが一変し、夜叉のように動き

襲ってくる。私にはどのように解釈したらよいのか分からないが、それに対抗するに

は並みの方法では無理です。ただの剣道の技だけでは、いくら研究しても勝てないで

しよう。なにか他の手段、力を貸してもらわないと対抗できないと思います。そこで

高野山の力を借りるほかないと、熟慮した結果、ここへ尋ねてきたのです。なにとぞ

力を、修行の方法を教えて欲しい。決して剣道の試合に負けたから、悔しい、復讐し

てやろうとかの気持ちではない、とりつかれた彼女を救ってやりたいという気持と、

自分の剣の道をさらに深めたいというだけの純粋な考えである。このような魔剣、妖

剣に勝つ剣の技を高野山なら伝えられているか、修行で対抗する方法、力を得られる

のではないかと、切々と菊川は松田に話した。

松田副管長は、部屋に入ってきた時の柔和な表情は消え、菊川の目を熟視し、話しを

聞いていた。

松田は目を閉じながら言った。

「私は剣道のことは良く分かりませんが、あなたの高野山で修行したいという理由は

理解できるような気がします」

「しかしながら、私が直接あなたを助けることは出来ません」

松田は、今度は目をひらき付け加えた。

「その前に高野山の歴史を少し話さなければなりません。弘法大師が高野山を開創し

た時、全国から集まった数百人の修行僧、それを教育指導する学侶と、寺を運営管理

する役寮と呼ぶ僧の大きな二つの組織を創り、座主が、最高責任者として全てを統率

し運営するようにした。ところが弘法大師様は入定する少し前に、その組織の欠陥に

気がつき、ある部門を設けました。その部門は後で組織され、その特殊な役割のため、表立って公表はされていません。真言宗内の少数の特定の人々しか存在は知っていないのです。それは特殊な加持祈祷を専門とする部門です。勿論、加持祈祷の方法は修行僧全員にも教えます。しかし、完全には教えることができないのです。また教えられても普通の僧では手におえない負けてしまうことがあるのです。俗に言う、もののけ、妖怪、変化、怨霊などの中には特殊な、強い霊力のあるものがいるのです。それらに対しては、普通の修行だけでは対抗できない場合があるのです。対抗するには困難な修行と、それに耐えられる並外れてた体力と精神力が必要なのです。毎年、全国から集まってくる二、三百人の修行僧の中から一人か、二人くらいが選ばれ、その修行に入りますが、ほとんどの人は、厳しい修行に耐えられず途中で脱落します。ここ最近十年は、この修行に挑戦しようとする人もいません。その普通でない、ある特殊な加持祈祷を専門とする僧の部門が高野山金剛峯寺別院です。別院といっても現在は数名しかいませんし、金剛峯寺の闇か影のような存在なのです。弘法大師様が御入定して以来、歴史や寺院の記録の表面には決して出ませんが、闇か影の存在でも、高野山の歴史の中でも大きな役割を担ってきたのです。現在、真言宗はいくつかの派に分かれていますが、この部門だけは別院のみが対応できるのです。各派も別院に援助を求めざるを得ないのです。私は、その別院にあなたを紹介することになります。しかしながら、別院は影の存在ですから、別院の組織、そこでの出来事、修行についてなど、全て他言無用にしてもらいたい。普通ならお断りするのですが、あなたのお話を聞いていると、私には何か捨てておけないものを感じてくる。久しぶりに気分が高揚してきました。私もできる限り協力いたしましょう。別院に連絡しますので、しばらく、このまま座していてください」

松田副管長はそこまで言うと、菊川の返事も待たずして立ち上がり、部屋を出て行っ

た。





 石橋は今は重点を受験に置いていた。出来たら東京の大学を受けたかったが、母の

働いて得る収入と、別れた父からの少ない仕送りだけで家計を維持している姿を見て

言い出せなかった。そこで自宅から通学できる大阪の大学を選ぶことにした。

剣道は半月ほど前、石橋は剣道初段の資格を取った。女子は水谷を含めて三人昇段試

験を受けたが、石橋だけが合格した。

剣道の練習は勿論、受験勉強と並行して毎日裏山に入り、二時間くらい集中して実行

していた。「波動剣」も、体や息づかいはどのようにしたか身をもって覚えているの

で、真似事で時々やってみたが出来なかった。師の刀の分身は「お前が出来るように

なるには、まだ五年以上はかかる」と言って具体的な方法は教えてくれなかった。唯、受験が終わったら由緒ある神社仏閣を尋ね座禅と、いろいろな霊気を感じ取る練習をせよ。また、ある山に入り、大地と宇宙のいぶきをかけてもらうようにと言われた。最近は師の忠告により「突き」を重点的に練習していた。石橋の剣先からでる剣気が少ないと言われ、太い立木に向かって木刀を日に五十回、手や腕、肩など体中の筋肉が痛くなるほど突き刺した。その激しい突きの練習が終わると、石橋はしばらく立っていられないほど疲れはてた。



菊川との試合後、一度だけ試合をする機会があった。

その話しは北高剣道部顧問村井からもたらされた。

村井が隣の県、奈良県の高校のクラス会に出席したことから始まった。その学校は私

立高校で、昔から剣道などの武道が強い高校として全国に鳴り響いていた。

クラス会の酒の席で、現在、その高校の剣道部顧問をしている村井の友人が、最近行

われた高校総体剣道で優勝したと意気揚々と得意げにして酒をあおっていた。

村井は少し嫉妬して、俺の高校も和歌山では最近は一、二を争うほど強くなったと自

慢した。その結果、当然の成り行きで試合をすることを約束するはめになった。

村井は、ついでに相手の友人と酒を賭けた。

負けたほうが相手に「もう結構」と言うまで飲み食いさせるという約束である。


村井は和歌山の学校に戻ると3年生も含め、男女部員の全員を集めた。

そして奈良の天奈高校と試合をする。相手は高校総体剣道男子団体で優勝し、男子個

人では一位と三位を獲得したと言って驕り、得意になり天狗になっている。和歌山の

高校剣道の実力は全国で下から数えて1番か2番目だ。和歌山は関西の付録、おまけ

みたいな存在だと言って、和歌山をおちょくり、馬鹿にしているんや。何とかして彼

らの鼻をへし折ってやりたいと戦意を煽った。

石橋は、そんなことはどうでも良いと思い、冷ややかに聞いていたが、男子剣道部の

元部長、今は二年生に部長職を譲った天沼が村井の扇動に乗った。

「和歌山がこんなに馬鹿にされて黙っているわけにはいかない。江戸幕府第8代征夷

大将軍徳川吉宗公は徳川御三家の一つ紀州藩から就任された輝かしい歴史伝統がある。

奈良県の人に、ここに和歌山っ子ありと我らの力強さを見せてやろう」と立ち上がり

叫んだ。石橋は耳を疑った。天沼はこんなことを言う人間でないと思っていたからである。常日頃、村井顧問には直接言わないが、村井の部の運営方法、やり方などに怒っていたからである。

実は石橋は全く知らなかったが、天沼は最近、村井顧問から大きな恩を受けていた。

それは村井顧問が天沼が希望していた、ある大学の推薦入学枠の一人に入れてくれた

からである。そのため天沼は村井顧問から大きな借りを受けたような気がしていた。

そのため今回、日頃の態度と異なった発言をして、村井顧問に迎合へつらった態度を

させたのである。

後々のことであるが、天沼は天奈高校との試合が終わった後、石橋に村井顧問から推

薦入学させてもらった事情を話し詫びた。

この段階では事情を全く知らない石橋は、今は一、二年生が主体となっている、この

時期は三年生を参加させる必要は無いと、多少不満があったが、大勢の意見が奈良の

天奈高校に一泡ふかせようと一致してきたため反対は出来なかった。

村井の三年生を含む最強の体制で試合しようという思惑どおり進むこととなった。


 試合は勤労感謝の日の振り替え休日に天奈高校の武道館で行われた。

試合は天奈高校5人、和歌山北高5人の勝ち抜き戦、制限時間五分三本勝負と決まっ

た。試合方法は「勝者数法」と「勝ち抜き法」があるが、村井は勝ち抜き法を強く希

望したのである。石橋を最後に出場する大将にすれば勝てる可能性があると思ったの

である。

石橋は村井にとって今回の試合の、いわば「隠し玉」の存在である。石橋が慶明大学

四段の猛者を倒したという噂は奈良までは伝わっていなかった。

村井はどんなことがあっても、最後の石橋が踏ん張ってくれると考え、試合を申し込

んだのである。

天奈高校側も和歌山北高の大将が女子であることに驚いた。

北高は最初に先鋒に一番強い者を置き、大将は一番弱い者を当てた前半型の戦術をと

ったのかと疑ったが、男子の一番強そうな男、天沼が四番手/副将にいるので理解できないまま天奈高校側は戦うこととなった。

天奈高校は相手がどんな戦術を取っても、勝ち抜き戦なら、どんどん勝っていけば良いことである。全国高校総体剣道で優勝した経験と、普段の実力を出せば全く負けることはないと安心しきっていた。

審判は天奈高校で剣道のコーチをしている滝川六段があたることに成った。

滝川六段は村井と天奈高校の顧問の二人にとっての大先輩であり、放課後の天奈高校

に、週三回ほどやって来て指導をしていた。年金生活を楽しみながら、ボランティア

で天奈高校以外にも近くの中学校でコーチをしていた。


試合は天奈高校の圧倒的な強さを見せ、始まった。

天奈高校の1番手/先鋒が北高の先鋒を、面二本を続けて簡単に取り破ると、次々と北高の選手を倒していった。村井顧問と天沼は、北高の選手が、こう簡単に一人の選手に負かされていくとは思っていなかった。二番手/次鋒、3番手/中堅も一分もたたずして天奈高校の先鋒一人に、二本連取され敗れた。

北高の次は副将の天沼である。

石橋は天奈高校の先鋒が北高の三番手/中堅と戦っている時、隣に座っている天沼に言った。

「あの先鋒の人は、面を打ってくる時、必ず相手の竹刀を少し左に払ってくるか、自

分の竹刀を少し右に上げてから打ってくる。その瞬間を狙って小手打ちすれば勝てる」

言った五秒もしないうちに天奈高校の先鋒は、右に少し竹刀を上げて、相手の打ち気

を誘った。北高の選手が誘いに乗らず、逆に攻めてくると思い竹刀を少し動かした瞬

間隙を見つけ、大きく跳ね上がりながら面を打ってきた。

軽い音がして北高の選手は二本目が取られ敗れた。

天沼は石橋に前方を見たまま「なるほど」とつぶやき自分の番になった試合に臨むた

め立ち上がった。


 天奈高校の先鋒は、三人を連続して倒したが、疲れは全く感じなかった。

逆に勢いに乗り、四人目も倒し、場合によっては北高の五人全員を、この俺が倒して

見せると意気が上がっていた。

天沼は静かに正眼に構えると「オリャ」掛け声を上げ、さあ、いつでも来いと相手を

誘った。

しかし、天奈高校の先鋒は直ぐには攻めなかった。前の3人と明らかに異なり、この

副将はかなりの腕があると認めたからである。

左右に動いたり、剣先を少し上げても、全く動ぜず、天沼の剣先は絶えず鋭く天奈高

校の先鋒の喉下を狙っていた。

約一分ほど対峙が続いた後、天奈高校の先鋒は、疲労を感じるとともに、長引くと不

利になりそうだと思い始めた。そこで、多少無理でも攻めてみようとした。

既に三人を倒した自信もあったからである。

すこし間を詰めると天沼の竹刀と交差させた。そして天沼の竹刀を無造作に左に払っ

てきた。

その一瞬、ほんのわずか動きが止まる瞬間、石橋に言われ、その時を待って狙ってい

た天沼は飛び込み強烈な小手を打った。

「ポーン」と天沼の竹刀が天奈高校の先鋒の右小手にきれいに入った。

審判の左手が、さっと上がり「小手」と叫んだ。

今まで、意気消沈していた和歌山北高の選手と、一緒に来ていた部員は一斉に手を叩

き喜び、天沼の技をほめたたえた。

それを見て天奈高校側はニヤニヤしているだけであった。一番手が四人目で始めて一

本取られただけである。余裕の笑いを浮かべていた。

天沼もこの一本で、立会いが始まった時、持っていた不安の心が少し楽になってきた。

ところが一本とれたことによって逆に、ここで天沼の心に大きな変化が現れた。

欲が出てきたのである。

この一番手の先鋒を倒した後、さらに二番手、3番手、できたら四番手まで倒し、出

来る限り、次に続く大将の石橋を楽にしてやろうと考えが変わった。

立会いの時もっていた全力を尽くそうという考えから、さらに二番手、3番手を倒す

ために、この目の前の一番手を出来る限り短時間に倒し、体力を温存しようと考えた。

 天沼は前へ出た。得意技で小手、面、面と連続して打って出た。天奈高校の先鋒は

かろうじて竹刀を当て防いだ。天沼は打った技が全て相手に防がれたため、さらに面、面と打ちこんでいった。一本取った余裕から、少し無理がある攻撃であったが連続技を仕掛けた。

しかし、天奈高校の選手は試合巧者が多い。練習も毎日しているし、他校との試合も

二週間に一度はあったので、このような一本とられ多少不利になっても、充分に相手

をよく見ていた。

天沼が不用意に連続技の最後の面をとりに行った竹刀を振り上げたところを、逆に右

小手をきれいに返されてしまった。

各々一本ずつ取ったことになり、残り時間はまだ一分半くらいあった。

天沼は一本取られたことで、今度は消極的にならざるを得なかった。

もう一本取られたら最悪で天奈高校の先鋒一人に和歌山北高の四人が倒され、最後の

大将石橋とも戦う事態はどうしても防ぎたかった。

もう時間切れの引き分けを狙うほかなかった。

天奈高校の先鋒も四人目なので、疲れがでてきたせいか、これ以上強い攻撃もしてこ

なかった。

制限時間の五分が立ち、天奈高校の先鋒と北高の副将は引き分けとなった。

天沼はくやしかった。せめて二人くらいは倒したかったのである。

天沼は下がり、石橋が、替わりに試合にのぞむため立ち上がり、途中ですれ違った。

天沼は石橋に小さい声で言った。

「すまない。なんぎなことになってしもうて」

「おもしゃい」

石橋は言いながら少し笑って見せた。


天沼と天奈高校先鋒の引き分けで、和歌山北高は大将の石橋一人と、天奈高校は残

り四人の一対四の絶対不利な情勢となった。

北高顧問、村井はもう負けたと思った。

いくら石橋が大学生を一人倒したとしても、全日本高校で最高クラスの選手をそろえ

ている天奈高校四人、全てに勝てるわけはなかった。体力も続かないと思った。

村井から離れていたが、天奈高校の顧問が、自分を見て笑っているのが見えた。


石橋はこの試合が決まった時、刀の分身に言った。

「今回の試合は、全て私に任せてください」

刀の分身も異存なかった。もう普通の相手には負けないと確信できるほど上達したと

認めていた。

「今日は寝ている」と刀の分身は言った。


天奈高校にも女子剣道部は、あるにはあるが、力の差がありすぎて、ほとんど別々に

別れて練習していた。

天奈高校の二番手は、女子剣道部員達にも自分の存在を見せてやろうと、この俺が大

将を倒してやると、いさんで積極的に打ち込んできた。

石橋はその打ち込みを全て体を左右、前後、斜めに動き、空振りさせた。

そして相手の打ち込みが、つきた頃みはからって、小手に「バッシ」と鈍い音をさせ

打ち込んだ。相手はその打撃による痛さに、顔をゆがめた。

審判の滝川は左手を上げ「小手一本」と宣言しながら、驚きの目で石橋を見た。

教科書に出てくるような心技一体のきれいな小手打ちであっただけでなく、相手の技

を外す石橋の動きに、並み以上の技量を感じたからである。

動きはゆったりしているが、相手の技を打ち込んでくる前から、それを察知している

かのように余裕があった。

しかも逆に攻撃の時になると、全身バネのように体を動かし、滝川は小手を打ち込ん

でいった技の速さに舌をまいた。

この俺も、あのような小手打ちが来たら避けることができるだろうか、凄い腕のある

者が和歌山にはいたのだと思った。

天奈高校の二番手は、一本取られたことで余計に取り返そうと打って出た。

石橋はそれをことごとく体をかわし外した。

そして二番手が、少し息切れして攻撃を中断した一瞬を、大きい声で「面」と言いな

がら、大きく踏み込み、相手の面の中央部に打ち込んだ。

滝川の左手が、すぐさま上がり「面」と宣言した。

和歌山北高の生徒は全員手をたたき、石橋の勝利をたたえた。

天奈高校の二番手は、こんなはずはないと、首を傾げながら下がっていった。竹刀が

ひとつも相手に当たらないうちに二本取られてしまった。

こんなことは初めての体験であった。

天奈高校三番手が試合にのぞむため立ち上がった時、和歌山北高の選手、付き添って

来た生徒は皆、どよめいた。

身長185センチ、体重100キロ以上ある、高校生離れした巨体であった。しかも

高校総体剣道男子個人で三位に入賞した男であった。

試合場内に入り、蹲踞(そんきょ)から立ち上がり、二人が竹刀を構えた時、北高の人

は、試合前から体の大きい人が一人いると気がついていたが、その人が直ぐ目の前に

現れると、その大きさに圧倒され驚きと絶望の声をあげた。まるで大人と小学生が試

合するかのように見えた。

天奈高校の選手、観衆はその反応を笑いながら、これで決まったと思った。

その中堅/三番手は、相手が女性でも石橋を思いっきり体で跳ね飛ばすか、手かげん

せずに竹刀を上から振り落とし、叩きつぶしてやろうと考えていた。

「はじめ」と滝川審判が言うやいなや、竹刀を軽やかに振りかぶり石橋を襲っていっ

た。

しかし石橋は後退したり、左右、斜め前後に移動し、ことごとく三番手の竹刀を空振

りさせた。場内の隅に追い詰められないように巧みに避けながら、時々、竹刀を振り

相手の体に打ち込んだ。石橋は故意に、また審判などに疑われないように、相手の両

肩、小手の上部に強烈な打ちこみを与えた。

天奈高校の三番手は、最初の一撃が右肩に来た時、その痛さに思わず「イテッ」と他

の人には聞こえなかったが声を出してしまった。

それでも「この野郎」と振りかざし攻撃を続けた。ところが石橋の七打撃目が右小手

防具の上部に当たったとき、痛さと打撃で右手全体が電気ショックに当たったように、しびれてきた。

石橋の打撃が加えられた他の部分も痛みが激しくなり、徐々に苦痛になってきた。

両肩には、全く同じ部分を二回打ち込まれた。

この段階で、天奈高校の三番手は気がついた。相手はわざと面、小手を取られないよ

うに少し外し、徐々に、この俺の力をそぐようにしているのではないかと悟った。

それに気がつくと天奈高校の三番手は相手の石橋が恐ろしくなってきた。

続いて左小手上部にも石橋の竹刀が飛んできた。左腕も電気ショックのようなしびれ

が走った。そのため天奈高校の三番手は、もはや攻撃を続けることができなくなった。しかし、それでも攻撃を続けるかのようにと虚勢を張り、竹刀を上段に振りかぶり構えた。

攻撃を止め仁王立ちのようにして上段に構えている天奈高校の三番手に、石橋は静か

に中段に構え、ジリジリと間合いを詰めていった。

一番近くで見ていた滝川審判は、天奈高校の三番手の体が振るえ、防具の面の中に浮

かんでいる顔が恐怖でおびえているのに気がついた。

「突き」と石橋の甲高い声が武道館の館内に鳴り響いた。

石橋の鋭い、捻りの加わった突きが、ばねに飛ばされたかのように前方に飛躍しなが

ら天奈高校の三番手の、防具の胴胸部に強烈な打撃をもって加えられた。

天奈高校の三番手は「ウワー」と声を上げながら跳ね飛ばされ、真後ろに上体から大

きな音を立てて倒れていった。

滝川審判はすぐさま「突きあり」と左手を上げた。

突きは喉部分だけでなく、相手が上段に構えていた場合、胸部に対しての胸突きも有

効と認められている。

天奈高校の剣道部顧問の顔から笑いが消えた。他の選手も全員、顔が蒼白になり、悠

然と立っている石橋の姿を眺めた。

天奈高校の三番手は、かろうじて立ち上がった。

審判が心配そうに声かけた。

「大丈夫か、試合を続けられるか------。無理してはいかんぞ」

三番手は、直接には返事をせず、首を少し上下に振り続行できると訴えた。

しかし、胸部を右手で押さえ痛みをこらえていた。

滝川審判は、彼はこれ以上は試合継続できないと判断した。

直ちに「それまで、勝負あり」と叫び、石橋の勝ちを宣言した。

石橋はこのように攻めたくなかったが、あまりにも相手側の態度が北高の選手をあな

どり、傲慢に打ってきたため、ジワジワと痛めつけながら攻める戦法を取ったのであ

る。

 天奈高校四番手/副将が隣の大将の顔をチラッと見た後、立ち上がった。

大将はそれに気がつかず、敵の大将、石橋を睨みつけていた。

滝川審判は天奈高校剣道部の中で、この副将を一番買っていた。

真面目で、試合で時々実力以上の相手を倒し、もし、大学、社会人になったら、今の

大将にいる者以上に剣の腕は上達するのではないかと評価していた。

滝川審判は気がついたが、この副将も石橋の技の特徴に、もしやと普通でないことに

気がついた。

石橋と戦った天奈高校の二人とも、一度も石橋の竹刀に自分たちの竹刀を合わせてい

ないことである。竹刀と竹刀が触れて発する音がなかったのである。

通常、剣道の試合では、相手の竹刀を避けたり、打ち込むときに竹刀と竹刀がぶつか

り大きな音が発生する。しかし、石橋は相手の打ち込みを竹刀でなく、体を移動して

すべて避けた。打ち込みも、相手の竹刀を叩いてから出なく、狙った場所を直接打ち

込んできた。石橋の竹刀が相手の体に当たる音以外は、竹刀から音が一度も発しなか

ったのである。

幕末、音なしの構えで高柳又四郎という剣豪がいたと聞いているが、それとは異なる

と思われるが石橋は自分の竹刀を相手から打たせなかった。

石橋は何本もの丸太を吊るし剣道の練習をしているが、前後左右から振り子のよう

に来る丸太を打ち返すだけでなく、自然に体を動かし避ける技も身につけていた。

この二人との試合も、竹刀を相手から触れるのを避けようという意識は全くなかった。

相手が意気込み、勝ちを急ぎ、どんどん竹刀を打ってきたため自然に石橋の体は、そ

れを避けるために移動し、相手の竹刀は空振りして音が発しなかったのである。


滝川審判の「始め」の言葉で、副将は中段に構えたまま、前へ進んだ。石橋も、静

かに前へ進み、お互いの間合いを詰めた。

天奈高校の副将は強い女性の剣道の使い手とも未だかって試合したことはなかった。

したがって、最初は相手からの、いつもと異なった感じにとまどっていた。

相手の体全体から、やわらかい雰囲気が伝わってくるのである。そのため、このまま

何もしないでこの感覚を味わっていたいという気分になっていた。

しかし、直ぐに俺は試合をしているのだ、勝たねば成らないと「ソリャ、ソリャ」と

声をあげ、自分の気を奮い立たせるとともに相手を牽制した。

それに対して石橋は無言で、少しずつ前進し間合いを狭めた。

そして、お互いの竹刀の切っ先が十センチほど交差し当たり音が一、二回発生した。

天奈高校の副将は、相手は音なしの構えではなかった。小さい音だったが音が出たと

してホッとした。

しかし、攻めることが出来なかった。石橋の竹刀の切っ先が、自分の喉を狙って今に

も飛び込んでくるような気がして、それ以上進めなかった。

あまりにも前の中堅の選手がきれいな強烈な突きを受けのけぞり、一、二メートルも

飛ばされた、みじめな姿を見ているため前へ進めなかった。

ここで、天奈高校の副将にある考えがひらめいた。

逆に相手に突きを入れたら面白いのではないかと------。

この北高の大将は、おそらく相当の突きの練習をしているに違いない。しかし、逆に

自分が突きを受けることは、経験したことも全く考えたこともないのではと思った。

まず、突きを入れ相手の動きを探り、その相手の動きに合わせて、こちらが変化して

二段、三段の打ち込みを入れ隙が出てきたところへ、とどめを打ち込もうと思い立っ

た。

副将は竹刀を振り上げた。

そして面を打つように見せかけて、相手の竹刀に打ち落とした。

自分の喉元に向いている石橋の竹刀を叩き除いた後、逆に石橋の喉下へ突きを入れよ

うとした。

しかし、振り落とした竹刀は空振りであった。石橋が少し竹刀を右上に上げ避けたか

らである。天奈高校の副将は今だと思った。石橋の正眼の構えが崩れ、前が少し開い

たからである。

副将は空振りの竹刀を少し戻し、そのまま石橋の喉に向かって全力で飛び込むように

して、竹刀を突き刺していった。

石橋は素早く左斜め後方へ数歩、八双に近い構えをしながら後退した。

副将はそれを見て、石橋の前方が大きく開いた、この時を逃してはいけないと判断し、大きく振りかぶり「面」と叫びながら石橋の頭を目掛けて打ち込んでいった。

副将は打ち込みながら勝利をなかば確信した。

ところが石橋はすぐさま、その面打ちに対して、数刻遅れて副将に対して「めーん」

と鋭い声をあげ打ち込んできた。

副将にとって信じられないことが次に起こった。

副将の面打ちの竹刀が、もう少しで石橋の面に当たろうとしたところで、石橋の遅れ

て振り込んだ面打ちの竹刀に弾き飛ばされ、石橋の竹刀はそのまま副将の頭上にふり

かかってきた。「アッ」と思ったが、既に防ぐには遅く、きれいに強烈な面が鈍い音

をさせ当たった。

滝川審判は「面」と声をあげ、石橋の一本先取を宣言した。

天奈高校の副将は茫然とした。

絶対に勝てると思ったのに、易々と逆に面を取られたことに大きな迷いが生じた。

しかし、そんなことはない。鋭さが欠けていたのか知れない。再度、面を狙ってみよ

うと考えた。

二本目が始まると、副将は直ぐに、もう一度石橋を突きで追い込んで、今度こそ必勝

と思い深く飛び込み面を打っていった。

ところが再び、石橋の返し打ちのような遅れて打ち込んできた竹刀に、副将の竹刀は

弾かれ、そのまま、一本目よりさらに強く力の入った面打ちを受けた。

打ち込まれたとき、あまりにも強い面打ちに軽いめまいを起こし左ひざを突いたが、

かろうじて立ち上がった。

ふらつきながら引き下がると、滝川審判が告げた石橋の勝ちの宣言が聞こえてきた。

天奈高校の副将は、なぜ自分の面が当たらず、後から打って来た石橋の面が当たるの

か理解に苦しんだ。同時にまた、軽いめまいがして両膝をつき立ち上がれなくなった。

急いで控えていた天奈高校の部員が飛んできた。

副将は部員二人の肩を借り引き下がった。滝川は医務室に行くよう進めたが、副将は

次の大将戦が、どうしても見たくて、その忠告を断り代表選手五人の副将の位置に戻

った。

場内は驚きでざわつき始めてきた。一人の無名の女子高校生に、全日本高校を代表す

るような選手が三人までも、一本も取れずに敗退していった。

和歌山北高の選手、応援に駆けつけた同校生も、石橋のあまりにも強い姿を見せられ

応援の声をするのも忘れ、ただ次の大将戦はどうなるのか固唾をのんで見守っていた。

次に控えている大将は天奈高校で一番強いだけでなく、夏の高校総体個人の部で優勝

していた。

ということは現在、全国高校剣道のトップの実力があるということになる。


石橋は次の天奈高校大将と戦う時、村井顧問の顔が目に入った。

村井顧問の顔はなぜか、こわばっていた。石橋の剣の技は村井に思惑以上の強さを見

せつけたのである。

この武道館の大勢の中で、滝川審判だけが石橋の面打ちは、一刀流の「切落とし」柳

生流でいう「合撃」に近い技ではないかと理解できた。

滝川も四十歳台の時、その技を研究したことがあるがある。

相手の面打ちに対して、ほんの少し遅らして正中線にそって真っ直ぐに振り落とす。

その時間差によって生じた真直ぐ真上に向かって来る相手の竹刀を途中、はじくよう

に打撃を与え、そらしながら、そのまま相手の面に振り落とし勝つ捨て身の技である。

相手に対する見切り方、タイミング、力強い打ち込みなど高度な能力が必要である。

わずかにタイミングがずれることによって、遅いと相手に逆に面を取られるし、早く

打っていくと相打ちか、途中で相手の竹刀と自分の竹刀が衝突するだけのことになっ

てしまう。

滝川は、数年間練習したが、いくらやっても出来ず。とうとうあきらめてしまった技

である。

 いよいよ大将同士の試合である。

場内は思わぬ展開に息をのみ、蹲踞から立ち上がり竹刀を正眼に構えた二人の姿を見

守った。

天奈高校の誰もが、このような事態になることは予想しなかった。

天奈高校の代表選手でないが、後ろ側に控えている剣道部員の数人から「頑張って」

と応援の声が上がった。

天奈高校の大将は副将が敗れたとき、今までの方法では自分も同じように負けると思

った。

そこで仕掛ける方法を変えねばと結論づけた。

今までは全員石橋に対して先手をとり攻撃している。それに対して、石橋は巧みにそ

の攻撃をほとんど竹刀ではなく、体を前後左右に移動して外し、攻撃が途切れた時や、途中の隙を見て打ち込んで来るという受けの試合をしている。

そこで、もし、こちら側から攻撃しないで、逆に石橋の攻撃を待って反撃したら展開

が変わってくるのではないだろうかと考えついた。

天奈高校の大将は正眼に構えたまま動かなかった。静かに石橋が動くのを待った。

石橋はニコッと微笑んだ。相手は私の攻撃を待っているのだと理解できた。

今までの三人は、石橋が攻撃をする前にどんどん打ち込んできたため、石橋は避ける

のに一生懸命で受身の攻撃になっていた。

やっと私、本来の攻撃ができると思い石橋は嬉しくなってきた。

息も乱れておらず、疲れは全く感じなかった。

石橋は「乱月」と言いながら、構えを正眼から竹刀を右に動かし、右上段より少し低

く、右半月に変えた。そして、ジリジリと間合いを詰めた。

和歌山北高の生徒は、乱月の恐ろしい技を一度目にしていたが、天奈高校の生徒は初

めて目にする構えである。

その不思議な構えと、石橋から湧き上がり漂よってくる鋭い殺気のような空気の流れ

に身ぶるいをする者もいた。

審判の滝川は自分が試合しているのではないのに、冷や汗が出てくるのを感じた。

剣道で、かって、こんなに相手から恐ろしい殺気のような気を感じたことはなかった。

天奈高校の大将も緊張し息をするのも忘れた。

それでも上段から竹刀が飛んできそうだと分かったので、それに備え、正眼からやや

左上に竹刀を移動させた。

見ている人々は誰しもが、どちらかが仕掛けた時、勝負は直ちに決すると思えた。

一分半ほど対峙が続いた。

天奈高校の大将が張り詰めた気持ちに耐えられず、一瞬息を抜いた。

その時である。「面(メーン)と石橋の大きな甲高い気合の声とともに乱月の構えが変

化し竹刀が回転した。

最初に天奈高校の大将の左面に、続いて回転した竹刀が左半月から飛ぶように振り下

ろされ右面に鈍い音を出し、竹刀はそこで止まった。

石橋の乱月の技は大学生の三谷、警察官の菊川と試合した後、さらに磨かれていた。

滝川審判は直ちに左手を挙げ「面一本」と叫んだ。

声と同時に天奈高校の大将は、数秒上体を震わしていたが、崩れるように前方へ倒れ

た。

石橋の最初の一撃の左面では、かろうじて立っていたが、二打目の、さらに強烈な右

面に意識がしだいに薄れていき竹刀を握ったまま、うつ伏せに倒れた。

場内は騒然となった。



和歌山北高で慶明大学の三谷が気を失い救急車を呼ぶ騒ぎになったが、今回も同様に

救急車が呼ばれる事態になった。


 和歌山北高の生徒は、囲むように敵意ある冷たい目で見る天奈高校の生徒の中を、

青ざめて下を向きながら武道館の外へ向かった。

石橋だけが胸を張り、真っ直ぐ前方を睨み一番前を進んだ。

勝ったのにどうして正当に評価してくれないのか、哀しかった。

学校単位で勝った負けたと考えるのでなく、一人の剣士として評価してもらいたかっ

た。

後に続いていた天沼が石橋を見て自分の姿に気がつき、後に続く和歌山北高の生徒に

叫んだ。

「みんな、顔を上げろ! 我々は勝ったのだ。堂々と行こう」

その言葉で和歌山北高の生徒は奮い立ち顔を上げ、天奈高校の囲みの中を進み、武道

館の外へ出た。

石橋は思った。

これが高校生活、最後の試合であろう。

どうして、私はいつも試合に勝っても楽しくないのだろうか。

どうして皆が私の勝利を喜んでくれないのだろうか。

石橋は哀しかった。

刀の分身が声かけた。

「剣豪は孤独な者よ。一人、雪野を行くがごとし。愛を求める心に背を向けて、信ず

るがままに道を行く。命ある限り、何のために、誰がために------。しかし、お前な

ら別の生き方が出来るかもしれない。その明るさと良い性格が孤高になることを防い

でくれるかもしれない。今は体と精神を鍛える修行の身なのだ。耐えよ、辛抱せよ、

嘆くな。これも試合だ。自分との試合なのだ------」



      続く

妖 剣   (四)



 高野山は三つの頂を持っている。紅葉はその三山の一つ楊柳山が一番美しい。

山頂部分のみ紅葉は見られるが、朝日に輝き、紅い葉を突き通して来る日光はまぶし

く、さらに美しさを増して見せてくれる。

菊川は、この楊柳山の山頂でいつも五分ほど休むことにしている。

修行を始めてから一週間過ぎていた。

やっと体が、この厳しい修行に馴じんで来たようである。二日、三日前が一番、体が

しんどかった。一時はこのまま続けられるかと危ぶんだが、きょうの状態なら何とか

耐えられそうだという希望が出てきた。

 毎朝三時に起き簡単な食事後、まだ真っ暗闇の中、懐中電灯を照らし、昔からの行

者道をひたすら歩いた。

修行の道は女人道や高野三山への道と一部分交差合流するが、金剛峯寺や奥の院を囲

むようにして存在する周囲の山々を一周する約十八キロ余りのコースである。

それを四時間ほどで歩く必要があった。朝の九時を過ぎると、ハイカーや地元の人と

顔を逢わせることになり菊川の異様な修行僧の姿が驚かせてしまうからである。

菊川は歩くだけでなく、峠、山頂、所々にある祠や碑に向かって教わった虚空蔵求聞

持法の経を唱える必要があった。

菊川には最初、経文がどのような意味があるのかよく解からなかったが、虚空蔵菩薩

を念じ、わずか二十九文字の「ノウボウ アキャシャ キャラバヤ オン アリキャ

 マリボリ ソワカ」(華鬘蓮華冠をかぶれる虚空蔵に帰命す)と経を唱えると不思議

に神経が休まり「俺は絶対あの波動剣を破ってみせる」という力がみなぎってくるの

を感じた。

師の熊谷和尚はこのお経は短いが宗祖弘法大師様が、まだ若く中国へ渡る前、山にこ

もり修行していた時、常に唱えた尊いお経が虚空蔵求聞持法である。そう言って唱え

方と作法を教えてくれた。

山行が終わると一時間くらいかけて二千回以上の竹刀の素振りをした。

終わると汗と泥まみれの作務衣を脱ぎ、体を水で洗い清めた。そして朝会に出るため

一旦、白の正装に着替える必要があった。

朝会の後は午後二時三十分まで僧になるための教育があり、その後、再び新しい紺色

の作務衣に着替え熊谷和尚から特に指示されたススキや笹竹などの草木に向かって木

刀をひたすら振った。

熊谷和尚は「波動剣に対抗するには、木刀で柔軟なススキや笹竹を切り裂くほどの力

とスピード、それに気が備わる必要がある」と、ひたすら体力、気力をつけるための

練習するよう言い渡した。

疲れ果てる頃、あたりは暗くなり、菊川は、もう観光客が誰も居ない奥の院に行き加

護と修行の成就を祈り一日がやっと終わる。



師の熊谷和尚を初めて会ったとき菊川は不思議な感動を覚えた。

茶色の作務衣を着ていたが、いかつい四角張った顔は、むかし箱根など街道が通る山

に出没したという映画や漫画に出てくる山賊のような顔つきであった。

特徴ある顔で一度会ったら忘れることが出来ない、どこにいても目立つ存在である。

五分刈りくらいの白髪混じりの頭から、もみあげ口の周り一面にヒゲが伸びていた。

年齢は六十歳を越えていると思われるが、身長は菊川より少し高く一メートル七十五

センチくらい、ガッチリした体つきで動きがキビキビと素早かった。

松田副管長は熊谷和尚に対する扱いは大変丁寧で言葉遣いも上司に対するかのような

態度であった。

熊谷和尚の高野山での役割、地位はどうやら別格のようである。熊谷和尚は松田副管

長に親しげな時候の挨拶をした後、隣にいる菊川に目をそそいだ。

菊川は松田副管長が、まだ尋ねてきた理由を熊谷和尚に告げていないのに熊谷和尚は

自分のすべてを見通しているのではと感じた。

熊谷和尚が先に静かに菊川に向かって言った。

「私は秘剣の金剛を教える機会を十数年待っていた。やっとその時が来てくれたよう

だ」

菊川は唖然とした。やはり、すべてを見通されたようだ。

松田副管長は菊川の姿を見て微笑みながら言った。

「熊谷和尚はこの仕事を四十年近くしている。初めて面会しただけで、その人の置か

れている状態、どのようなことを言ってくるか分かるのです。俗界でも、その道のプ

ロフェッショナルの人には、例えば車や機械の優れた整備士は離れていても音を聞い

ただけで、その好不調、壊れているならばその場所もわかると言います。優れた画家

は赤の色彩だけで五十色区別できるという。音楽家も人並み以上に敏感に音を聞き分

けることができるといいます。彼ら加持祈祷のたずさわる者は高野吉野熊野の山に何年もこもることにより、自然の大地や動物植物の息吹を感じられるようになり、私たちと異なった皮膚感覚や感性のようなもので普通の人以上の敏感な能力を持つようになります」

熊谷和尚は、菊川の驚いている表情に無頓着に松田副管長に続いて菊川に話しかけ

てきた。

「金剛不壊の剣を修得する修行は大変だが、あなたなら基本ができているようだし、

体も頑丈そうだからやっていけるだろう」

菊川は直ちに、心から信頼できそうな良い師に会えた。この人にすべてをかけてみよ

うと思った。

「どんなに辛くても頑張ります。是非、その秘剣金剛を教えてください」菊川は熊谷

和尚に真剣な表情で言うとともに頭を下げた。

松田副管長はそれを見てうなずくと、こんどは厳しい表情になり菊川に言った。

「あなたには余り時間がない。直ちに午後、得度式を行い髪をそり仏門に入ることに

なる。ということは、あなたに僧侶になってもらうのだ。急なことなので私が仮の伝

戒阿闍梨を務め、導師は熊谷和尚にしてもらおう。よろしいか ?」

菊川は坊主頭になることは全く考えていなかったので少し戸惑いの表情を浮かべた。

熊谷和尚は、菊川が困惑しているのを見て言った。

「もちろん、僧侶になるのは高野山にいるときだけだ。山から降りれば、あなたには

警察官の仕事があるのはわかっている。だが山で修行するには山のしきたりに従わな

くてはならない。そのために坊主の格好をするのが何かと便利で良い。それに他の人

から奇異に見られることもない」

菊川は、これも止むを得ないと直ちに判断した「大変お手数をおかけいたします。よ

ろしくお願いいたします」と言いながらうなずいた。

松田副管長は菊川の覚悟した表情を微笑しながら確認すると続いて熊谷和尚に言った。

「どうだろう。あなたに異存なければ、菊川さんは宝智院で寝食してもらったらと思

うのだが。部屋もたくさんあり、炊事をやってくれる人も居るし洗濯機もある。何か

と便利だと思うのだが。それにあなたの別院からも近い」

「良い考えだと思う。別院は荒れはてているし、これから冬に向かっていくのに慣れ

ない人には寒さに耐えられないかもしれないからのう」

「すまない。別院は来年絶対、予算をかけて改修する。約束します」

松田副管長は少し苦笑いしながら熊谷和尚に言った。

菊川には宝智院の意味や、どんなところか全く見当がつかなかった。ただ、どんな環

境にいても耐え忍ぼうと決意を胸に秘めた。

松田副管長は菊川の緊張した表情に気がつき、にこやかに言った。

「宝智院は宗門の子弟を養成する学校のような道場です。80人くらいの人が一年間

厳しい共同生活をしながら、お経から仏門に必要な真言宗の教学、所作儀礼から書

道、茶道、華道などお坊さんとして必要な、あらゆる基礎知識を修得する所です。

あなたには仏門に入ることは、いかに大変なことかをが解るだけでなく、真言宗の

雰囲気を味わうためにも良い場所だと思う。また、これから全国に散らばって行く

宗門の知り合い友人を作る機会にもなるでしょう」

 

熊谷和尚も不安を和らげようと続けて言った。

「普通は別院で修行のために入いる者は真言宗の一通りの教学を終わっていなけれ

ばならない。その後、特別な教学を受け、行者修行に入るのだが、宗門について全

く知識のないあなたは両方を合わせて修得修行しなければならない。しかし、なに

しろ余り時間がないのだから速成で省略した修行方法をとり、今までのやり方と異

なった内容で進めなければならない。あなたはそれに耐えなければならない。しか

し止めるのは自由だ。いつでもやめてよい。それはあなた次第だ」




 入山してから二十日ほどたったある日のことである。

行者道の一周が終わり宝智院に戻り、水浴し汚れを落とすと白衣と上に黒衣の着替

えをした後、9時から始まる朝会に出た。

それは修行僧だけでなく、お寺の職員も含めて全員が集まる朝礼である。

全員で般若心経を一巻唱和した後、お寺のその日の予定行事だけでなく修行僧の師

匠達から、いろいろな説法を聞かしてくれた。

菊川は得度式の翌日、この集会で初めて全員に紹介された。

宝智院長より、ここに立っておられる方は高野山に伝わる外道を降伏(ごうぶく)す

るための秘剣を修得に来たと皆に伝えられると、座は一時、驚きの声とざわめきが

起きたが直ぐに静寂に収まった。

いつものように集会と教育が終わり再び作務衣に着替え、午後の日課、素振2千回

から始まる修行に取り掛かろうとした時であった。作務衣姿の熊谷和尚が木刀を持

ってなんの連絡もなく現れた。

「そろそろ壁にぶっかっている頃だと思ってやって来た」と静かに言った。

目は菊川をしっかり凝視していた。

「これ以上修行をやっても効果ないと疑いが生じてきたのではないのかな」と菊川

の心を見透かしたように問いかけた。

「はい。私なりに工夫して笹竹などに打ち込んでいるのですが、ススキの茎は木刀

で叩き折ることはできるようになりましたが、笹竹は打っても打っても竹はしなる

だけで、折ることも切断することも出来ません。ここ数日、これは不可能だと思い

始めています」

菊川は、はっきりとした口調で熊谷和尚に言った。

熊谷和尚はうなずきながら菊川の手を見た。

長年の剣道の練習で出来た手の平の竹刀だこ、その長年鍛えられた厚い皮が破れ血

がにじんでいた。たいへん努力していると感じることができた。

「今日はな、金剛の剣をあなたに見せてやろう」

菊川は「本当ですか」と思わず声をあげた。

「これから見せようとする剣は教えても修得できる人は十人に一人しかいない。そ

れほど困難な技だ。したがって昔から、この剣の修行は無駄に時を過ごさせてはい

けない、素直に奥義を伝え修行させよ。密教の加行の修法を勉強する場合、師匠よ

り直々に作法を教えられる。それと同様に金剛の剣は詳しく直接に伝授せよとなっ

ている。奥義を伝えても、できない者はできない。もし無理とわかれば直ちに教え

を諦めよ。金剛の剣は時をかけて修得する剣ではなく、人の持って生まれた能力に

負うからであると伝えられている」

熊谷和尚は菊川の心の中すべてを見通すかのように目を凝視して話していた。

菊川も緊張した表情で和尚の話しを、すべて記憶しようと和尚の目を見つめた。

「私が他の人に、この秘剣を教えるのは初めてである。現在別院の中で私と同じ役割

の者が三人いるが、残念ながら剣に熟達した者は私以外にいないのだ。私はひそかに

この剣を引継ぐ者が出てくるのを長らく待っていた。私はあなたが習いたいと言って

きたとき大変うれしかった。私には、もうこれから、おそらく二度と教える機会は無

いであろう。したがって約束してもらいたい。修得したら、それが十年後二十年後に

なるかもしれないが今度はわれわれ宗門の中に適任者がでてきたら、その誰かに引き

継いで頂きたいのです。一千年以上にわたり私たちは、時には適任者がいないと宗門

以外の人に伝授し、また宗門にふさわしい者が現れるとその人より引継ぎ秘剣を守っ

てきた。例えば今回のあなたのように魔剣に対抗するために、どうしても秘剣を習い

たいと過去に何度か高野山へ尋ねて来た者がある。その場合、その人が剣にすぐれ、

正道の者ならば我々宗門は何のこだわりなく伝授してきた。

また宗門に引き継ぐ適任者がおらず、山の外にも秘剣を修得した者がいない場合、秘

剣を守るため、止むを得ず高野山から山を下り適任者を捜し求め伝授してきた。しか

し、いずれにしても、それは宗門に引き継ぎ返すという義務があることを知っていた

だきたいのです。そのようにして守ってきた剣です」

菊川は大変な責任を負うことになるなと思ったが、即座に「わかりました」と答えた。

熊谷和尚は菊川の返事にうなずくと、さらに驚くべきことを言い出した。

「われわれは過去に、いろいろな宗門以外の人に教えてきたと言ったが、高名な人と

して古くは源頼光が大江山の鬼退治で有名な酒呑童子を成敗した時や妖怪の土蜘蛛を

切った方法は、この秘剣があったからこそ出来たのだ。岩見重太郎、柳生兵庫助など、明治に入ってからの榊原鍵吉の兜切りもこの剣である。皆、妖怪やもののけ、魔物みたいな存在を倒すために必要にかられ高野山にやって来て修得し山を降りた」

菊川は剣豪者の時代小説などをよく読んでいたので、その名前を聞き胸が高鳴って来

るととも、高野山を選んだ自分の判断に過ちはなかったと、ますます確信をもってき

た。

唯、危惧はひとつ。この私がそのような有名な剣豪らと同じように修行し修得できる

かどうかという不安であった。 しかし剣道は子供の頃から二十年近く練習し、うち

込んできた。もう戻ることは出来ない、全力を注ぎ努力し、その結果修得できなくて

も、それも剣の道なのだ、自らの運命なのだ、ただ前進するのみだと自らを奮い立た

せた。


熊谷和尚は菊川から五メートル離れると静かに言った。

「まず不動剣をお見せしょう。あなたは私の剣の腕がどの程度あるのか知りたいと思

っている。それならば立ち合ってみることが一番わかりやすい。これから私とあなた

で試合をしてみましょう」

菊川は熊谷和尚のスキがなくキビキビと動く立ち居振る舞いをみて剣の道では相当の

使い手ではないかと考えていた。そして一度はその実力を見たいと心の片隅ではあっ

た。それをズバリと言われたので、やはり悟られていたかと恥じらいの気持ちで顔を

少し赤らめた。

しかし熊谷和尚の強い意志感じ取り、逆にこの機会を逃してはと思い気を取り直し「

ありがとうございます。お願いいたします」と言いながら頭を下げた。

そして五メートルほどの距離をとると、左手に持っていた木刀を正眼に構えた。

しかし熊谷和尚すぐには、持っていた木刀を構えず木刀を右手から左手に持ち替えた。

「まず、不動剣はどういうものなのか私と立ち合いながら見せてやろう。金剛剣と異

なり、不動剣は剣道の技を充分に熟達した者でなくても宗門で十年以上修行し加持祈

祷をあるレベルに達したならば修得できる技である。したがって菊川さん、あなたに

は今のところ、不動剣は、どう修行しても修得できないことを知ってもらいたい。逆

にあなたが修得しようとしている金剛剣は筋力、気による剣である。剣に対する能力

と人並み以上の力と真言の力を合わせることによって到達できる技である。昔から不

動剣は防御型、金剛剣は攻撃型と伝えられている。現在、私と同様に別院に属する三

人は不動剣の技を持つことはできたが金剛剣は残念ながら剣に対する能力に欠けてい

るため修得できないでいる」

熊谷和尚はそこまで言うと、菊川を正面にしたまま静かに後ろにさがり間合いさらに

大きく開けた。

お互いの間隔が十メートル離れると熊谷和尚は菊川を凝視しながら左手に木刀の柄頭

を持ち下げていた腕をそのまま無造作に二十五度ほど上げた。そして右手も空手のま

ま右二十五度ほど上げた。丁度、両手を「ハ」の字型に広げたようにして構えた。

菊川はその時、何か声が聞こえてきたような感じがした。

熊谷和尚は何かささやいているように思えた。いや、何かお経を唱えているように思

えた。

同時に、菊川は体が温かくなってくるのを感じた。最初、それは西日の強い夕日を受

け気温が上がってきた為だと菊川は思った。

突然、最初は薄目のように見えた熊谷和尚の目は急に「カッ」と開き木刀を両手で握

りゆっくりと右八双の構えをとった。

今度は誰もがはっきりと理解できるほどの声で経文を唱えた。

「――――大日大聖不動明王、怨敵退散かんまんぼろん 悪魔降伏かんまんぼろん 

心願成就かんまんぼろん 悪難消滅かんまんぼろんーーーーー」

静かにこだまのように響いてくるその声と、経文を唱えて剣を構える対戦相手に、初

体の菊川はぼう然となり心は揺らいだ。

熊谷和尚の体の回りの大気が乱れ、湯気のようなものが上がっているのが見えてきた。

しだいに温かいどころか熱風が吹き付けてくるのがわかった。

菊川は不動剣というものをとっさに理解した。これは仏法やお寺を守護したり仏敵を

威嚇する姿勢の、よくお寺の山門に見る、あの仁王像そのものの姿だとさとった。熊

谷和尚の体の外形も熱の霞のような噴気で異様に大きくなって見えてきた。

菊川は、そこに居るのは人間ではないと感じてきた。

菊川はそれでも打ち込んでみようと思った。二度と見ることも試合することも出来な

いかもしれない折角の機会である。不動剣の太刀筋を見てみたいという思いだった。

八双の構えは体の右側に木刀を立てるように構えるため正面が大きく空いている。

そこで菊川は無理やり突きを入れてみようとした。多分、突きを入れても簡単に振り

払われるだろうと感じたが、どのような技なのか知りたいという願望のほうが勝って

いた。

そこで一太刀あびせようと意識を集中させ、ジリジリと間合いを狭めた。

熱で体から汗が吹き出してきたが気にはならなかった。菊川は四メートルほど近づく

と飛び込むように最初は左側に少し木刀を上げ面を狙い打つかのように変化させたあ

と、そのまま熊谷和尚の喉に切っ先を向け「突きー」と叫びながら全身で突っ込んで

いった。

菊川は突き進んでいる途中、燃え盛る炎の中に入って行くような感覚を覚えたが同時

に熊谷和尚の木刀が右から振り落とされるのが見えた。菊川は直ちに最後まで突きを

継続すると打ち込まれる危険を感じ、菊川の木刀を熊谷和尚からの打ち込みに備える

ため左顔面横に移動させながら体を沈めた。

同時に鋭い打撃を菊川の木刀に感じた。熊谷和尚の右からの菊川への面打ちはそれで

防ぐことが出来た。しかし菊川は驚き思わず「ウアー」と悲鳴のような声をあげた。

燃え盛る火の枝を持っているかのように木刀が熱いのである。

菊川は二.三メートル飛び下がるようにして後退しながら木刀を手放した。

菊川は驚きの表情のまま「負けました」と言いながら熊谷和尚に心から敬服したとい

う態度で率直に頭を下げた。

熊谷和尚はさらに十秒ほどお経のような呪文のような菊川には全く理解できなかった

が、つぶやきながら木刀を下げ左手に持った。

そして菊川に目で合図して木刀を拾うようにと促した。

周辺の熱は急速に薄れていくのを菊川は感じた。

熊谷和尚は深呼吸を数回して呼吸を整え菊川に語りかけた。

「不動剣をあなたはこれで理解できはずです。この剣の真髄は不動明王のお力を借り

相手を威圧し、もし攻撃をしてくるならば火炎のような剣で防ぎます。それに当たれ

ば、もし相手が妖怪変化のたぐいであったとすると、時には焼けど程度ではおさまら

ず炎に包まれ焼け死ぬことになります」

菊川はのどがカラカラに渇き「今まで見たことも聞いたこともない恐ろしい剣ですね」と言うのがやっとであった。

熊谷和尚の心の中は逆に喜びあふれていた。菊川の剣は鋭かった。一瞬遅れていたら、のどに菊川の切っ先がきていただろう。また身をかわしながら振り落とした面打ちを菊川は防ぐことができた。体の動きは俊敏で、今まで自分と対峙した者の中でも一番優れているのではと思った。もし不動剣で応じなかったら二段三段と攻撃を続けられ一本取られるだろうと思った。

通常の剣道の試合であったら菊川の腕が勝っている。

これならばきっと金剛剣を修得してくれるだろうと熊谷和尚は確信を持つことができ

た。

しかし熊谷和尚はその心の中を菊川には見せなかった。

ぶっきらぼうな無表情さで菊川に言った。

「さあ、次にあなたの目的の金剛剣を見せよう。そこにある笹竹を切るところを見せ

る。良く見て理解してくれたまえ」

熊谷和尚は菊川から五メートルほど離れ移動し、そして横に向き笹竹が生えている草

原を正面に見すえた。左手に木刀を握ったまま両手を少しハの字型に広げた。

熊谷和尚は二十秒から三十秒ほどそのままの格好でいた。菊川には、まるで何かを待

っているかのようにも思えた。

熊谷和尚は呼吸を整え意識を一つに集中していたのである。

空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。

突然少し離れた木の上から鳥のカケスの鳴き声がした。

「ギヤァ・ギヤァ・ギヤァ」としわがれた鳴き声に、熊谷和尚は、うながされたかの

ごとく突然すばやい動きで前進した。

木刀は右横下段に変化した。菊川にはその姿は体が先に前へどんどん進み、木刀はそ

の後についていくかのように見えた。

熊谷和尚は十メートルほど走るように進み笹竹の藪の前に来ると立ち止まり、腹の底

から沸きあがるような大きな声を出した。

「トオーッ」と叫ぶと同時に右後方下段にあった木刀を振り上げ、そのままの勢いで

斜め横に振り下ろした。

菊川は確かに見た。笹竹の藪が五メートル程切られ上部が飛び散ったのを見た。

「できるのだ」と菊川はつぶやいた。

世の中には、すごい剣が存在するのだと思った。

瞬間、この金剛剣ならば波動剣の破壊力を止めることができる。この鋭さとパワーな

ら充分に対向できると思った。

同時に、自分も練習すれば必ず修得できると確信がわいてきた。

熊谷和尚は振り落とした後の体が少し沈んだ格好で、久方ぶりの金剛剣の切れ味を確

認しながら呼吸を整えた。そして切れ散った笹竹の一つを取り上げ菊川の方を振り向

いた。

菊川は感動した表情を浮かべていた。

熊谷和尚は近づき、その切れ端の笹竹を菊川に渡し静かに諭すように言った。

「この笹竹の切れ端は見るとわかると思うが、日本刀の真剣の鋭い刃で切ったような

切り口になっている。木刀でも竹刀でもこのような切断面が出来る。あなたにはこれ

で理解できたか、大きなヒントをつかんだと思うが、金剛剣の真髄は力を剣のある一

点に集中することだ。打撃が加わるある一点に真言の加護を信じ、気、力を集中させ

ることによって爆発的にパワーが生じるのだ。心と体、腕、刀が一体となり打ち込む

ことによって金剛の剣は成すことができるのだ」

熊谷和尚は、この時点で菊川は何か強いものを悟ったようだなと感じとった。

よし、これでこの男は必ず金剛剣を修得できると確信をもった。




 石橋はこの時、一人で山を登っていた。

ところどころ道が判別できないほど紅葉の落ち葉に覆われている部分もあったが、く

ぼみ具合や、あちらこちらの誰かが付けてくれた木の枝に付いた赤いテープのマーク

を見て道の位置を判断しながら、ひたすら頂上へ目ざした。

三日前、急に刀の分身から指示がきた。

「ハッキョウガタケに登れ」と言われ、一つ返事で深く考えずに「はい」と答えた。

変な名前の山だと思ったが、それも波動剣の極意に近づくための修行の一環だと考え

たからである。

当然、刀の分身が場所、行き方などを指示してくれると思っていたら「わしゃ知らね

ぇ」と突き放された。

よく聞いてみると刀の分身も行ったことがないとわかった。刀の分身が若く剣の修行

していた時、師匠から、昔からの言い伝えがあり八つの星がある位置に達した時、是

非ハッキョウガタケに登れよと言われたそうである。

数百年に一度、三つの大きな星が真上に達し、それを頂点に下方で五星が正五角形に

なる瞬間に何かが起こると言う。

詳しくは師匠もわからないが天界より偉大な力を授かるという言い伝えを教えられた

そうだ。

最近の星を眺めていると、そのような形になる時に始まると教えられた前段階を形作

り動いている。

あと数日で、その瞬間が来そうだ。刀の分身はそう言ったのである。

翌日、石橋は山行部の友人に聞いた。直ぐにそれは「八経ガ岳」で標高千八百メート

ルくらいの近畿地方で一番高い山と言われた。

そこで部活の部屋にあるガイドブックを、その友人から貸してもらい山に登る方法を

調べるとともに、学校のインターネットでさらに山について検索した。

八経ガ岳は吉野から熊野に連なる山の一つで、昔、役の行者が八つの尊いお経を山頂

に納めたという。その由来から八経ガ岳という山の名前がつけられた。

奇妙に八つの星といい、お経の八の数字がからんでいた。

石橋もますます、どんなことをしてでも登らなければならないと確信を持ってきた。

八つの星が頂点に達するという日の早朝、石橋は母に置手紙をすると衣類などを入れ

たハイキング用のザックと、いつも素振りに使う木刀、それに師の刀の精が宿る日本

刀が入った竹刀袋を背負い自転車で始発電車に乗るため和歌山市駅に向かった。

母への手紙には、剣道の、どうしても必要な練習のため二日間だけ学校を休み吉野の

山に入ります。危険は絶対無いし山に着いたら電話を必ずするので心配しないで欲し

い。ご迷惑でしょうが学校には風邪をひいたので休みますと母から連絡して欲しい。

急に何の事前連絡なくして決行したことを許して下さいと記した。

石橋の母は朝、娘が居ないことに驚いたが、今回は許してやろうと思った。

水谷親子から娘の剣道の力量が並外れていると聞かされていたし、さらに強くなるた

めに一層の努力しょうとしているのだと思ったからである。


 夜中、石橋は起き上がり弥山頂上近くの山小屋をそっと抜け出した。

夕方登った八経ガ岳に、深夜、もう一度登るためである。懐中電灯を照らしながら

25分ほどで頂上に着いた。 誰も居なかった。

石橋は防寒服の下、両腕、両足、背中、お腹と携帯カイロ六個セットして寒さを耐え

忍ぶことにした。それでもさらに寒くなれば、さらに数個、体の寒い場所に付けよう

と思った。

竹刀袋からは刀を取り出し傍に置いた。

寒かった。

防寒服についている風防を取り出し頭を覆ったが、寒さに耐え切れずさらにタオルを

頭と首の周りに巻きつけ目だけが出ているようにした。

山の上から見る星の数は石橋にとって初体験であった。あまりにもたくさんの星の数

に圧倒されたが、刀の精から教えられた赤帝、白帝、青帝の星は大きく天頂中心近く

に赤く、白く、青く輝いているので分かったが他の五星は直ぐには区別できなかった。

木火土金水の五行を代表し森羅万象を支配する五星の位置を教えてもらったが、高い

山に登って、こんなに星が多いと、どれがどの星か区別できなかった。

刀の精に「間違っていたら注意して」と言いながら、教えられた手順で自ら探してみ

ようと思った。

磁石を取り出し真北の方向を確認すると、まず刀の精が天帝の星と呼んだ北極星を探

した。三十五度の角度を見上げると、大きさから多分この星だと思われた。

一応、ひしゃくの形をした北斗七星を探し北極星の位置が当たっているか確認しよう

とした。北斗七星のひしゃくの先端の二つの星を追ってみた。そしてそこから五倍の

位置にあるのが北極星である。一致した。

石橋は直ちに、その星の位置を山頂にいる自分の位置から五メートルほど先のとがっ

た岩に結びつけ記憶した。木火土金水の五行を代表する五星の基準星は北極星の下側、角度約二十度の所にあり、そこから時計回りで十二分間隔で他の四星があることになる。

時間がまだ少し早いのだろうか、少しずれがあった。しかし多分この星だという目安

はついた。石橋は十二分間隔の位置を北極星と同じように近くの岩や木に結びつけ記

憶し、直ちに再び確認できるようにした。

 

星は地球が自転しているため北極星を中心に反時計回りで回転するように変化する。

あとどのくらいの時間で赤帝、白帝、青帝の星が天の頂点になり五星が正五角形にな

るのか刀の精も分からなかった。

 

時間が三十分、一時間と過ぎていった。

 

石橋は待ちくたびれ、朝早く起き、山に長時間かかって登ってきた疲れと眠気のため

腰をおろしウトウトと眠りはじめていた。

さらに三十分ほど過ぎたであろう。

突然「来た。来た、来た。起きろ」刀の精の声で石橋は目を開けた。

驚いた。石橋の周りが青く薄っすらと光に覆われていた。

石橋は立ち上がり真上の天空を仰ぎ見た。

赤帝、白帝、青帝の星が天頂に並び大きく輝いていた。さらにこの瞬間を記憶に留め

ておこうと石橋は五星を北から右へ確認していった。いずれも正五角形の位置に大き

く輝いていた。

 

徐々に光は増して行った。石橋は体が温かくなり軽くなってくるのを感じた。

 

石橋は突然叫んだ。

「体が浮いている。浮いている」地面を見ながら感激の声をあげた。

体全体が二十センチほど地面より浮き上がっているのだ。

刀の精も「ウアー」と驚きの声を出した。





 菊川が熊谷和尚より金剛の剣の真髄を見た日から十日ほどたった朝のことである。

和歌山市 から国道26号線を行くと孝子(きょうし)峠で大阪との県境になる。そこから低い山々を見ながら国道を少し下ると南海電鉄 の孝子駅 にでる。その手前から国道を離れ右に細い道をたどり田舎道を登ると逢帰(あいがえり)ダムに出る。

孝子の地は役の行者にからんだ伝説もあり、この地から札立山に始まる雲山峰、葛城

山、金剛山へと連なる山々は細い山道がいたるところにあり、昔から行者の修験道と

しても登られていた。

逢帰ダムは洪水防止と上水道用のために作られ、奥行き五百メートルほどの貯水池が

あり、周りは舗装はされていないが桜が植えられ車が通れる道路もできている。

山奥のため桜の開花は 和歌山市 街より一、二週間遅れて始まる。

ダムと貯水池は一般の人は歩いて自由に入れるが、車はダムの下方一キロメートルほ

どの所に簡単な鉄格子のゲートがありは入れないようになっている。しかし、時々工

事や作業のため開けられたままの日も多い。別にゲートには管理人がいないので開い

ている場合はとがめられず車でダムや貯水池に簡単に入れることができる。

 岸和田に住む桜本は、その日、車でやって来た。

会社の同僚が岩魚釣りの穴場を教えてやるからと一緒に行くことになっていたが、

急にその同僚は交代勤務の職場の一人がポカ休(無断欠席)したため、上司から呼び出

しを受け、休みの日なのに出勤せざるを得なくなった。

桜本は行くのを中止しようと思ったが、手書きの地図を書いてくれたので、それを見

ながらやって来たのである。

ゲートは、閉まっていたら、そこから歩かなくてはならないが、もし幸いに開いてい

たら、そのまま車を乗り入れてしまえと同僚に言われた。

そこから上はほとんど咎める人はいないし、帰りに、もしゲートが閉まっていたとし

ても、ゲートの直ぐ下に見える事務所みたいな建物に行くか、ゲートの看板に書いて

ある電話番号に携帯で電話すれば、誰かが来て開けてくれるだろう。その時は多少怒

られても、ゲートがあるのは全く気がつかず通り過ぎてしまったと、その場で少し謝

れば開けざるを得ないだろうから、そのままダムへ行ってしまえと、桜本は多少無

責任だと思ったが同僚は笑いながら、そのまま釣りのポイントなど話し続けたため、

それ以上のことは聞かなかった。

 

運良くゲートは開いていた。桜本は、しめたと思いながらゲートをスピード上げて通

過して行った。貯水池は渇水のためか五分目程度しかなく池底が露出している所もあ

った。

周りを見渡したが朝の十時を過ぎているのに人は誰も居なかった。

同僚がこの貯水池も穴場の一つだと言っていたが桜本は本当のような気がした。

周辺の山々は高くはないが、人気も無く静かで空は真っ青、良い天気である。絶好の

釣り日和である。

大阪から少し来ただけでこんな無人の地に来れるなんて不思議な感じもした。

桜本は、左岸側からも行けるが、コンクリートのダムの上を抜け周遊道路の右側から

貯水池の最深部へ行く道をとった。車が通ったわだちの跡は草は少ないが、それ以外

の所どころ草が少し高く茂っていた。しかし四輪駆動で車高がある車なので不安はま

ったくなかった。

目的の穴場の池は貯水池の最深部から、さらに山の奥へ続く飯盛山方向に向かって行

かなければならなかった。

そこからは貯水池の周遊道路と異なり道は細くなり石がゴロゴロしていたが、車で行

けないことはないと同僚は言っていた。

また、同僚は周遊道路からの入り口が少し広くなっているので自信がなかったら、そ

こに車を置き、歩いて前へ進んだほうが良いと忠告してくれていた。

だが桜本は、このくらいのデコボコ道なら運転可能だとして車で行けるところまで行

こうと考えた。

ガタガタとゆっくりと進んでいくと、やがて道は二つに分かれる。一つは真っ直ぐ札

立山への道、もう一つは飯盛山や目的の穴場の池に行く道で、左に折れ角度も急にな

るが道路は車で十分通行できる幅であった。

同僚はこの道は砂防工事か高圧線の維持管理用で作られたのでないかと言っていた。

桜本は急カーブのため二、三度でバックを繰り返してこの道に踏み入れた。

道路は大きな岩などが転がっていたが、桜本はまだ行けると判断した。

ところが五十メートルほど進み、次のカーブを曲がった時であった。桜本は目の前の

道の左側の山側が少し崩れ、道路の一部が塞がっているのに気がついた。

それでも桜本は車を止めようとしなかった。車運転には自信があったし同僚に奥まで

車で行ったということを自慢したかったからである。

崩れた岩でゴロゴロしているが崩れた部分を避け、右側にギリギリ寄れば十分通過可

能だと判断した。

谷もゆるい斜面で、この四輪駆動の車なら十分に走行が対処できると思えた。

少し車の左側が浮き右に傾いたが、そのまま右側により、ゆっくりと進んで行くと、

突然右側前輪のところで石の崩れる音がした。

桜本は、ハットしたと同時に車が右前側から下に下がっていくのを感じた。「しまっ

た」桜本は右の車輪が乗った岩が支えきれなかったと瞬間感じたが車の体制を戻そう

と一生懸命ハンドルをまわした。

幸い車は横転しなかったが谷側斜面をどんどんスピードをあげて下っていった。

桜本はブレーキを何度も強く踏んだが車は、止めることはできず、だんだん急になる

斜面を滑るように進んだ。目の前に大きな樹木が何度も迫り、その度にハンドルを切

り、かわそうとしたが二、三回、車の左右に衝突し、その度に進路が大きく変化した。

一度、前方に変な突起のある石碑のような物が見えたが、避け切れず「ゴーン」と大

きな鈍い音を立てながら突き倒し乗り越えた。さらに何度も木々と衝突しフロントガ

ラスや助手席のサイドガラスも割れたが、登って来た下の道路に前部が、最後に落ち

るようにして突っ込み止った。

桜本はドアを蹴り上げて開けると倒れこむようにして外に出た。シートベルトしてお

いてよかったと思った。どこか怪我をしていないかと自分の体中を点検した。幸い問

題ないようだった。しかし車は廃車になるなと思った。

 

携帯電話を出してみた。アンテナが三本表示されていた。桜本はホッとした。これで

JAFを呼べると思った。


 桜本は今回の事故で大変なことをしてしまったのに気がつかなかった。この後JAF

が来て事故処理をしたときも誰も気がつかなかった。

車で突き飛ばした石碑のような物、それはある目的で置かれた封印の石であつた。




 翌日の朝、熊谷和尚は別院で朝の勤行をしていた。

うす暗い夜明け前の庭の木立の中を読経は静かに流れていった。

突然、不動明王の前にある一番大きな蝋燭が揺らいだ。他の蝋燭も合わせるように揺

らいだ。別院の中の十坪ほどの堂内は外気から完全に遮断されているので風が入り込

むことはない。

熊谷和尚の隣で読経していた矢島和尚も気がついた。目で、私も気がついたと熊谷和

尚に合図を送った。しかし熊谷和尚はそのまま読経を続けた。

数分後、一番大きな蝋燭は強い風を受けたように、フッと消えてしまった。

矢島和尚は、少しろうばいしたが隣にいる熊谷和尚が、何事もなかったかのように読

経を続けているので、種火から再び蝋燭に火をつけた。

熊谷和尚はそれを見ながら読経を中断し、りんを静かに三度たたいた。

その音は「チーン、チーン、チーン」と明け方の別院の中に鳴り響いていった。

熊谷和尚は目を閉じ、数秒その音を追った。そして再び残りの読経を続けた。


 勤行が終わると熊谷和尚より十歳ほど若い矢島和尚は、待ってたかのように熊谷

和尚に尋ねた。

「何を感じられました---。私にも尋常ではない事が起きたと感じられましたが----。

ろうそくがゆらいだ時は、人に危害を与えるような、もののけ、妖魔などが発生した

と昔から言われていますが、蝋燭が消えたということは、それ以上のことが発生した

か、しつつあると思うのですが、私の考え間違っているのでしょうか ?」

熊谷和尚は、直ぐには答えず不動明王の像を、にらみつけていた。

矢島和尚は熊谷和尚の顔つきで、やはり大変な事態が起きたと悟った。

熊谷和尚はぶっきらぼうに、はきすてるように言った。

「狼皇子が復活したようだ」

その言葉で矢島和尚の顔色が変わった。

「ウワー。宗祖弘法大師様が、かろうじて傷を負いながらも洞窟に追いつめ封印した、その狼皇子が復活したと言うのですか。何故だ-----。大変なことになる-----」

矢島和尚は、もう絶望だというような声をあげた。

      

続く

妖 剣   (五)



 その頃、菊川は、いつものように修験道を走るように歩いていた。

菊川は今日は何かおかしい異常な雰囲気だと感じた。いつもより山全体が騒がしいの

である。鳥はまだ暗い夜なのに巣の中から、しきりに鳴き騒いでいた。キツネ、ウサ

ギ、鹿など、あわただしく走り回る姿も多く、菊川の姿を見ると不安そうに目を向け

直ぐに木々の中に消えて行った。

しかし、修行の身の菊川はそんな思いを断ち切ろうと徐々にスピードを上げた。

二十分、三十分と時間が経つにつれ体がほぐれ温まり、寒さも感じなくなってきた。

それにつれ、不安感も薄れ、修行に没頭していった。

摩尼山を登り始めたとき、菊川は昨日のことを思い出した。時間は六時半を過ぎてい

た。昨日はこの段階で、誰かが山頂付近にいると感じたのである。

菊川は行者道をまわる修行を繰り返しているうちに、これから行く先に誰か人が居る

と、見えない離れた距離からも不思議にその気配を感じられるようになっていた。

菊川は最初、予想とおり人と遭遇すると偶然と思っていたが、ほとんど当たるように

なってくると不思議な能力を持つようになったと自分でも感心するようになった。し

かし最近は、人の気配を感じると、相手を驚かさないようにと菊川は、少し間をあけ

て相手に会うことを避けるようにしていた。

昨日も、誰かが先の方向に居ると感じたので途中の祠で少し多く虚空蔵求聞持法を唱

えていると、急に人の気配を感じなくなった。それで菊川は、もう人は去ったと思い

頂上に急いだ。

ところが山頂の如意輪観音の祠に誰か人が立っていたのである。女性であった。

菊川は、ここまで来てしまって人が居るからと、見ている前で引き返したり変な動き

をすると、かえって不信感や怪しみを持たれるので無表情でそのまま祠に向かった。

しかし十メートルほど近づいた所で思わず驚きの声を上げた。

「加代さん。水谷加代子さんではないですか ?」

菊川は、自分が行者姿であることも忘れ声をかけた。

結婚を約束していた水谷加代子が、立ったまま祠の前で手を合わせ歩んでくる菊川の

姿を眺めていた。

女性は、しばらく確かめるように菊川の姿を上から下まで見ていたが、直ぐに顔を紅

潮させ笑顔で答えた。

「ごめんなさい。菊川さん。あまりにも格好が変わってしまったので直ぐに判断でき

なかったのです。実はどうしてもあなたに会いたくて、ここに来てしまったのです」

菊川は、水谷加代子本人と分かると、修行中であることなど忘れ駆け寄った。

「加代さん。心配かけてすみません。連絡したかったけれども自分の心を無理やり抑

えていました。あなたに連絡しようと思えば、できたのにしなかった私を許してくだ

さい。本当に私は、あなたを苦しめてしまったようだ。加代さん申し訳ございません」

水谷加代子もその言葉を聞くと飛び込むようにして走りより菊川の胸にすがりついた。

「私がいけなかったのです。結婚は私自身の問題で私が決めるべきだったのです。あ

なたと結婚するためなら私は全てを捨てでもあなたと一緒にならなければいけなかっ

たのです。しなくても良い剣道の試合をさせて、迷って決断しなかった私が悪いので

す。あなたが高野山に行ってしまってから、あなたのことがいつも頭からはなれず、

私は、もうそのことで気が狂いそうです」

菊川は再びしっかりと抱き寄せながら水谷の顔を見た。

「私はあなたにたいへん悪いことをしてしまったようだ。私も修行中、ふと何もかも

忘れ、山を下りあなたの所に飛んで行きたいと衝動にかられます。しかし私は警察の

上司や高野山のお寺の方々に大変な迷惑をかけてこの山に来たのです。今、やめて直

ぐに帰ることは出来ません。それに私はこの高野山に来て、ますます剣に魅入られて

しまったのです。私にとって、剣の勝ち負けは、もうどうでも良い過去のことです。

普通の人が見ることのできない、いや、見てはいけなかった剣の一番奥にある、それ

もまだ、ほんの一部分かも知しれないものを見てしまったのです。波動剣や高野山の

剣を見てしまい、ますます、その剣に魅入られてしまったのです。私はあと少しでそ

の最高の剣の一つに到達できるところまで来ています。もう少し待ってほしいのです」

「もう剣なんかどうでも良いのです。忘れましょう。私と今すぐ山を下りましょう」

加代子は涙を流したまま顔を上げ首を振りながら真剣な表情で菊川に訴えた。

「それは----できない。申し訳ないがもう少し待って欲しいのです。あなたが今祈っ

ていた祠は如意輪観音様です」菊川は直ぐ側の祠を見ながら言った。

「私は毎日、この摩尼山に登ると必ず祠の前に立ち如意輪観音様に祈っているのです。剣の成就とあなたの幸せと、山を下りたら結婚ができますようにと願かけているのです」

加代子は、この菊川の言葉に「はっと」するものが心の中に沸いてきた。そして菊川

の体を少し手で揺さぶるようにして言った。

「もしかすると、私たちがこのように会えたのは、この如意輪観音様のお導きかもし

れません」

菊川は加代子のこの言葉に少し驚き「何故ですか」と尋ねた。

「私は昨日高野山に来ました。親戚の人が、ある宿坊で働いているので、そこへ泊ま

ったのです。私は高野山のことは余り知らないので、その知人にいろいろと聞いたの

です。山で剣の修行している人に会いたいのですが、どこへ行けば見ることはできま

すかと尋ねたのです。知人は高野山は仏の教えについて修行する所であって剣の修行

するところではないし聞いたことも見たこともないと言うのです。私はそんなことは

ない。絶対にそのような人達がいると強く言うので、その知人はしばらく考えていた

のですが、子供の頃、親から聞いた話しだが、親が若かった頃、たまたま朝早く料理

に使う野草を採取するため摩尼山に登っていたら、山頂で天狗のように走って来て祠

でお経をあげると、また天狗のように山を駆け下りて行った行者さんのような格好の

人を見たそうです。木刀を持っていて、下りしなに、おどかしてすまないと言って飛

び降りるように去って行き大変びっくりしたと親が話してくれた。もしかするとその

方が、あなたの言う剣の修行者と関係があり、私たちの知らない山のどこかに剣の修

行する場所があるのかもしれないと、教えてくれたのです。そのことを聞いて、私も、もしかすると合えるかと、朝早く摩尼山に登って祠の前で誰かが来るのを待っていたのです。そして祠を見ているうちに自然に助けていただこうという気持が沸いてきたのです。一生懸命にお祈りをして、菊川さん、あなたに会えることを祈っていたのです。ここで会えたのは、この摩尼山の観音様のおかげです。それしかありません」

菊川も如意輪観音様に見守られ、加代子さんに合わさせてくれたのだと、ますます確

信持ってきた。

「きっと、あなたと私の祈りが観音様に通じたのでしょう」と菊川は加代子に小さい

声で言った。

それは少し感動したような声であった。

加代子の今まで高ぶっていた気分は、これで大きく静まってきた。

お互いに愛し合っていることが再確認でき、もう少し待てば二人は一緒になれるとい

う希望と自信を強く持つことが出来たからである。


その後、菊川は加代子を宿泊している宿坊まで送っていった。加代子はその日の午後

山を下りて行った。




菊川は送った後、再び摩尼山に戻り修行を続行した。

しかし、今日の摩尼山は、やはりどこか異なった雰囲気を感じた。菊川はあたりを見

渡したが、何故なのかわからなかった。ただ、これから行く転軸山の方向上空に、濃

い灰色の雲が多くかかっているのが見えた。かすかに遠雷のような音も聞こえてきた。

転軸山に近づくにつれて霧が濃くなり、朝、宝智院を出てきた時は星が良く見え、今

日は晴天だと思っていたのが、転軸山の手前にある楊柳山を過ぎる頃から暗くなり視

界が悪くなってきた。

菊川は転軸山の山頂に何か大きな物が居るという意識が沸いてきた。しかし、それは

人ではないような今までと異なった感覚であった。菊川は何がそこにあるのか興味を

持ち足を速め頂上に向かった。

視界が悪くても毎日通っている山道である。浮石など避けた安全な、いつも足で踏む

岩や木株など自然に決まっておりスピードをあげ迷うことなく突き進んだ。山頂に近

づくにつれ風が強く吹き降ろしてきた。

転軸山は山頂に弥勒菩薩の祠があるがスギ、ヒノキに覆われ、頂上への視界は全くない。

菊川は山頂付近に大きな黒い雲のような物体がブーンと熊蜂のような音を絶えず発し

ながら回転しているのを見つけた。巨人のような体つきで渦を巻きながら動いていた。

周りの数十本の二十メートル以上ある杉の木が倒され弥勒菩薩の祠は完全に破壊され

ていた。時々、巨大な物体は「ウオーン」と叫び声のような音を発すると雲のような

上部は時々湧き上がるように三、四本に分裂した。そして黒雲の腕のように伸ばし回

転しながら周囲に振り落とされた。

その黒いかたまりが強い風を出しながら木々に叩きつけられると、その度に大きな大

木は揺れ動き遂には折れたり根ごと引き抜かれ倒された。大変な力を持っている。

山の頂上の情景は一変していた。今まで木々に覆われ空はほとんど見えなかったのに

ポッカリと穴が開いたように上空が見え灰色の雲が渦を巻いていた。

この黒い雲のような物体は明らかに意思がある生き物のようである。菊川は恐ろしさ

も忘れ呆然と見ていたが、直ぐにその物体が菊川の姿に気がついたと悟った。

次第に音を高めこちらに向かってくるように見えた。

菊川は自分でも不思議なほど落ち着いていた。逃げることは全く考えなかった。

表情は、いつもと変わらなかったが目はしっかりと前方の物体を見ながら携行してい

る木刀を右手に持ち替えた。そして自然に構えは金剛剣となった。いまだ金剛剣は未

完成だが、このような大きな魔物のような物体に普通の剣道の技は通じないと思えた

からである。

静かに両手を前方正面にハの字型にあげた。熊谷和尚は左手に木刀を持っていたが、

菊川は右手に掲げた。そのままの格好で虚空蔵菩薩を念じながら虚空蔵求聞持法の経

を心の中で唱えた。

巨大な物体はウオーン、ウオーンと叫ぶような音を立てて腕のような黒い雲を振りか

ざし近づいてきた。一本の杉の大木が菊川に向かって倒れて来たが菊川は静かに右に

移動して覆いかぶさるのを避けた。菊川の表情は全く変わらなかった。

菊川には相手の能力が大体予想できた。三十歳を過ぎた間の数百回に及ぶ剣道の試合、練習で戦わずして相手の立ち居振る舞いで、ある程度の実力を一瞥しただけで評価できた。この大きな魔物の力は確かに並外れているが、動きが大変緩慢であった。進んでくるスピードもゆっくりである。これならば雲の腕のような手を伸ばしてきても楽に避けることが出来ると思えた。さらに伸びた腕元を叩くか、三、四本の腕が伸びた胴体の中心部が魔物の急所で、そこを一気に突けば倒せるのではないかと確信を持った。

魔物は菊川に近づくにつれ移動がゆっくりとなった。

数回、魔物の腕が菊川の二メートルほどの距離をかすめていったが菊川は動じなかっ

た。

ますます気力を集中させていった。

菊川は力が体全体だけでなく木刀にも力がみなぎるのを感じた。このような感覚は初

めてであった。

さらに魔物は脅すように声を高く上げ菊川の動きをさぐるように腕を数回振り、さら

に少しずつ間を狭めてきた。

菊川は、この段階で木刀を両手で握り、少しずつ体の左側を前にした半身の形になり

ながら木刀を下げすこし右後ろにずらした。金剛剣の構えは完全に出来上がった。

後は半身のまま前進し一刀のもとで突くか右肩から左に袈裟懸け(けさがけ)にみなぎ

ったパワーを一瞬に放出するだけである。

その完成した金剛剣の構えを見て魔物の動きは止まった。菊川は次に魔物が動いたら

攻撃しようと、さらに気を入れるとともに膝を少し曲げ体全体を沈めた。まさに飛び

掛ろうという姿勢である。

一分ほど、にらみ合いが続いた時であった。菊川は魔物の姿が薄れて行くように感じ

た。

魔物は、にらみ合った格好のまま後ろへ少しずつスピードを上げて引いていった。

三十メートルほど離れると輪郭がさらに崩れ、黒い雲はスッと消えていった。

それにつれて上空を覆っていた暗い雲も、見る見る間に変化し最後には雲散し日が差

して来た。

菊川は尚も構えを続けた。なぜか、まだ見られているという感覚がしたからである。

やがて鳥の声が聞こえてきた。

菊川はやっと構えを解き、木々が倒れ破壊された祠の無残な山頂の姿を、ゆっくりと

見渡した。この異常な出来事は直ちに別院へ行き報告しなければと思った。




 別院では熊谷和尚と、まれにしか現れない松田副管長が深刻な表情で話し合っていた。そこに菊川が滑りの悪い入口の引き戸を両手で少し持ち上げながら開け入ってきたのである。

菊川は松田副管長の存在に気がついたが、その顔つきで容易ならざる様子なので声を

掛けずに頭を少し下げ目礼し、側に近づかないで入口でたたずんだ。

二人の会話を中断させ、直ちに山で起きた出来事を報告したほうがよいのか迷ったの

である。

しかし、熊谷和尚は直ぐに声を掛けてきた。菊川が少し上気しているように見えたか

らである。

「今日は、あがって来るには少し早いのではないかな。どこか体の調子でも悪くなっ

たのか」と言ったが熊谷和尚は菊川に何か普通でないことがあったと悟った。

同時に、菊川は二人の会話の内容は分からないが、もしかすると関連するのではと思

いついた。

「実は転軸山に今まで見たこともない巨大な魔物のようなものが居たのです」と転軸

山での出来事を菊川は二人に出来る限り正確に話そうと自分の感じたことは触れず客

観的な事実と見たままの現象のみを話した。

松田副管長は時々驚きの声を上げた。しかし熊谷和尚はうなずき、菊川の話す内容を

全て聞き漏らさないようにと真剣な表情で聞き入った。

菊川の話が終わると熊谷和尚は、うなるように「不覚だった」と言った。顔は少し青

ざめていた。

菊川と松田副管長は熊谷和尚の不覚という言葉に、お互い見つめあい何故かという表

情で熊谷和尚の顔を見た。熊谷和尚は無言のまま考え込んでいた。

そこへ矢島和尚が裏口から駆け込むようにして入ってきた。矢島和尚は東北の山形に

妖怪のようなものがおり、人に取り付いるようだいうことで派遣されている同僚の塩

野谷和尚に至急戻るよう電話するため宗務所に行っていた。

入るなり興奮した口調で話しかけた。

「皆さん聞いています ? 奥の院、御廟の灯籠堂の明かりが全て消えてしまった。

一千年来燃え続けていた白河燈や貧女の一燈は、もちろん万灯籠まで全ての明かりが

消えてしまった。四十分ほどで再び点灯したが宗務所は、それで大騒ぎになっている。原因は今のところ全く解らないらしい」

松田副管長は少しほっとした表情で「その明かりが全て消えたのは尋常でないと思い

私はここへ来たのだが、明かりが再び点いたのか---。それで少しは安心した-----。

でも何故起き、どうして再び点灯したのだろうか」と熊谷和尚を見ながら首を傾げた。

「菊川さんの話で少し解ってきた」と熊谷和尚が三人を見渡しながら言った。しかし

表情は深刻なままであった。

「明かりが再び点灯したというのは菊川さん、あなたがその魔物を退散させたからだ

と思う。私が不覚だったと言ったのは、その魔物の正体は狼皇子だと思うからだ。

私は、狼皇子がこんなに早く襲ってくるとは思いもつかなかった。我々は本丸に直接、奇襲攻撃を受けたのだ。転軸山は御廟の直ぐ上にある山だ。そこから狼皇子が大師さまの入定した御廟めがけて一気に攻撃を開始してきたのだ。菊川さんが、たまたま遭遇し退散させたから助かったが、そのまま気がつかないでいたら大変なことになっていた」

矢島和尚の顔つきも、こわばり顔面蒼白になった。

松田副管長も「高野山の歴史で一番の危機が来たようだ」とつぶやいた。

しかし菊川は理解できないでいた。そこで思い切って皆に向かって聞いてみた。

「狼皇子とは何者ですか。何か、いわれや事情があるようですが大まかでよいですか

ら教えてください」と三人に向かって言った。

松田副管長は熊谷和尚の顔を見たが腕を組み考え込んでいるので、代わりにその質問

に答えることにした。

「狼皇子を宗門の中で知っている人は少ないと思う。そもそも教えていない秘めた言

い伝えだからだ。また、たとえ教えられても今の時代では真否不明の伝説のようなも

のに聞こえるだろう。

それは桓武天皇が奈良から京都に都を移した千二百年前の時代にさかのぼった事件だ

からだ。当時は都を移したばかりで混迷した大変な時代で、天皇家は天智・持統天皇

系と天武天皇系の大きな二つの系列があり、名門貴族の藤原氏は南家、北家、式家、

京家と四家に分かれ一門同士で互いに勢力争いをしていた。また奈良の平城京に再び

都を戻したいという勢力もあり互いの権謀術数で混乱の極にあった。直接の事件は伊

予親王の謀反の嫌疑であった。伊予親王は桓武天皇の皇妃藤原吉子の子で第三皇子で

あったが、桓武天皇と皇妃吉子の間には実際はもう一人いたのだ。2番目に生まれたので乙二皇子として仮の名前がつけられたが、しかし生まれてきた姿の余りにも異様な姿に皆驚いた。

それは顔以外全身茶褐色の毛に覆われていたのである。うわさはすぐに広まり、狼の

怨霊が原因ではと藤原吉子の南家以外の藤原一門がこれ幸いと、特に式家が噂し騒い

だ。前年、桓武天皇は宮中にいても夜な夜な東山の山々から狼の遠吠えが聞こえ、宮

中の女后や貴族たちがおそれ慄くため、狼退治をせざるをえなかった。奈良の都では

全く狼の遠吠えは聞こえなかった。ところが平安京の周りの山々は、京が開かれるま

で、ほとんど人が入っていなかったため狼が多かった。

特に宮中に近い比叡山からの東山一帯に多く生息し深夜、街の中に出てくる狼の群れ

もあった。そのため大々的に宮中の衛士なども競って参加させ狼退治を開始し多くの

狼を殺した。その殺された狼の恨み祟りで全身狼のような毛に覆われた子が生まれた

のであろうと噂し、怖ろしきことよ、平城京ではそのようなことはなかったと、ます

ます奈良に都を戻すべきだと守旧派は勢いづいてきた。桓武天皇と吉子はやむをえず

子は病気で死んだとして愛宕山の麓に住む宮中典薬寮の呪禁師(じゅごんし)として一

年前まで働いていた亜矢戸宇瑠珂(アヤト ウルカ)に密かに育てるよう依頼した。

異常な姿の幼児を普通の者では育てられないと思ったからである。呪禁師は呪文を唱

えて邪気を払い病気を治す職務である。普通は仏教か道教に通じた者から選ばれるが

亜矢戸宇瑠珂は神道と陰陽にも通じ病気を治し怨霊も封じたので、老齢だったが桓武

天皇が直々に頼み任官させた者であった。

吉子は子を哀れに思い年に何度も、弟の伊予親王を連れ愛宕権現にお参りするとして

秘かに亜矢戸宅を訪れ子の成長を見守った。弟の伊予親王は加冠の儀を終え成人扱い

となると宮中のいくつもの職務を歴任、能力、力量もあったので桓武天皇に信頼され

天皇の行幸、巡幸などにも常に共にした。しかし桓武天皇没後、皇后、藤原乙牟漏の

長男、安殿親王が平城天皇として即位し翌年、政治的陰謀にまきこまれた。

ある反逆の陰謀が明るみになり首謀者藤原宗成が捕らわれた。ところが罪を逃れるた

めと拷問に耐え切れず真の首謀者は伊予親王だと自白したため伊予親王と吉子の母子

は捕らわれ大和国川原寺に幽閉された。二人は身の潔白を主張したが、聞き入れられず無実を主張する母子は悲観し最後には毒を飲み自殺した。

伊予親王母子が死亡した日、誰も知られていないと思われた愛宕山の麓に住む亜矢戸

宇瑠珂の住家も襲撃され多少の抵抗もあつたようだが全員殺された。二十才になって

いた全身毛に覆われた子も、激しい抵抗をしたようだが衛士の弓隊が特別に派遣され

射殺、遺体も確認された。

ところが、どうやらその時に飼っていた狼に、その後、全身毛に覆われた子はのりう

ったらしいのだ。襲撃され瀕死の傷を負い倒れていたところに山から皇子に飼い犬の

ようにかわいがられていた狼が雌狼を連れて戻ってきた。

瀕死の傷を負った皇子の顔や傷の血をなめ悲しんでいたところで皇子の意識が少し戻

り育ての親、亜矢戸に習った陰陽の術でその狼に乗り移ったようだ。

その数日後、血だらけのままの格好で、平城天皇の夢の中に現れ、これからは母、弟

をおとしいれた者たちに復讐をすると脅したそうだ。

それ以来、皇子は狼皇子と呼ばれ恐れられるようになった。平城天皇は、その夜から伊予親王の怨霊と夜な夜な狼の遠吠えなどで脅す狼皇子に悩まされることになった。

宮中で死傷者も発生し様々な対策も取られたが防ぐことが出来なかった。

それが原因で、とうとう病気になり即位後わずか三年で弟の嵯峨天皇に譲位せざるを

得なくなった。

そこで嵯峨天皇は二人の無実を認めるとともに、唐から帰って、まだ数年しかたって

いなかったが宗祖弘法大師様に何とか鎮めるよう頼み込んだのだ。

宗祖弘法大師様は無実を証明すると約束し墓も建て無念の死を遂げた伊予親王母子の

霊は鎮めることはできたが狼皇子は簡単にはいかなかった。

最後には力と力の戦いとなり何とか倒すことができたが宗祖弘法大師様も傷ついた。

しかも、狼皇子を完全に殺すことはできなかった。一つには天皇家の血のつながりが

あること、さらに命を奪うことにより嵯峨天皇は新たな怨霊の発生する可能性を恐れ

た。そのため、ある山の洞窟に追い詰め、入り口を塞ぎ封印をしたそうだ。

その洞窟の場所は記録も一切明らかにされなかったが阪南のどこかの山中ではないか

といわれているが、全く不明である。

これが大体のあらましです」松田副管長は遠くを見るように目を薄めながら、あなた

には信じられないだろうという表情で菊川にうなずいた。

「別院の古い書付にも狼皇子は弘法大師さま最大の難敵であったと書いてある」と熊

谷和尚は付け加えた。そしてさらに重要なことを言った。

「弘法大師様が亡くなったのでなく入定したという理由の一つは狼皇子なのだ。大師

様は狼皇子の復活を恐れていた。いや、必ず復活すると確信していた。その時のため

に大師様は狼皇子が暴れ誰も抑えることができない事態になったならば人々を救うた

めに待機しておられるのだという別院の初期の時代に書かれた文章もある」

松田副管長もうなずき「そのような言い伝えがあることは私も聞いている」と言った。

菊川は自分の耳を疑った。

ということは弘法大師様は亡くなっていない。現在も生きているということになる。

菊川はその考えが正しいのか確かめるかのように三人の顔を見やった。

同時に熊谷、矢島和尚と松田副管長の三人は、ハットした表情をしてお互い顔を見合

わせた。

熊谷和尚は、今やっと全ての疑問が解けた。これで完全に納得できたと強い表情で菊

川に語りかけた。

「私は菊川さんが魔物を退散させたと言ったが誤りのようだ。御廟の灯籠堂の明かり

が消えたり点いたりしたのは狼皇子と御大師様が、かかわっていると考えるのが妥当

のようだ。明かりが再び点灯したのは菊川さんがその魔物を退散させたからだと最初

は思ったが、よくよく考えると消したのは狼皇子で再び点けたのは御大師様と判断し

たほうが正しいようだ。菊川さんの命を救うために、御大師様は依然存在し、この世

の中を見守っているのだと狼皇子が明かりを消すという行為に対し点灯し力を見せた

ためだ。狼皇子は直ちに御大師様がまだ生きていると悟り無謀に一人で立ち向かって

いった菊川さんには何もせず急いで立ち去って行ったのだ」

菊川は弘法大師様が助けてくれたかもしれないと言われ驚きながら転軸山山頂での出

来事を思い返した。そういえば金剛剣の構えていた時、ほんの一瞬であったが光が差

し、辺りが良く見えた瞬間があった。目の錯覚と思っていたが、あの後から魔物の動

きが変わったようだ。あの光は弘法大師様がなさったのかもしれない。今から思うと、あれだけのパワーある行為者に一人で戦い挑んだのは軽率だったかもしれない。もっと違った行動をとるべきだったかと、この数時間の成行に翻弄されながら考え込んでしまった。

続けて熊谷和尚は矢島和尚にも視線を向け言った。

「我々は、狼皇子の復活を強い魔導風が吹いてきたので知ることが出来た。しかし、

その後は全く感じることが出来なかった。きよう我々の直ぐ側に来襲してきたのさえ

も我々は全く感知することはできなかった。狼皇子は我々がいまだ経験したことの無

い強い魔力を持ち、今まで対峙した妖魔を遥かに超える恐ろしい存在と再認識できた。

これからこの容易ならざる敵、狼皇子に戦うときは単独行動では絶対に勝てない。お

互いの力を合わせ助け合いながら難敵に立ち向かわなければならない。我々には御大

師様がいることを心の支えに、御大師様を守り、この大難をなんとか乗り越えていく

ほかない」

矢島和尚は「弘法大師様が生きとおられる証をおしめなされた。私は身命をかけても

御大師様をお守り申す」と毅然と言い放った、目は涙で赤かった。

松田副管長は直ちに三人に管長に会い行くため同行を求めた。菊川は松田副管長が涙

を浮かべているのが見えた。御大師様の奇跡のような行いを知り感激しているようだ

った。

松田副管長は宗門の会計、人事、賄いから警察への対外折衝など一切を実質の責任者

として長年たずさわってきた。この人がこんなにも純粋な性格を持っていることを知

り菊川は感動を覚えた。





石橋は和歌山大学の裏にある道から孝子峠につながる山に入り、一人剣道の練習を

していた。このあたりの山は道路から三十分ほど入ると深い山ではないが、人家は無

く、ひそかに練習するに丁度よい環境であった。

大学も大阪の、ある薬学部に推薦入学で決まった。石橋は二校に絞り受験の準備をし

ていたが高校の担任が石橋の並外れた能力を知り、出身した大学のスポーツ活動を、さらに充実させ大学の知名度を高めようと推進している大学教授を尋ねた。

そこで私の生徒に武勇で有名な巴御前の生まれ変わりのような女性がいると煽り、か

ってに決めてきてしまった。石橋は、それも良いかと思い特に反対はしなかった。逆

に面白くなった剣の道に、さらに時間を割くことができると内心喜んだ。

今の石橋は波動剣をほぼ修得した。そして、さらに上の剣の技を極めようと試行錯誤

している最中であった。目標は塚原朴伝の一の太刀のような無敵の剣である。

刀の精は言った。「お前は超人的なパワーを得た、目標としている光り輝く不敗の武

士に絶対になれる。後は俺を越える技を考えよ。その時、俺はお前から去る」

石橋が新しい剣の技の構想を練り始めてから一週間たっていた。「乱月」のような月

にちなんだ名前の秘剣ができたら良いと思ったが、まだ何も浮かんでこなかった。石

橋は木刀をかかげ乱月の構えをしたまま雲ひとつ無い空を一心に眺めていた。何か良

い考えが沸いてこないか精神を集中していた。

その時であった。東側より山沿いを低空で何かの物体が飛んでくるのが見えた。

石橋は木刀を構えたままの姿勢で奇妙な物体に注目した。

真っ直ぐ、こちらに向かって飛んでくるようである。音は全くしなかった。

石橋はその物体が近づくにつれて目を見張った。人間のようである。しかも何か長い

物干しザオに似た物を持っていた。その物体は、はっきりと石橋の姿を認め向かって

来た。

石橋は「何よ、あれは !」と声を出した。

服装はまるで歌舞伎の勧進帳に出てくる弁慶のような山伏の格好で長い髪を風になび

かせていた。石橋の十メートルほど前で地上に飛び降りると遠くからは物干しザオに

見えた薙刀を一度おどかすように左右に振り下ろした後、左側に立て石橋を無言で凝

視した。

石橋は驚いた。今まで、このような人間を見たことはなかった。身長は一メートル九

十くらい、巨漢で獣の熊のような顔つきをしていた。衣服からはみ出た手足は硬そう

な黒い毛に覆われていた。

石橋は乱月の構えを止め両手を下し左手に木刀を持ち相手の出方をうかがった。恐怖

感は無かった。逆に本物の薙刀を初めて見たので興味を持った。しかし表情には出さ

なかった。いつもの無表情でいた。

突然相手は動いた。左手に持っていた薙刀を上に跳ね上げ直ぐに薙刀の柄の一番下を

左手で握ると右手をそえ左から石橋をめがけて振り下ろしてきた。石橋はとっさに後

ろに退き伸びてきた薙刀の刃を外すと次に相手は右上から振り下ろしてきた。

丁度×字のように左右連続して振り下ろしてきたのである。石橋はためわらず体勢は

そのままで後ろに退き薙刀の刃が届かない距離に出た。

鋭さは無かった。多分能力を測るために試したのではと石橋は思った。

熊のような男は体制を直すと、ニヤッと笑い声をあげた。しかし目は鋭く、さすよう

に睨らんでいた。

「我は熊野、伊勢にてその名を轟かせし熊王という者なり。狼皇子の求めにより四国

石鎚山へ行くところ運気か光のような立ち上がるものが見えやってきた。近くに寄れ

ば、か弱き女と知り、がっかりしたが、お前には何か強い影のようなものが付いてい

る。そやつのためで薄く光っているのかもしれない。試しに打ち込んだが、その動き

尋常ではない。さてはお前は話に聞く光の武士かも知れん。もし光の武士なら一手立

ち会い勝負したい。この俺は役の行者に不覚をとり闇に封じられしが薙刀の技では一

度も相手に後れをとったことはない。勝って狼皇子への手柄話にしてみせん。さあ立

ち会え、立会いたまえ」

熊王と言いせし者の大きな怒号のような声は辺り一面に鳴り響いた。

石橋は声よりも、非常に切れ味がありそうで重量感ある刃渡り七十センチほどの薙刀

に少したじろいた。また幾多の者を倒してきたと思われる熊王の迫力は今まで剣道で

対戦してきた者と全く違っていた。全身から殺意が噴出し、ひしひしと波紋のように

襲って来る恐ろしさに体がしびれるような感じがしてきた。

石橋は今、期待のような夢にも見た本当の生死をかけた勝負をするときが来たと思っ

たが、いざ現実に当面すると恐ろしさに身をすくめる感じが湧き上がった。今、生涯

最大の危機が来ているのかも知れないと思った。

刀の精が語りかけてきた。

「自信を持て。今のお前は変わったのだ。真剣勝負を恐れず経験することによって、

さらに数段進歩する貴重な体験になる。役の行者の時代ということが本当なら俺がい

た時代よりさらに相当古い時代に生きていた者だ。薙刀も刃は長いが反りも少ない。

薙刀と云うより長刀の部類の武器だ。熊王というヤカラは力や勢いで勝負する古武道

の世界の者だ。時代遅れで、絶対に技では、お前のほうがはるかに上のはずだ」

その言葉に石橋は、やってみようという気に変わった。そして少し相手を怒らせて見

る戦術をとろうと思った。

「名を轟かし熊王---。さてさて、私は武勇に優れた者の名を多く知っているが熊王

という名は全く聞いたことが無い。あなたは王と名前を付け脅す、こけおどし者だな。私には通じないよ。狼皇子とかいう者に会いに行くなら直ちに行くが良い。さもないと怪我をして、その者に二度と会えなくなるよ。私はいつもここで修行しているから先にその狼皇子とかいうやからの用を済ませてから、また来れば良い。私は逃げも隠れもしない。待ってやるちゃ」石橋はわざと少し笑いながら、いかにも馬鹿にした態度で熊王に言い返した。

刀の精も思わず「良し」とつぶやき、なかなか役者じゃのうと石橋を見直した。言葉

のかけひきで相手を怒らせ冷静さを失わさせる、なかなか上出来だと思った。

熊王は怒った。猛烈に怒った。

「おのれーーー。小娘だと思い手加減したが、もう許さん。一刀のもとに切り捨てん」

と憤怒の表情で左足を前に半身になり薙刀を大上段に構えた。

石橋は、すぐさま充分な間合いを取るため後ろに数歩下がり木刀を中段より少し上に

あげ構えた。

刀の精がささやいた。

「いいか、木刀を直接相手の薙刀の刃に合わせないようにな。木刀が切断されないよ

うに薙刀の刃は横から叩いて避けよ。薙刀の技は足、特に脛を払うように狙ってくる

から注意せよ。刃だけでなく柄や石筒部分も使ってくるから思わぬ方向からの打ち込

みにも気を抜くな」

「私、中学生の時、薙刀の体験教室が和歌山市であったので行ったことがある。だか

ら少しは解るんよ」と石橋は刀の精にささやいた。


二人の間には異様な冷気が流れた。熊王と石橋の髪の毛は電気を帯びたかのように

総毛立ち、石橋の顔は能面に熊王の顔はまるで歌舞伎の鏡獅子のように太く赤い血管

が浮き上がった恐ろしい形相になってきた。

熊王は右上段に少し変化させた。石橋は来るなと感じた。

「ガオー」と熊王は叫びながら右から斜めに振り落としてきた。

石橋は二歩ほど下がり刃先を避けた。続けて熊王は地面すれすれにまで振り落とされ

た刃先を上に替え、そのまま前進しながら下から垂直に切り上げてきた。石橋は木刀

で薙刀を横に払い避けた。熊王は払われたまま刃先を上げ今度は左上段に構え、直ぐ

に左上から右下斜めに切り下ろしてきた。石橋は右に移動しながら振りかかって来る

薙刀の刃を左に払い避けた。熊王はさらに続けて流れるように薙刀の柄を使って石橋

の左足の脛に打ち込んできた。石橋は力一杯薙刀に木刀を打ち込み、はねのけ、直ぐ

に次の打ち込みに体制を整えた。

石橋は、心に余裕があった。攻撃することもできたが古武道の使い手熊王がどんな技

を使うか慎重に見定めようという気持があった。恐ろしさより相手の薙刀の動きしか

考えなかった。

熊王は驚いた。さらに三、四手連続して打ち込んだが全て外された。今まで強き者ら

二百人近く戦ってきたが相手のほとんどは、この連続技で倒してきた。ところが今回

は、まったく通じなかったのである。最強の光の武士の存在は本当だったのか、しか

し、こんな小娘が-----、そんなはずがない。長い間、闇の世界に閉じ込められ寝て

いたため体力がまだ完全には戻っておらず技の冴えがないのかと少し自分に疑いの心

を持った。

熊王は薙刀を下段に構えた。下段に構えることによって薙刀が相手の木刀より長い

有利さを隠そうとした。相手に誤った判断を起こさせ間合いを狭めさせ、刀では届か

ないが薙刀では充分な距離に入ってきたところで攻撃をかけ、下からの打ち込みに

慣れていない刀を持った敵を倒すためである。

石橋は再び中段に構えた。乱月の技をと思ったが木刀と薙刀の長さを比較すると不利

と感じ中段をとった。

石橋は今度は私が攻めてみようと思った。どんな形で自分の攻撃を防ぐか見たかった。

熊王も来るなと感じ、意識をさらに研ぎすました。

石橋は中段から上段に木刀をあげ、そのまま熊王の面を狙って踏み込んだ。面打ちに

行ったが距離がありすぎるので本当の狙いは熊王の下段から振りあがってくるであろ

う薙刀であった。

石橋の思惑通り薙刀が石橋を下から真っ直ぐ上に切り上げてきた。石橋の少し左に移

動しながら木刀は上段から強く叩くように薙刀を払い、そのまま熊王の右腕を狙って

小手打ちにいった。熊王はかろうじて薙刀の柄の部分でよけ「ガッ」と大きな音がし

たが、その強い打ち込みを避けた。

熊王は受けた力強さに驚いた。まともに木刀が体に当たれば骨が砕けるだろうと思っ

た。

石橋は熊王を休ませなかった。次に左面、続いて右面、接近戦なら薙刀より短い刀の

方が有利と、熊王の体勢が少し伸びてきたところを、もう一度小手、左胴と途絶える

ことなく十五手ほど次々木刀を繰り出した。熊王は防戦一方になり必死に石橋の攻撃

を防いだ。

完全に熊王の息が上がってきたと思い石橋の攻撃のスピードが緩んだ瞬間であった。

熊王の思わぬ反撃が来た。

薙刀の柄の部分で熊王は右から真横に石橋の左胴を払って来た。石橋は面を狙い振り

上げていた木刀を、そのままの格好で右手は上にあげたまま木刀の切っ先を九十度に

下げ切っ先より十センチほどの峰の部分を左手で支え、熊王の胴打ちを受けた。

石橋はすごい技だと思った。しかし、それだけでは終わらなかった。次の瞬間、反対

側から薙刀の刀身部分が真横から石橋の逆の胴に向かって襲ってきた。石橋は、その

時「一文字返し」と熊王が言ったように聞こえた。石橋は、そのままの格好で木刀を

反転させ、右手は右腰下に左手は木刀の切っ先の十センチほどの位置の峰を支え、か

ろうじて薙刀の刃を木刀で受けることができた。重い音とともに薙刀の刃は木刀に一

センチほど食い込んだ。

刀の精は少し錆びが浮いている薙刀の刃を見て、手入れされた刃であったら木刀は支

えきれなかったであろうと思った。熊王の並はずれた技の冴えを認めざるを得なかっ

た。

石橋は、これ以上の接近戦は逆に危険と判断し、後ろへ大きく下がり間を広げた。


熊王は、少しうなり声のように声をあげて石橋を脅していたが、内心は驚いていた。

今まで最強と云われるような二人の剣の使い手を、この「一文字返し」の必殺技で倒

してきたが、この小娘のような女に阻まれることは予想をもしなかった。

荒い息づかいと汗まみれの熊王は石橋の顔をしげしげと見た。

そして恐ろしくなってきた。熊王は「こやつ、意外にやる。今まで闘った中で一番強

いかもしれない」と思った。

熊王は荒い息づかいになっているのに石橋の顔つきは全く変わらず息も乱れていなか

ったのである。

石橋は刀の精にささやいた。「このまま時間をかければ熊王は疲れ果て勝てるかもし

れない。でもこの機会に自分の波動剣が通じるかどうか試してみたい。熊王のような

強い相手にこそ真価が解かる。是非、試させてください。私には波動剣を破るため高

野山にこもっている菊川さんに対抗するために波動剣を完成し、さらにそれを超える

技をあみ出さなければ菊川さんに勝てない」と許可を求めた。

刀の精は「俺もそう思う。力一杯やって見よ」と了承した。

石橋は、今までの苦労の成果をやっと試すことができると、思わず顔に微笑が浮かん

だ。

熊王は、その微笑を見て、立ち会う前だったら自分をあざ笑ったと思ったであろうが、石橋の能力を知った今、逆に何かあると不気味さを感じた。

そこで熊王は息を整えるため時間稼ぎにと石橋にはまだ俺は余裕があるのだと見せか

けるように、ゆっくりと薙刀を数度変化させた。

石橋は熊王の、この動きを全く無視し、木刀を右斜め下段に構えながら「波動剣」と

ささやくように言った。そして静かに「土の精よ、木の精よ、風の精よ。我は摩利支

天に使えし者なり。摩利支天の力を示さんと欲するならば、我に力を貸したまへ----」とつぶやき周りの自然と同化しようと努めた。

熊王は石橋の下段の構えに少し驚きの目を向けた。

今まだ戦った剣の使い手で下段に構えた者はいなかったからである。何か企みがある

と、ますます不用意に仕掛けることをためらい相手の出方を見ようとした。

熊王は警戒していると石橋や周囲がどんどん変化してくるので「何だ」と声を出したが、ますます不気味になり変化を見ているだけで攻めることは出来なかった。

風が吹き始め草木が音を立て揺れ始めた。熊王は雰囲気が不安になり一歩引き周りを眺めた。何か草木が全て熊王に敵意を抱いているかのように、なびいているのを感じた。強い風が石橋から熊王に向かって吹き、冷気と霞のような白い雲が石橋より湧き上がり熊王を包み始めた。

熊王は、さらに危険を感じ一歩、二歩と下がった。雷雲でも近づき風が吹いてきたのかと空を見た。しかし空は雲ひとつ無い青空であった。

石橋は木刀の先を地面に差し込んだ。そしてゆっくりと左に線を引くように引っ張った。熊王はますます幻惑した。そんな剣法を見たことも聞いたことも無かった。しかし、次に石橋が左に回すようにして上段に構えた時、熊王はさらに一歩後退しながら驚きの声をあげた。

小さな竜巻かつむじ風のようなものが起こり、小石まじりの土ほこりや落葉が舞い上

がった。石橋が竹刀を左、右に振るたびに、「ブオー」と音を発しながら、竹刀の後

を追うようにして、落ち葉や土ほこりが舞い、まるで波のうねりのように見えた。

波もさらに菊川の時より進化して、石橋が左右に大きく振るたびに波頭があるよう

なうねりと高い位置から波が崩れてくるかのように大波が起きてきた。

熊王の最初は薙刀を八双の構えをしていたが後退しているうちに中段の構えになって

いた。その中段の構えの薙刀の刃先に波動剣の波が少し触った。熊王の薙刀は大きく

はじけ飛ばされるような衝撃を受けた。熊王は両手に力を入れ、かろうじて支え、薙

刀を引っ込むようにして体をさらに数歩大きく後退させた。

波はますます荒く大きくなり石橋の姿はその影に消えた。熊王は、これは敵わないと

感じた。このまま地上にいると殺られると判断し、上空に一旦逃げようと思った。

直ぐにあせりながら急いで上空五メートルほどの高さに飛び上がった。

そこから下を見ると波が大きく動き石橋の位置は上空からも隠れていた。波に触れ

ると危険と知った熊王は眺めているだけで何もできなかった。それに風が下に向か

って強く流れているため体勢を維持するのがやっとであった。

しかし、それも数秒後に止んだ。波が収まると石橋はその真ん中に立ち上空の熊王

を見た。そしてまたニコッと微笑んだ。熊王はまた、その笑いの意味に不安感を覚

えた。

次の瞬間、熊王は驚きの声をあげた。

石橋も飛び上がってきたのである。そして熊王と同じ高さの前方十メートルで立っ

たままの形で止まると驚いている熊王に向かって「最近飛べるようになったんよ」

とニコッと笑いながら言った。

しかし直ぐに冷たい無表情の顔になり木刀を上段に乱月の構えを取り少し右側に

上昇しながら熊王に近づいてきた。熊王は鋭い殺気を感じた。

ところが薙刀を中段に構え石橋の顔を見た時、しまった、うかつであったと狼狽し

た。咄嗟に波動剣を避けるため飛び上がったのは良かったが太陽の位置まで考える

余裕が無かった。石橋はさらに上昇し石橋のすぐ頭上から太陽が光輝く位置で止ま

った。熊王からはまぶしく、石橋の輪郭がぼやけ真っ直ぐに見ていることができな

かった。明らかに不利となった。しかも目をしばたたいている熊王を石橋は微笑し

ながら見ていた。

「負けた」と熊王は叫んだ。その場でかがみこみ、薙刀は左脇に下ろした。頭を下

げながら「まいった。負けた」と悔しさと憎らしいとの思いをそのまま表情にだし

ながら言ったが、直ぐに態度を変え必死の形相で石橋に訴えた。

「殺さないでくれ。侮って申し訳なかった。命だけは助けてください。私は生き返

ったばかりで全く変わったこの世に、まだ慣れていないのです。どうか殺さないで

下さい」

熊王は剣の戦いに敗れれば殺されると思っていた。熊王の剣の師は勝ったなら殺す

か剣を二度と握れないほどの重い傷を与えよ、さもないと相手は研究し、さらに強

くなって再び対戦せざるを得なくなり最悪の場合、命を奪われると教えられていた。

熊王は、その教えを守り情け容赦なく実行し、今まで戦ってきた者を全員殺してき

たからである。それだけに今度は自分がそのような殺される立場になったと死を恐

れた。

石橋は熊王の必死の形相で訴える姿に苦笑した。

「私はあなたの命なんかとりません。今はそんな命をやり取りする時代ではありま

せんよ。もう少しこの世を良く見て勉強しなさい。これから、なんとか皇子に会い

に行くと言っていたけれど、行くなら早く行きなさい。私は今日は良い剣の修行に

なったと、それだけで良いのです。さあ、行きなさい」

石橋はそう言うと熊王に後ろを見せ地上に降りようとした。

「危ない」と刀の精が大声で叫んだ。

瞬間、石橋も背に鋭い殺気を感じ前方に飛びながら木刀の柄を右手に掴んだ。

熊王は頭から突っ込むように飛び掛り、薙刀を左から右真横に石橋の胴をめがけて

打ち込んだ。石橋は逃げながら木刀で薙刀を受け、木刀に強い衝撃を感じたが、

そのまま振り向かず前へ前へと逃げた。

熊王はそのスピードに驚いた。自分より遥かに飛行能力があるようだ。追いつくこ

とはできなかった。しかし木刀の破片が下に落ちていくのが見え「よし、勝った」

と確信した。

石橋も木刀が切っ先から十センチ位の所から切断され、切っ先が落ちていくのは見

えなかったが感じることができた。三十メートルほど熊王から離れると石橋は熊王

の方を向いた。右手に切っ先の欠けた木刀を持ち熊王を睨み石橋は叫んだ。

「熊王、卑怯よ。負けたと許しを請い、願いかなえてやったのに私を後ろから襲う

なんて汚い絶対許されない行為です。同じ剣の修行者として恥ずべき振る舞いです」

それに対して熊王は大声で笑った。

「勝負は最後に勝てばよいのだ。途中の勝敗はお前にくれてやる。最後に生き残っ

た者が勝ちなんだ。解ったか。その木刀では、ただの木っ端と同じだ。もう俺の勝

ちだ。さあ、俺をギリギリまで追い詰めたお前を俺は決して許さん。少しずつ苦し

ませながら切り殺してやる」

石橋は怒りが猛烈にこみ上げてきた。刀の精はしきりに「逃げろ。ひとまず遠くへ

離れろ」と勧めた。しかし、石橋は言うこと聞かなかった。

だまされたという思いと隙を見せてしまった自分に対する悔しさもあるが「この熊

王を、今この場で倒さないと、きっとこの後、もっと悪いことをするにきまってい

る」と石橋は刀の精にささやいた。それに石橋は木刀の先端十センチほど欠けても、

まだ九十センチあまりの大部分の長さが残っている、充分対抗できると考えていた。

刀の精は「お前は変わったなぁ。女じゃないなぁ」と言った。

「何よ、それ。私は女よ。女じゃないとしたら何者よ」

「お前は本当に強くなった」刀の精は感心するように囁いた。

石橋は切っ先の欠けた木刀を斜め右上段にとり乱月の構えを取った。

熊王はふてぶてしい笑いを浮かべながら薙刀を八双に構えた。勝利を確信していた。

石橋と熊王は徐々にお互いの間合いを狭めた。二十メートルほどに近づいた所で石

橋は熊王は木刀を狙っていると気がついた。木刀を切り、さらに短くしてしまおう

という意図が分かってきた。

石橋は心の底から怒りが沸いてきた。体が燃えて熱くなってくるのを感じた。それ

につれて体からチリチリと音が発するのが一瞬、聞こえたように思えた。髪の毛な

ど静電気を帯び逆立ってきた。

熊王はスピードを上げ間合いをつめてきたが十五メートル離れた所で進むことを止

めた。余りにも石橋の姿が眩しくなってきたからである。熊王は石橋が後姿になっ

た時、切りかかったが再び石橋が太陽を背にしないよう角度をずらし移動したので

現在の太陽の位置はお互いの真横にあった。それなのに石橋は輝いていた。

光は石橋本人から発光しているように見えた。熊王の全身を覆っている総毛だった

黒い体毛は石橋の方向に引っ張られ体がチリチリと痛くなってきた。熊王は不思議

な光景と力に警戒心を持ち、それ以上進むことを止めた。

石橋も自分の変化に驚いていた。力が全身にみなぎり腕や足の筋肉が痛いほどにな

ってきた。そのため何か体を動かさないと耐えらないような気がしてきた。

まだ熊王との間は十五メートもあったが、何か仕掛けてみようと思い乱月の構えか

ら左右に木刀振ることにした。木刀の先端が失っても、恐れず、なお充分に闘える

ということを示してみたかった。

「トリャー」と声を腹の底から絞り出すように叫びながら石橋は右上段から左、続

いて回転させ左から右へと木刀を振りまわした。


石橋はその後の光景は生涯忘れられない。起きた一瞬一瞬は強烈な記憶として、い

つまでも残った。

熊王は石橋の最初の右上段から木刀が振り回されたとき、距離は充分に離れている

ので体に当たるはずはなかったが無意識に八双に構えた薙刀を少し前面に出した。

その薙刀に光と鈍く低い音の雷鳴が同時に伸びるように向かってきたと思った瞬間、

薙刀は爆発的に砕かれ吹き飛んだ。熊王の右手にも強烈なしびれるような電撃が受

けた。熊王は「ウアー」と声をあげ石橋を見た。一瞬、石橋の次の左上段から振り

まわす姿が見えたが雷鳴と光が熊王の全身覆った。


熊王は即死状態で地上に落ちていった。


石橋は地上に降りたち、熊王におそるおそる近づいた。

ためらいながら見ているうちに、雷撃で心臓麻痺を起こした死体は霧状に風に流され

るようにして散り消えていった。

石橋は自分でも信じられない出来事に困惑の表情を浮かべた。

「私、人を死なせたの---、悪いことをしてしまったの----?」

刀の精はつぶやくように石橋に言った。

「やっと、あいつは安らぎを得ることができたのだ。熊王は、きっと喜んでいるに違

いない。あの男の魔性を持った者の悲劇、業(ごう)から、やっと離れることができた

のだ。お前は何も悪いことはしていない。ただ、刀と刀の勝負に勝っただけにすぎな

い。そのことのみ考えればよいのだ。お前は剣におのれを賭けたのだ。お前はなんら

恥ずべきことをしていない。この経験を生かし、ただ前へ進むことのみを考えよ。

さあ、この俺も、そろそろお前から去らねばならない時がきたようだ。お前は、もう

遥かに俺を越えた。真の光輝く武士に成った」

刀の精はこの時、石橋に別の姿が浮かんで見えたように思えた。

しかし自分の錯覚だとして、それ以上深くは考えなかった。

石橋はため息をつきながら「もう少し一緒にいてください。まだまだあなたに聞きた

いことがたくさんあります。お願いです」と言った。

勝った喜びは全く無かった。


    続く



最終章 一



 奥の院御廟の灯籠堂の明かりが全て消えた事件五日後の早朝、熊谷和尚が松田副管

長を訪ねた。

松田副管長は宗務所より早朝、緊急の連絡を受け急いで本部に来ていた。

熊谷和尚は副管長の少し紅潮した顔を見るなり「どこの寺院が被害を受けた」と声を

掛けた。

松田副管長は外部の者には、まだ誰にも事件を話していなかった。それなのに熊谷和

尚から何もかも知っているかのように尋ねられ驚いたが「四国45番札所愛媛の岩家

寺で大変なことが起きたようだ」と冷静に答えた。

それを聞いた熊谷和尚の反応見て、松田は同じことを考えているなと思ったが話しを

そのまま続けた。

「早朝、岩家寺の近くに住む信徒から第一報があり、次に三十分ほど前、愛媛県警か

らも連絡があった。火災と土砂崩れのようなものが発生し寺院と周辺が全壊状態で生

存者などいるか調査中だそうだ。今、宗務所の全員を非常招集し救護など手はずを整

えている」

それを聞いて熊谷和尚は沈痛な表情で言った。

「一番の問題は原因が自然災害なのか、それとも別の原因、ある意図によってなされ

たかだ。私は夜中から先ほどまでに経験したことの無い強い魔導風を感じた」

松田は少し納得した表情で「私もそれを恐れている。狼皇子が関係しているのか。も

し狼皇子が起こしたのなら、どうして岩家寺なのか。あなたも知っていると思うが、

役の行者が死後百年たった後、弘法大師様の時代に現われ伝えた巨大神龍の話と関連

があるのかどうかだ。この出来事は我々をさらに悩ます深刻な問題を提起したことに

なる」

松田は救いを求めるように熊谷和尚の顔を見ながら反応を探った。

熊谷和尚はしばらく考えていたが「今のところ次に何が起きるかで判断せざるをえな

い。しかし対策体制は強化したほうが良いようだ」と考え込むようにして言った。

松田も同じ考えを持っていた。うなずきながら熊谷和尚に少し声を細めながら言った。

「宗務所の業務総長と総務が中心に現在大至急で対策と組織を作り、九分程度できて

いる。高野山の他の寺院も転軸山の山頂と祠の破壊状況を見て容易ならざる者が存在

すると積極的に協力してくれている。さらに全国の真言宗門へも外部には決して口外

しないことを前提に優秀な若手がいたら高野山に派遣するよう連絡をとっている。

和歌山県警にもいろいろな人脈を通して援助を求めています。菊川さんの上司の和歌

山西警察署の村上署長から、まだ決定ではないが機動隊員の高野山での研修と合宿と

いうことで百名位なら派遣できそうだと電話があった。

村上署長は、この種の問題は、その後何も起きなかったら警察幹部の責任問題になる

恐れがある。したがって表立った理由が発生すれば別だが、現在のところ、この数が

限度だと言ってきた」

熊谷和尚は松田副管長の緊急事態に対する処理能力に安心した。

狼皇子は、奥の院御廟を攻撃した時のように、今度は急な直接攻撃は、してこないよ

うに思えた。時間は、まだ少しあるようだが、さらに対策を急がねばと思った。




それから三日たった朝、宗務所にまた愛媛県警より、仙光寺が夜半突然起きた山崩

れに寺全体が覆われ壊滅状態であると緊急連絡があった。

熊谷和尚、矢島、塩野谷和尚、それに菊川は、その日、夜中から宗務所につめてい

た。

さらに強い地獄から吹きあがってくると言われている魔導風を感じたからである。熊

谷和尚は仙光寺が崩壊したことで完全に狼皇子の意図が理解できたと思った。

熊谷和尚は正面に座っている菊川に向かって語りかけた。同時に矢島、塩野谷和尚に

も話の内容を共有してもらうためである。

「菊川さん。中学か高校の社会や地理で中央構造線を習ったことがあると思うのです

が覚えていますかね」と尋ねた。

菊川は思わぬ質問に「えっえ--」と小さく声をあげたが直ぐに「確か九州から四国、

紀伊半島、長野県に連なる大きく陥没した断層帯のことだったと思うのですが---」

と答えた。

熊谷和尚は菊川の返事にうなずきながら「その断層帯の連なりを遥か上から日本列島

全体を眺めるようにすると何かに見えてこないかな----。例えば大きな蛇というか龍

の形ように」と言った。

「言われればそう見えるかも知れませんが、初めて聞く面白い見解ですね」

菊川は少し苦笑しながら、何故こんな緊急事態の時に変なことを聞いてくるのかと思

ったが、素直に答えた。

しかし熊谷和尚は真剣であった。菊川はそれを見て何か自分が知らない重要なことが、これから語られると緊張した表情になった。

「古事記という日本最古の史書は因幡の白兎や山幸彦と海幸彦の神話、説話などで国

民の大多数の人は直接読んだことはなくても、おとぎ話やテレビ、漫画など何らかの

方法で少しは知っていると思う。その最初の天地開闢という日本国誕生の部分に、あ

る隠れた秘密の部分があるのです」

熊谷和尚がそこまで話している途中、松田副管長が部屋に入ってきたが、熊谷和尚は

中断せずそのまま話を続けた。松田管長は遮ることなく静かに座り熊谷和尚の話に耳

を傾けた。

「古事記は、世界は、まず天と地とができあがり、それといっしょにわれわれ日本人

のいちばんのご先祖、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とおっしゃる神さまが天の上の高天原(たかまのはら)というところへお生まれになったという記述で始まる。

その頃は天も地もまだしっかりかたまりきらないで、両方とも、ただ油を浮かしたよ

うに、とろとろになって、くらげのように、ふわりふわりと浮かんだ状態だという。

その後に二人の神さまが生まれ、天御中主神はこのお二方の神さまをお召しになり「

あの、ふわふわしている地を固めて、日本の国を作りあげよ」と命令し、りっぱな矛

(ほこ)を一ふりお授けになった。それでお二人は、さっそく、天の浮橋という、雲の

中に浮かんでいる橋の上へ出て、いただいた矛でもって、下のとろとろしているとこ

ろをかきまわして、さっとお引きあげになった。すると、その矛の刃先についた潮水

が、ぽたぽたと下へおちて、それが固まって一つの小さな島になった。

お二人はその島へおり、そこへ御殿をたててお住まいになった。そして、まずいちば

んさきに淡路島をおこしらえになり、それから伊予、讃岐、阿波、土佐とつづいた四

国の島と、そのつぎには隠岐の島、それから、筑紫といった今の九州と、壱岐、対馬、佐渡の三つの島をお作りになった。そして、最後に、とかげの形をした、いちばん大きな本州をおこしらえになって、八つの島が成立した。

問題はこの後の部分なのだ。稗田阿礼と太安万侶(おおのやすまろ)によって編纂され

た古事記には日本列島の国造りを、これ以上触れていないが九州に古くから存在する

霧島神宮や宇土神宮にある言い伝えを記した古い書では巨大な神龍が語られているの

だ。神々は大きな神龍の力を借り無数のバラバラに浮いている島々の中を泳がせ、まとめ上げ八つの島にしたのです。ところがまとめたのは良いが神龍はその中で挟まり身動きが取れなくなってしまった。神々は助けようとしたが力足りず神龍はそのまま石化してしまったという。

それで先ほど菊川君に言ったように遥か上から日本列島全体を眺めると大きな蛇、龍

のような姿の断層帯が見えるということになる。しかしながら石化した神龍は燃え尽

きようとする命が抵抗するかのように時々もがくように動くそうだ。ところが、それ

が原因で、その度に周りの島が揺れ動き大きな地震が発生し大災害になるのだと記さ

れていた。

そこで菊川さん、疑問が沸いてくるでしょう。どうして高野山宗門の我々が、そのよ

うなはるか九州の古き言い伝えや古書を知っているのかと」菊川は熊谷和尚の鋭い視

線を感じながら素直にうなずいた。

熊谷和尚は、菊川から他の三人を見回し、少し声を下げた。

「高野山には門外不出の重要で命に代えても守り伝えなければならない寺宝がある。

その存在は松田副管長、あなたは既に知っておられるが高野山の最高位の管長のみ触

れることが出来る聖祖弘法大師さま直筆の日記で御入定する直前まで書かれた高野寺

記に記されているのです。ところが何故か別院にも一部分だけ複製され長年引き継が

れているのです。同じく別院の長のみ触れることができる扱いで秘密は守られてきた

のですが、その中に重要なことが記されているのです。聖祖弘法大師さまが、唐から

帰朝し親元の四国に一時帰り修行していた時である。役の行者の霊が数十年、成長さ

れた聖祖弘法大師さまが来られる機会を待っていたとして大師さまの前に現れたので

す。役の行者は神龍の言い伝えを告げるとともに、神龍は数百年、数千年ごとに、時

々大きく体を動かし大災害を起こす。そこで聖祖弘法大師さまが修得した中国の高度

な土木技術や密教の力によってなんとか防ぎ抑えてほしいと頼んだそうです。

その方法は神龍の体の中心たる肚臍(ヘソ)と心臓の部分に神龍の動きを鎮め監視する

ための寺を建てれば防ぐことができるのではと進言されたのです。聖祖弘法大師さま

は強く感じることがあり、その後、神龍の中心たる肚臍の位置の周囲に、岩家寺、仙

光寺、香音寺の三寺を建てた。それとともに秘められた意図を知られ悪用されないよ

うにするため、肚臍の離れた周囲や他の四国全域に、後に四国遍路八十八ヶ所になる

多数の寺を建て、そして最後に心臓部分に、この高野山に修行と教学の場を兼ねて大

きな寺を建立したのです。これにより神龍は大きく動くことが封じられた。それでも

手足の末端部分の動きは止められず時々、多少の動きが発生し完全ではないが地震は継続するが大災害をを起こすことは少なくなった。

しかしどうやら狼皇子は、この秘密を知っているようです。岩家寺、仙光寺は破壊さ

れ、次は香音寺となるであろう。私は松田副管長の許可を得て既に香音寺には連絡し

全員避難させたが、我々は香音寺が破壊されるのを待たずして、この宗門の本部で神

龍鎮撫の最後の要たる高野山を直ちに守る準備を開始しなければ間に合わなくなりま

す」

この熊谷和尚の発言に松田副管長は、同意するようにうなずき、続いて静かに発言し

た。菊川は松田副管長の顔つきが、今までと異なり沈痛な情を浮かべているのを認め

た。矢島、塩野谷和尚は、初めて聞く神龍の話と高野山、四国の三寺などの創建の理

由に驚き、声が出なかった。

「私は数年前、管長が一時、重い病気になった時に枕元に呼ばれ、初めて高野寺記と

神龍の話などを聞かされた。今回の仙光寺の破壊で、私は直ちに第一から第四まであ

る高野山危機管理対策の第三段階に入ることを決断した。

もし続いて香音寺が襲撃されたら最後の第四段階にする。その時は総動員で防御体勢

に入る。第三段階で、住民の避難勧告、山に近く安全と思われる橋本市に大勢の住民

保護できる避難所の設置、緊急車両以外の高野山への立ち入りや道路通行禁止、非常

要員以外の登山禁止、それに全国宗門に緊急招集を出し高野山主要寺院の警護依頼を

するとなっている。しかし、それには避難する住民を納得させる理由が必要である。

 そこで理由は---」松田副管長はここで少し口ごもった。

「理由は高野山の数箇所で地すべりの可能性ある亀裂が発見され、重大な危険性があ

り、大々的な補修工事するためとする。 その理由で和歌山県警にも再度最大限の増員を依頼しました。 尚、皆さん、今話され神龍、狼皇子の件は絶対外部には漏らさないこと。 あくまで地すべりの可能性ありで、場所は弁天岳、宝珠山、摩尼山の上部からの崩壊の恐れとする。

私たちは狼皇子と直接戦う別院のあなた達に全ての必要な権限を与えます。高野山の

命運は全てあなたたちにかかっています。直ちに行動開始することをお願いいたしま

す」

熊谷和尚、矢島、塩野谷和尚、それに菊川は、緊張した表情でうなずいた。





高野山で大々的な住民避難が開始されたとテレビ、ラジオ、新聞のトップニュース

で流された。地すべりという理由に多少の疑問持つ者も多かったが、四国八十八霊場

の寺院、岩家寺、仙光寺が山の崩壊で跡を留めないほど破壊されたニュースを見てい

るので避難は迅速に進んでいった。

高野山宗務所は避難の為の南海電鉄の料金を全額負担し、百数十台の無料バス、トラ

ックを手配し、多くの若手の僧と警察の協力で交通整理して避難する人々や物資を運

んだ。


その日の昼過ぎ、金剛峯寺管長に内閣官房長官より総理も大変危惧していると直々

に電話があった。高野山管長は表向きの理由とは別に内々に何か強力な仏敵が攻撃を

かけて来ているようだと説明し和歌山県警の支援をたいへん感謝していると答えると、官房長官は内々の理由は触れず、災害防止のために警察庁長官にも連絡してあるので必要なら何人でも派遣する用意があると援助を申し入れてきた。





石橋は最近良く眠れなくなった。というのは最近の数日間、同じような夢が何度も

現われ気になっているからである。

その夢は、まったく見通しのきかない暗い灰色の霧か雲のような中を石橋がさまよい

迷っている姿であった。

誰かに監視されているようで、前方から時々覆いかぶさるような殺気を感じ、対抗す

るため石橋は夢中に刀を振り回した。しかし、何かに当たる手ごたえもなく全て空振

りであった。

もう一つは昔の平安時代のような奈良か京都の古い町の中を、何かを探しているかの

ように涙を流し、さまよっている自分の姿である。

哀しい感情が何故起きるのか石橋には理解できなかった。夢の中で何故私は泣いてい

るのだろうか、何で私はこんなところにいるの、これはきっと夢だと叫び目が覚める

繰り返しであった。

先日はついに夢の中で、どうせこれも夢だ。このまま行ける所まで行ってみようと、

そのまま前へ進んで行った。

長い土塀が続く寺院沿いの道を行くと大きな門に出た。その前は大きな人だかりがあ

った。よく見ると前方で、四、五人の僧侶を後ろに従え、一人の日に焼けガッチリと

した体格の僧が説法をしていた。

前にいるさまざまな格好の住民達は夢中に耳をそばだてていた。石橋は何を話してい

るのか、さらに良くその人を見ようと押し分けるようにして前の方へ進んだ。

 その僧は進んでくる石橋の姿を認めると少し目を細め説法を中断した。後ろの僧侶

が警戒のため前へ出ようとすると手をだして止め、そして石橋に向かってさらに、こ

ちらへ来るよう手招きをした。

近づいて石橋はその僧侶の顔を良く見た。光り輝く目、体中から湧き上がる精気に感

動を覚えた。石橋は、僧侶の前で自然にひざまずいた。

その僧侶は静かに、そおっと右手を石橋の肩にのせた。その瞬間、石橋は体中が暑く

なり何か湧き上がるものを感じ涙がでてきた。そこで、石橋は目が覚めた。

石橋は、朝、刀の精にその夢のことを語った。

刀の精はぶっきらぼうに言った。

「夢は現実の結果の反映に過ぎない。過去に行ったり経験したことが忘れた頃に出て

くるだけだ。時には現実での願望が夢の中で現われる場合もあるが、夢の中では、い

くらたくさん食べ物を食べても腹一杯にはならない。夢は夢だ。

しかし、夢の中に出てきた、あの僧は何者であろうか。俺はお前と同時に同じ夢を見

たようだ。お前は感動していたが、この俺も、あの僧の前では震えが来た。きっと名

のある僧だと思う。それにしても不思議なことだ。あれは夢なのか----」

刀の精はそこまで言うと、石橋がさらに語りかけても、無言になり考えこんでしまっ

た。




高野山で避難勧告が出た翌々日の早朝であった。石橋と刀の精は不思議な声に呼び

起こされた。

「起きよ、光の武士よ。起きよ、刀の精よ」

その声に石橋は、はっとして布団から飛び上がるようにして起き上がり身構えた。

二メートルほど離れた暗闇の中に青白く光る者が座っていた。「驚かしてすまない。

光の武士たる石橋の姫君、それに刀の精、いや伊藤一刀斎殿。私は高野山の空海とい

う僧である。お二人に急ぎ頼みたいことがあり夜中に参ったのだ」


刀の精は石橋が驚くほどの緊張した声で「ハ、ハーー、わざわざ出向いていただき、

おそれおおいことで」と、石橋が聞いたことのないような丁寧な言葉遣いを選びなが

ら言った。石橋は、ひと目で夢の中で出合った僧だと気がついた。しかし、よく見る

と生きている現実の人のようには見えなかった。それでも石橋さえ全く知らない刀の精の本名を「伊藤一刀斎」と呼び、ひと目で正体を一刀斎と見極める並外れた能力を持った存在のようだ。

石橋はおそるおそる聞いた「あのう--、空海さんということはあの有名な弘法大師様

という方ですよね ?」

その僧は微笑んだ。石橋はその素直に微笑む僧の表情に、強く惹きつけられてしまっ

た。疑うどころか私は偉大な存在者の前に居るという喜びが率直に心の中から沸きあ

がってきた。

「後世の人は私をそう呼んでいますが、その通りです。実は急に夜中に起こしたのは、お二人に、お頼みしたいことがあるのです」

僧の顔つきは、そこまで言うと微笑から真剣な表情に変わった。

「既に御存知のように四国八十八所の岩家寺、仙光寺が破壊されました。そして今夜、香音寺が襲撃され現在火に包まれています。次は最後の目的地、高野山が襲われるでしよう。それは全て復活した狼皇子と、石橋さんと争った熊王のような存在達、それを支援する多数、いや、破壊の度合いから想像するに大勢の魑魅魍魎(ちみもうりょう)などが意図しているのです。高野山では現在、全員総力をあげ対策を練っているが、残念ながらまだまだ力不足で今のままでは彼らの破壊工作から守ることができません。

大変危険な任になりますが是非、お二人の力を貸してほしいのです。これは真言宗と

いう特定の宗派の問題ではなく魔にたいする戦いです。日本の国土、そこに住んでい

る億千万人の生活、生命の問題なのです。是非あなた達の援助がほしいのです。刀の

精こと伊藤一刀斎殿。石橋玲奈さんを、力と才能ある人でもなかなか到達できない頂

点にまで良く育ててくれました。お礼を申します。玲奈さん、女性の身でありながら、よくぞ光の武士までに努力してくれた。あなたは天より、言い換えるなら、この宇宙を支配する大日如来さまより直接の指示を受けたのです。この時を魔から守る為に選ばれ、必要な力を授けられたのです。直ちに行動を開始してください。高野山に着いたら金剛峯寺別院の熊谷剛仁和尚を尋ねてほしい。そしてその者の指示に従ってほしいのです。玲奈さん、ご存知の菊川さんも高野山に伝わる降伏(ごうふく)の剣を修得し一緒に戦うことになっています。是非、助力してほしいのです」


石橋は素直に決断した。理解できない部分、疑問がたくさんあったが歴史上の偉大

な人物、弘法大師様を信じ全力を尽くしてみようと思った。

「私の剣が何かに役立つなら、私にとって素晴らしいことです。直ちに行く準備をし

ます」

刀の精も「弘法大師さまのためなら、地の果て地獄の底まで命ずるままに従います」

と石橋の後に続いて言った。




 翌日の午後、石橋は和歌山市駅より乗り継ぎながら南海電鉄高野山ケーブルカーの

乗車口、極楽橋駅に着いた。途中は電車の窓から、ところどころ桜が咲きほこってい

るのが見えたが石橋には様々な思いがわきあがり、ほとんど目に入らなかった。

乗り換えの極楽橋駅は大変混雑していた。各地から召集され山に行こうという僧侶の

一行と、山から下山して橋本などへ避難しょうとする大勢の人々が大きな荷物をかか

え、早く電車に乗ろうと大騒ぎであった。

今まで疑いの気持や大丈夫だろうという多少の希望を持ち避難せず山に居た住民も、

高野山から事前の避難勧告が出ていた香音寺が破壊されたと聞き、山を下りることを

決断せざるを得なかった。


石橋は電車を下りケーブルカー乗り場に行く途中に検問があり、多くの人が並んでい

るのに気がついた。石橋は困ったと思った。竹刀袋に竹刀と木刀だけでなく、あの村

正の日本刀が入っているからである。竹刀袋の中を調べられたら高野山に行けないど

ころか逮捕される恐れがあった。石橋はそわそわして辺りを見渡しながら戻ろうかと

思った。

その時、「石橋さん、石橋さん。こっち、こっち」と大声が聞こえてきた。

石橋は背伸びしながら、声が聞こえた方向を見た。菊川さんが、遠くから手を振り

ながら検問を受ける人を掻き分け、こちらに向かって来るのが見えた。石橋はホッ

とした。これで何とかなると思った。同時に離れた距離であったが一目で菊川さん

の剣の腕が相当に上達していると見て取れた。その後ろから来る異相の人は大師様

が尋ねよと言った熊谷剛仁和尚であると確信した。この作務衣の二人は遠くからも

認めることができるほど他の人と際立っていた。 熊谷和尚も石橋の姿を見て驚い

ていた。このような人を、今まで一度も見たことはなかった。熊谷和尚も明け方、

弘法大師に起こされた。

光の武士が援助してくれることになった。菊川さんが高野山に修行に来る原因の菊

川さんに勝った女性剣士だから是非、彼も連れて午後ケーブルカー入口駅に迎えに

行くようにと伝えられたのであった。

熊谷和尚と菊川にとっても光の武士というものはどういう意味なのか知らなかった。

しかし熊谷和尚は南海電車が極楽橋駅に入ってくるところを見て光の武士の理由を

悟った。熊谷和尚には電車の三両目がいやに輝いているように見えた。

このような光は普通の人には認識できないが、武道などに熟達した者には感じるこ

とができた。その車両に、これから会う人物が乗っているのだとわかった。

車両から出てくる石橋の姿は遠くからも認めることが出来た。

熊谷和尚には、それが例え数千人、何万人の集団があっても、その中から簡単に石

橋の姿を認めることが出来るほど輝いて見えたのである。いままで、こんなに輝く

人に会ったことは無かった。

まだまだ女子高生の殻から抜け切れない印象は残るが、さわやかで少し憂いを秘

めた表情は、光を感じなくても、その姿を見た普通の人の中には、はっとして歩み

を止める人もいた。

石橋は熊谷和尚の前に行くと静かに頭を下げた。石橋のひかえめの態度と、熊谷和

尚の風貌に尊敬の念を抱いた石橋は、お互、一目で良い印象を持った。

「お初にお目にかかります。石橋玲奈と言います。よろしくお願いいたします」

熊谷和尚の鋭い目をした顔つきは、おだやかになり少し微笑んだ。

「良く来てくれました。心から感謝いたします。早朝、聖祖弘法大師さまが現われ、

あなたのことを話された。菊川さんと和歌山の大年神社で防具なしで剣道の試合を

したことも聞きました。そして極楽橋駅まで迎えに行ってほしいと、おしゃりまし

たのでこのように二人で来たのです。私はあなたに会ったことがないので菊川さん

を同行させましたが不要だつたと反省しています。あなたなら遠くからでも判る。

大変ありがとうございます」

「私のような者が本当に邪魔にならず、何か役立っのならうれしいのですが。全力

をつくします」と少し緊張した顔つきで石橋は言った。

そして石橋は少し後横にいる菊川に「この前は大変ご迷惑おかけいたしました。申

し訳-----」と話しかけたところで菊川にさえぎられた。

菊川はニコニコし頭を少し下げ「いや----、私も驚いた。熊谷和尚が、あなたがこ

れから高野山に来るから迷わないように迎えに行かなくてはいけないと言うので-

----。でも、良かった。あなたは、さらに遥かに私を越えた存在になったようだ」

菊川と石橋はお互いの目を見つめながら硬く握手をした。二人の間のわだかまりは

全く消え去っていた。


菊川と熊谷和尚の二人には、石橋の後ろにぼんやりと侍の姿が浮かんでいるのが見

えた。その侍は菊川と眼が合うと何度もすまないという態度で頭を下げていたのが

認められた。二人は悟った。そして、この人物が石橋の守護霊か師のような存在な

のだとわかった。


 熊谷和尚、菊川、石橋の三人は、少し異様な三人連れだったが、菊川が検問所の

後ろを顔見知りの警察官と親密そうに冗談を言い合いながら通過し、石橋は全く調

べられずにケーブルカー乗り場へ行くことが出来た。





 晴れ渡った高野山一帯は緊張した空気が流れていた。静寂の中、遠くから読経

の声が流れていた。高野山上の入り口、大門の前はそれぞれジュラルミン製の大

きな盾を持ち約千人の警察機動隊が三段の横列を組み、道路を塞ぎ大門を守るよ

うにして隊列を組んでいた。右側の石段を中心にした部分は百十数人の機動隊員

と熊谷和尚、塩野谷和尚、弓を持った矢島和尚、それに菊川と石橋が前方を睨む

ようにして待機していた。

高野山大門は一山の総門であり朱色の二階二層門、高さは25メートル、道路

より一メートルほど高い位置に建てられている。前方はさえぎるもの無く加太の

海や淡路島まで眺めることが出来た。そこからは国道480号が横を通り壇上伽藍、

金剛峯寺、奥の院と高野山の核心部へつながっている。


警察側から、この大門に守りを集中するのは危険ではないかと異議を唱えたが、

熊谷和尚は、この大門は四国から最短距離の位置にあり高野山の建物の中で最初

に見える象徴的な大きな建物である。彼らは必ずここから攻撃してくるであろう。

高野山は広い、そこにもし約千名の警護する者を分散したら、とても守りきれな

い。我々が大門に守りを結集していれば、勝ち誇っている敵はなおさら、その集

中点を叩き一気に決しようと思うはずである。最初に襲われる可能性の大きい大

門を是非、決戦の場所とするよう強く主張した。

高野山警察署の署員も高野山上部の約東西五キロ、南北三キロの広さの中に百以

上の寺、八つの大きな山が存在する複雑な地形を知っているためバラバラに守る

ことは不可能として熊谷和尚の大門での守備は決定された。


熊谷、矢島、塩野谷和尚と菊川は別院に伝わる日本刀を、石橋は村正の刀を携

えていた。全員別院に伝わる濃紺の防具である胴、小手、垂を装着していた。

菊川は石橋が「これが村正の刀です。今度の事態が終わったら返すつもりです」

と話したので石橋が何故強くなったか理解できたように思えた。しかし、このよ

うな時にそれ以上詮索する時間と余裕はなかった。

 熊谷和尚が岩家寺、仙光寺、香音寺と三日毎に襲撃されているが、四国と和歌

山の間は海で隔たれている。高野山が襲われるとしたら一日多い四日目と考えた

ほうが良いと言った。

その通りに四日目、深夜から体制を整えていたところ未明から異常なほどの魔導

風が吹き渡った。全員、暗がりの中で襲撃があると思っていたが朝となり日が差

し明るくなってきた。しかし、菊川も待機している機動隊員も依然と緊張してい

た。何か雰囲気が異なると感じていたからである。

 昨日、半日かけて機動隊員や消防署職員、宗務所本部職員、熊谷和尚ら別院の者と

石橋を含めて全員で予備演習が行われ対応策や指揮系統、連絡方法などが打ち合わさ

れた。熊谷和尚が集まってきた機動隊長と班長に、おそらく襲ってくる者の大半は、

あなた達には見えないかもしれないと言うと機動隊員は驚きと不安の声をあげた。

それでも綿密な協議が行われた。大きなジュラルミン盾を前面に持ち機動隊員は支

えながら後ろに控え、もし盾に音を立ててぶっかってきたり、重み臭いなど異様な気

配を感じたら、見えなくても警棒などで全力でその方向や物体に向かって力一杯、叩

くよう申し渡された。


十段ほどの階段や高さ一メートルほどの段差とフェンスのある右翼部分と中央部は機

動隊を二列に配備した。

左翼部分の段差もフェンスも無く国道480号の広い道路が大門の横を通り高野山の町

や奥の院へ続く道路は、最も厳しい襲撃を受けると思われた。そこは道路を全て塞ぎ

機動隊を三列にして守ることにした。

戦闘となったら集中力を維持し損害や疲労を軽減するため最前列を五分か十分おき位

に後列と交代し、その時にも防御体制を維持し攻撃に対応できるよう迅速で隙間無く

交代する訓練が数時間かけて念入りに行われた。

負傷した場合の大門の裏手に置かれた救護所へ運ぶ方法、救急車での搬送、負傷して

欠けた場合の予備隊員の補充手順など、予想される事態を想定し訓練を何回も繰り返

された。


 七時を過ぎてから周囲は著しく変化してきた。人間界とは異なる腐敗した草木獣肉

などが腐敗したような臭いがする地面下方から渦を巻くように湧き上がってくる魔導

風がさらに強く吹き始め高野山の下方より雲が沸き始めた。警戒している機動隊員に

も、その風の冷気や臭いから普通ではないと誰しも異常を感じた。


突然、大門の機動隊和歌山県警の無線が、今までの静かな会話から口調が変わり、

あわただしくなってきた。 矢立という大門から和歌山かつらぎ町方向に通じている国道480号線を約4キロ半高野山から下った場所で高野山への道路通行止めの案内と検問を行っていた。そこの五人の警察官と連絡が一時間あまり途絶え、いくら無線や携帯電話で呼んでも応答しなくなった。

かつらぎ警察署は近くのパトカーを調べに行かせた。

ところが「了解」と向かったパトカーも、それっきり連絡を絶った。その時点では、

かつらぎ警察は、携帯電話や無線機の故障か電源スイッチの入れ忘れの単純なミス程

度に考え、まだ事の重大性に気が付いてなかった。さらに数台のパトカーを向かわせ

た。十数分後、向かったパトカーの無線で悲鳴のような声が聞こえてきた。

「我々は攻撃を受けています。相手の正体不明-----。だめだ、助けてくれ----」続

いてピストルの発射音やガラスが割れるような音がした後、無線は途絶えた。かつら

ぎ署は直ちに全パトカーに矢立方向へ向かえよう指示するとともに、県警本部に連

絡、近隣の警察署にも援助を求めた。県警本部は大阪府警にも直ちに機動隊出動する

よう要請した。

大門の機動隊本部も色めきたった。襲撃がこの山の下の方で始まっているようであ

る。我々も下に移動して状況調査などに参加したほうがよいのではと言う者も出てき

た。しかし、大勢はこのまま下の推移を見ていようと意見は一致した。


 二十数分後、増援のかつらぎ警察のパトカーが現場近くに到着したようだ。現場か

らの無線が流れてきた。橋本署と海南署からも続々と防弾チョッキを付け拳銃を携行

し署員がいろいろな車に分乗して大挙して出動した。空には警察のヘリコプターが二

機飛んできた。


 矢矢立の現場は最終的に警察官二百名近く集結した。

車の通行可能できるように道路脇に駐車し警戒しながら破壊された、かつらぎ警察署のパトカーを中心に乗車していた署員等を慎重に探し求めた。

機動隊の隊員と熊谷和尚ら傍受している大門の本部の無線に刻々と被害の状況が流

れてきた。襲撃された車はガラスをほとんど割られ、中には署員は誰も居なかった。

しかし直ぐに道路わきの草むらなどから傷つき、うめいている多数の警察官を発見し

た。

矢立の検問所も同じような状態であった。車のガラスは全て割られボンネットなど

はボコボコにへこんでいた。五人の警察官はバラバラに夢中になって逃げ回ったよう

な格好で倒れていた。体のいたるところから血が流れ、多くは体に打撲か何かに噛ま

れたか引掻き傷がついていた。

直ちに救急車が手配され、辺りにまだ襲撃した加害者が居るかもしれないため単独

で行動するなと注意が与えられ警棒などを持ち警戒態勢をとり、さらに調査が継続さ

れた。

その時、突然上空を旋回していたヘリコプターに異常事態が起きた。飛行機がエアー

・ポケットに落ちたように和歌山県警の一機が十五メートルほど垂直に落下した後、

前後左右に揺れ動き、ゆっくり回転しながら皆の見ている前で墜落してきたのである。

さらに少し離れ、一機目よりさらに高い上空にいた二機目のヘリコプターにも異常事

態が起きてきた。

「何だ----あれは。下方から大きな物体がこちらに向かって飛んできます。ミサイル

か--。違う。樹だ。植物の樹だ。大きな樹が飛んでくる。直ちに、退避行動とります

」と、そのヘリコプターの機長は無線で連絡した後「だめだ。追いかけてくる。衝突

する-----。

ウアーーーー」衝撃音と叫び声が無線で聞こえた。

ヘリコプターは最初に落ちた一機目から五百メートルほど離れた山中に落ちていった。

直ちに下で活動していた警察官達は搭乗員を救おうと煙や火を上げている落下地点に

向かって走った。

しかし、その後ろから何か異様な者が大挙して接近して来るのを警察官らは誰も気が

付かなかった。やがて、あちらこちらから警察官の悲鳴が上がってきて初めて異常に

気が付いた。振り向くと肩や首を押さえたり足を抱え苦痛の声をあげたり仰向けに倒

れ空に向かって何かに抵抗している者もいた。

しかし何が原因なのか全くわからなかったが、見えない存在の様なものに襲われてい

ることは確かであった。直ちに木や車の後ろにまわり警棒をしっかり握り締め構える

者、防御しようと空やそれらしき場所に向け拳銃を撃つ者もいた。


大門の無線には「何かの敵に襲われている、至急直ちに救援頼む」と聞こえた後、左

だ、右だと指示する声、ガラスが割れる音、拳銃の音、悲鳴と何かの足音などが続い

た。

県警は県全域の警察官を非常呼集し非番の者を含め全員召集し増派することにした。

丁度、大阪府警の機動隊が要請に応じて最初の百人ほどの隊が県境を越えて和歌山市

内に入ってきた。直ちに高野山矢立方面に行くよう依頼するとともに、さらに大阪府

警には追加応援を要請した。

 ところが、しばらく時がたつと高野山の周囲のあちらこちらより道路が土砂崩れや

山の崩壊などで通行不能という連絡が次々と入ってきた。そのため各方面より救助に

向かった救急車や応援の警察車両が道路崩壊で立ち往生しはじめた。

国道480号線の志賀高野山トンネルの高野山側は崖の崩壊、370号線の橋本や海

南市からの道路は途中切断され、371号線も橋本や有田川から高野山に近づいた所

でがけ崩れが発生し大きな岩などで数百メートル、大規模に道路が覆われていた。


 和歌山県警察本部は数百人の警察官が傷つき、ヘリコプターも二機墜落した現場を、そのまま放置しておくことは出来なかった。止むを得ず高野山山頂の大門に千人有余の機動隊と救急車も数十台保有し、臨時救急本部に医師も多数待機している人員から応援を送ろうと考えた。その数も百、二百の人員では、また同じような被害受ける可能性あるので、一挙に五百名の人員を派遣し、負傷した警察官らを救い、出来る限り短時間に高野山上の救急本部へ運び、再び防衛体制に復帰させれば全ての問題が解決すると考えた。


熊谷和尚はその指示を聞いたとき、危ない。防衛勢力が分断される。このままでは明らかに狼皇子側の作戦、罠にはまってしまうと思ったが、高野山寺院の応援される側として反論や拒否することは出来なかった。ただ、応援に行く機動隊員らに言った。

「もし襲われたら精神を集中し感覚を研ぎ澄ませよ。そうすることによって必ず相手

の姿が見えてくるはずだ」

機動隊員は同僚たちを一刻も早く救いに行きたいと、ほとんどの者は熊谷和尚の話は

上の空で準備を急いだ。


 熊谷和尚は四キロ半先の矢立方面に降りていく機動隊の車両を見送りながら、この

残った半数の人員で戦いをせざるを得ない場合を考えた。どのように戦うのか、新た

な作戦をたてなければと、憮然としている新たに本部の機動隊長になった者の所へ向

かった。前任隊長は応援指揮責任者として機動隊の先頭車両に乗り山を下っていった。


 熊谷和尚は矢立方面で、どのように進展するか確認していたかったが時間がなかっ

た。直ちに後任機動隊長と相談し数人の者を本部に置き無線の傍受や電話の送受を受

け持たせ、それ以外の残った機動隊の者全員を集め防衛の方法や作戦を組み直し、機

動隊と意見を出し合いながら訓練を再開した。

約五百人の機動隊は階段部分の右翼とフェンスのある中央部は一列の横列を組んだ。

強い攻撃を受けると思われる左翼部分は二列の横列にした。

列と列の間隔を少し空け、傷を負ったものが発生したら直ちに救い出し、後ろの救護

施設に運ぶ者や負傷して欠けた部分を埋める若干の人員を予備兵力として後方に待機

させる作戦など試行錯誤しながら打ち合わせした。右翼側は三列から一列にしても人

数が足りないため、階段部分は熊谷和尚等の別院と少数の機動隊員が責任を持って守

ることが決まった。機動隊は、さらに攻撃に抗しきれず体勢を維持できなくなった場

合、バラバラに退いたり隊列を解体すると、ますます大きな被害を受けるので、その

時の防御体勢、なるたけ円陣を組み戦う方法など、いくつもの想定をして実際の訓練

を念入りに行った。


その訓練に参加しながら石橋は、時々、四キロほど先の応援の機動隊員が下りていった山麓の空を眺めた。濃い黒い雲が石橋たちのいる高さより低く下の山々を覆っていた。菊川もそれに気がついていた。

石橋に「あのような雲が昨日話した狼皇子が高野山を襲って来た時、奥の院の近くの転軸山を覆っていた。下に応援に行った彼らの成行が心配だ」と不安を隠そうとせずに言った。

時々雷鳴のような音が響いてきた。

熊谷和尚も気になっているようで、時々、門の後ろにある本部へ行き、無線などを傍受している担当者に状況を聞いた。

担当者の話では、最初は問題なかったが一時間ほどたった現在、無線が途切れたり声が乱れ、あまり良く聞き取れないと少し不安そうに訴えた。携帯電話も通じたり通じなかったりで、あまり良い状態ではなかった。それでも応援の車両は前方を警戒しながらゆっくりと矢立へ向かっているようだった。


しばらくして県警本部より直接、臨時に設置していた固定電話に連絡がきた。どうやら警察無線や携帯電話の高野山周辺のアンテナ基地局が破壊工作の被害を受けているようだと県警本部より連絡があった。

それによると通話状態が良くないので専門家に現在調査してもらっているが、アンテナ基地局の監視カメラを見るとアンテナそのものは損傷を受けていないがアンテナの根元にある付属施設が壊されたり制御装置やバッテリーボックスなどが破壊されているようで、被害箇所もさらに拡大してきていると連絡してきた。


熊谷和尚が別院の二人、それに菊川、石橋と別院派としての防御方法について話し合っているとき、大門の裏から電話無線担当の署員が興奮した顔で走ってきた。

「県警本部よりの連絡で、現在、下に向かった応援隊が襲撃を受けているようです。我々の無線は傍受出来なかったのですが、県警本部では、まだ時々聞こえるようで車列の前後を大木で塞がれ動けなくなったところを攻撃受け、現在、全員降車し戦っているとの一報です」

その署員はこれから、ここに居る人員全員で直ちに助けに行こうと和尚に訴えるかのように告げた。 熊谷和尚は沈痛の表情を浮かべ言った。

「残念ながら私たちは動いてはいけない。我々はここで戦うのです。応援隊は彼らの才覚で戦い生き延びてもらうしかない。攻撃している敵は必ず、ここへ来ます。今、行ったら彼らの作戦にのり罠にはまるだけです。今は動かず、いかなることがあっても、ここに居るのです。彼らが襲ってきた時、今度は我々が逆に彼らを待ちうけ我々の強さを見せ付け徹底的に打ち破らなければならないのです」

そこに松田副管長が門の前に現われた。門の前に居る機動隊員の人数が激減しているのに驚き当惑の表情を浮かべた。

熊谷和尚は機動隊の半数は高野山の麓で緊急事態が発生し、県警本部の命令により応援のため一時間半ほど前、下山して行ったと概略を説明した。

松田は「これだけの人員で大丈夫なのか ?」と不安そうに尋ねた。

「高野山は完全に孤立した。私たちには、これ以上の応援は、もう得られない。いやどこからも来ることが出来ない。高野山の周りの道路は全て塞がれたようだし、空からの支援も県警のヘリコプターが二機撃墜されたので望めない。

可能だとしたら自衛隊だけでしょうね。でも私たちがそれを求めても災害でもないのだから出動させることが出来ないでしよう。今は、残念だが、この人員で戦うしかない」熊谷和尚は毅然とした態度で言い放った。


松田副管長は「わかった。あなたに全てをまかせる」とうなずいた。

松田の心は決まっていた。松田には弘法大師様と共にいるのだという信念があった。これから起こるだろう恐怖より共に戦える喜びの方が松田には大きかった。

松田は皆から少し離れた所で一人、日本刀を素振りしている石橋の姿を見付けた。石橋とは二日前に熊谷和尚、菊川に連れられ既に会っていた。どうして、このか弱そうな女子高生が菊川を破り熊谷和尚の言う弘法大師様直々の依頼で救援にはせ参じてくれた最強のサムライなのか理解できなかった。しかし何か普通の者ではないという感じは持つことが出来た。

年長の初対面の人に、はにかむように微笑を浮かべ挨拶する姿に、この女性は人を惹きつける強力な何かを持っている。松田は、もしこのまま成長し彼女が政治家か宗教家となれば絶対多くの支持者を獲得することが出来るだろうと思った。

石橋は松田が自分を見ているのと気がついたのか、石橋は離れていたが振り返り笑みを浮かべ松田に向かって手を振った。

松田も思わず満面笑みを浮かべ手を振り返した。こんなことは何十年ぶりの学生時代以来かもしれないと松田は少し照れくさいような顔して熊谷和尚の顔をチラッと見た。熊谷和尚も笑っていた。

松田は石橋の方を向いたまま熊谷和尚に言った。

「彼女を守ってやってくれ。絶対に死なせてはならない」

「私も彼女を危険なことをさせたくないと思っている。しかし----、今度ばかりはわからない。今回は全力をあげても勝利を収める自信は全くない。私は逆に今回、弘法大師様は彼女を重要な役割、仏教の守護神のような、私たちに助力するために派遣したのではないかと思っている。なるたけ彼女の脇に居て共に戦うが、今度ばかりは予想もつかない。私たち別院の三人、私含めて塩野谷、矢島は大師様に全てをささげて戦うことを誓っているが-------。

今までと異なる宗門と魔との最大の戦いになるような気がしている。彼女を守りたい。しかし、今の私には、できる限りのことはするとしか言えない」熊谷和尚は覚悟を浮かべ毅然とした態度で言った。

「申し訳ない。一時の感情で言ってしまい。私はあなたに御迷惑かけつづけ本当に感謝し申し訳ないと思っている」と松田は熊谷に謝った。

「ところで、もう昼近くになったけれど、攻撃があるとしたら何時頃と予想しているのでしようか-----。特殊な相手だから普通には考えつかないのかも知れないが、そろそろ皆に昼食を出そうと思っているのだが問題ないでしようか。その時に襲ってこられると困るし----。どうしたら良いのかな」と松田は熊谷和尚に聞いた。

「昼食か------。私はすっかり忘れていた。良いことを思い出させてくれた。

私はまだ時間はあると思っている。敵の大多数は今は下で戦っている最中である。あの濃い黒い雲が何かを意味していて、あの雲がこちらに向かってきたら本当の戦いが始まるのではと予想している。その時は夕方と考えている。食事して一服するのは今しかないのかもしれない」

松田はそれを聞くと礼を言い、急いで金剛峯寺の宗務所に向かった。





最終章 二



 熊谷和尚の予想したとおり狼皇子らの攻撃は夕方に始まった。

黒い雲が下から徐々に上へ昇り辺りは暗くなり日没前のようになった。

門前近くから今まで聞いた事の無いような音や、声がしてきた。「ギャー、ギヤー」と小さい動物から発声するように聞こえるが、慣れてくると声に抑揚があり会話しているようにも感じられた。

機動隊員は音の方向に目をこらして見るが何も変わった様子はなかった。しかし別院の三人と菊川、石橋には、はっきりとその物体が見えた。矢島和尚が菊川と石橋に、その正体を教えてくれた。

四,五十センチの身長で高い者でも一メ-トル位の背は低いがキビキビと動き活発なのが邪鬼で鋭い爪で引掻いたり、鋭い牙のような歯で人を殺傷し、弓矢や短い槍の武器を持つ者もいる。

もう一つの揺ら揺らと鈍そうに動く身長百五十センチほどの者は魑魅魍魎(ちみもうりょう)で、鋭い爪を使うが一番の武器は人に抱きつき精気を吸い取るそうだ。人がその者に抱き付かれると気力が失われ脱力感と倦怠感で何もする気がしなくなり最後には生気も奪われる。その集団の中には短い刀剣を持つ者もいた。

石橋は熊谷和尚に何故普通の人には邪鬼、魑魅魍魎の姿が見えないのですかと聞いた。熊谷和尚はこう語った。

「別院に残っている書物に、古い昔は、みんな普通の人間も邪鬼、魑魅魍魎を認識できたという。まだ農耕など文明が発達せず山や森で狩猟や採取で生活していた時代、人間も邪鬼魑魅魍魎も一緒に山や海、森の中でお互いを尊重しあい生活していた。その時代の人間には透明感を持っていたが全員彼らの姿が認識できたという。しかし人間が田や畑を造り、耕すために森や林などを燃やし破壊していくと邪鬼、魑魅魍魎の生活領域を侵すようになり、お互い敵対する関係になってしまった。

やがて山や森の奥に邪鬼、魑魅魍魎は追いやられ、邪鬼、魑魅魍魎は人間から離れ隠れ住む様になり、徐々に人間の前から姿を消したそうだ。

それから、いつしか人間も彼らを忘れ去り、邪鬼、魑魅魍魎という異種の存在についても認識できなくなっていったそうだ」


熊谷和尚が昼食後ヘルメットと濃紺の出動服の上に防護ベストと下腹や手足を守る各種プロテクターを着けた完全装備の機動隊員の前に立った。

いよいよ戦いの時が近づいていると携帯拡声器を使用して、戦いの方法など最後の確認をした後、さらに一層気を引き締めるよう忠告した。

「私たちは、けっして恐れることない。我々には世界を全宇宙を見守っておられる大日如来様が味方している。さらに心強いことはあなた方には信じられないかもしれませんが、我々には弘法大師様が見ておられのです。敵は我ら人間と異なる悪の世界の存在に扇動され我らを襲おうとしています。私たちは必ず勝利するし、勝たなければならない。さもないとこの世は悪魔、闇の世界に支配されてしまうでしょう。この戦いは単なる高野山という寺を守るということだけでは決してありません。何万年と続いた人間の歴史、築き上げてきた人間の生命、遺産、歴史を守るためなのです。全世界の人類の命運は全て君たちの力にかかっています。恐れるな、必ず勝つ。見えない戦うこと不可能だと絶対に思わないで下さい。心と精神を一つに集中すれば必ず敵の姿が見えてきます。絶対に相手の正体がわかるようになります。個々の力ではあなた達の力が勝っています。個々の相手は人間に比べれば非力です。恐れなければ絶対に勝てるのです」

機動隊員は山を下っていった応援部隊が、攻撃受け音信不明状態になっていることを知っているので全員緊張して熊谷和尚の話に耳を傾けた。

もう誰も救いに来てくれる部隊はない。完全に孤立して、これから生死をかけた戦いになるのだと覚悟していた。


 石橋は前方の茂みを注意深く見ていた。

時々「キュゥーン」と高く鋭い音が聞こえた。石橋は隣の熊谷和尚に聞いた。

「あの寂しいような動物の鳴き声のような音は何ですか。私は、初めて聞く音なのですが」

熊谷和尚も油断無く前方を見ながら「あれは鹿笛です。彼らはあの音を発する鹿笛を吹きお互い連絡し合っているのです。いよいよ来るようだ。油断しないように」と言った。

そして十メートルほど横に離れている菊川と矢島、塩野谷和尚に目で合図を送った。

塩野谷和尚は刀を抜き構え、そして傍らの機動隊員にも注意を促した。

熊谷和尚と塩野谷和尚は刀を左に持ち前方に二十五度ほど上げ両手を「ハ」の字型に広げ構えた。そして「-----大日大聖不動明王、怨敵退散かんまんぼろん 悪魔降伏かんまんぼろん 心願成就かんまんぼろん 悪難消滅かんまんぼろん------」と経文を唱えながら刀を右八双に構え不動剣の体勢を取った。

二人の体の回りから湯気のようなものが上がり、熱風を発し前方の邪鬼、魑魅魍魎に向かって吹き付けた。

 

頻繁に鳴っていた鹿笛の音が止むと異常に静かになった。そして木々や茂みから恐ろ

しい表情の邪鬼、魑魅魍魎の姿が続々と現われた。邪鬼の多くは素手であったが、中にはこん棒や弓矢、槍を持っている者もいた。

彼らは機動隊の前方三十メートのところで左右に大きく広がった。機動隊員から自分

達の姿が見えないことを知っているため安心しきっていた。

ゆっくりと音を発生させないように注意をしているようだが、特定の指示する者がいないのか雑然と広がった陣形をとりはじめた。

機動隊員は邪鬼、魑魅魍魎の姿は見えないが、こん棒、弓矢、槍などの武器は見るこ

とが出来た。そして、それが宙に浮きながら徐々に前方に進んでくるのが確認でき、緊張し身構えた。

矢島和尚は弓に破魔矢を番えた。


 邪鬼、魑魅魍魎の集団は訓練された軍隊のような整然さはないが一応隊列が組まれると鹿笛が一斉に長く高く三度鳴り響いた。

邪鬼、魑魅魍魎は一斉に無言で前進し攻撃を開始した。

 最初に邪鬼の放った弓矢がパラパラと飛んできた。機動隊のジュラルミン盾に鋭い音を発し当たり落下していった。見えない敵ではあるが機動隊員は、いよいよ攻めてくると警棒をしっかりと握り締めた。

突然、ジュラルミン盾に衝突する音と重みを感じると機動隊員は決められたとおり、その方向に警棒を振り落とした。空をきることもあったが何か柔らかい物体に当たった感触があると「グアー」と悲鳴が聞こえた。

 矢島和尚はジュラルミン盾に隠れながら破魔矢を邪鬼の弓を持っている者を集中して狙い矢を放った。

邪鬼、魑魅魍魎の多くは別院派が守っている右翼部分は少人数だが、中央と左翼の機動隊に多くを割き集中して攻撃して来た。彼らは自分たちの姿は普通の人間からは絶対見えないと自信持っていた。そこで右翼にいる修行した和尚らの攻撃は自然に避けるような形で小数になった。彼らは明らかに和尚たち五人は自分たちの姿が見えると知っているようである。

 それでも石橋の守っている場所は、女の武芸者のようで一番弱そうだと思ったのか長い棒や竹槍などの武器を持った邪鬼が襲ってきた。

石橋は刀を峰打ちにかえ相手の腕、足、肩などを狙って打ち込んだ。邪鬼と魑魅魍魎の五人ほどを一瞬に倒すと石橋のところには誰も襲ってこなくなった。

目標を変えて隣の熊谷和尚や塩野谷和尚の所に向かった邪鬼も、和尚の不動剣の熱気と恐ろしい顔の表情を見て襲うのを止め引き下がるか機動隊の方向へ進路を変えた。

 邪鬼と魑魅魍魎はジュラルミンの盾を最初は越えられなかったが、圧倒的な数で次々と繰り出して襲い、盾の上や横から腕や顔を出し警棒や警杖を振り下ろしてくるだけの機動隊の防御方法にも慣れてくると、めくらめっぽう振り下ろしてくる機動隊員の腕をつかみ前へ引き出そうとしたり機動隊員の頭を捕まえ捻ったりヘルメットを外そうとして徐々に圧力を高めた。邪鬼の中には高く跳躍し一列目の機動隊の列を越え二列目に直接襲ってきた者もいた。

しかし機動隊員は比較的落ち着いて練習したとおりの手順で救護や予備に控えている隊員が危険な状態になった者に応援に駆けつけた。存在は良く見えないがお互いの怒鳴り声と戦っている格好で位置を確認し必死になって助け合い防御の体制を維持につとめた。

石橋と菊川は防衛線の右翼部分は別院によってしっかり守られているので中央の機動隊防衛線の前面にも入り邪鬼と魑魅魍魎達を打ち据えていった。

十分後、集中して攻撃を受けている左翼部分の機動隊は邪鬼と魑魅魍魎の動きが鈍ったところで機動隊の前列は少しずつ後退しながら後列が空けた空間より逃げ込むようにして後列の後ろに下がった。後列は直ぐ開けた空間を縮め、今度は後列が前面に出た。前列の疲労が限度に達した為の交代を図った。

邪鬼と魑魅魍魎達はその期にと攻撃を強めたが、新たに前列に出た機動隊員はさらに強い抵抗を示して戦った。前列の戦い方を直ぐ後方で見ていたので訓練通り落ち着いて対処すれば防ぐことが出来ると自信を持っていた。

熊谷和尚も、体力では人間のほうが明らかに邪鬼と魑魅魍魎より優っていると確信を得た。

この彼らの弱点が彼らを人間界の前から消えさせた大きな理由の一つかも知れない、ただ彼らに有利な点は人間から見えないだけのように思えた。


その動きを見てか、鹿笛が二回、断続的に大きく鳴り響いた。すると邪鬼と魑魅魍魎の集団は傷つき倒れている者を抱き上げながら一斉に退いていった。




石橋は熊谷和尚の隣に戻ると尋ねた。

「また襲って来ますよね ?」

「今の攻撃は我々の防御方法と能力を試すためのようだ。次はもっと本格的に襲ってくると思う」

熊谷和尚は石橋に言いながら再度、体制を整えている邪鬼と魑魅魍魎の集団の後ろ方面をにらんでいた。

そこへ菊川が塩野谷、矢島と一緒に水の入ったペットボトルを三本持ってきた。

「さあ、これを飲んで息抜きしてください」と二人に手渡したが、熊谷和尚がしきりに邪鬼と魑魅魍魎の集団の後方を見ているのに気が付いた。

「何か変わった怪しい動きでもありますか ?」と菊川は尋ねた。

「はっきりと断定できないが、今まで経験したことのない強い魔物の存在を感じるのだ」

熊谷和尚は非常に緊張した表情で言った。

石橋も、うなずきながら熊谷和尚に言った。

「私も気が付いていました。熊王という薙刀の強い使い手が近づいて来た時と同じようなエネルギーを感じます。それも一人ではない。複数だと思います」

熊谷和尚はそれで合点がいったように石橋の顔を見ながら言った。

「熊王とは、つい最近、狼皇子のもとに行く途中、あなたに会い試合を挑み敗れた者ですね。さては狼皇子が、さらに別の魔物を生き返らせたのか----。みんな、さらに心して準備しないといけない」

熊王について熊谷和尚は石橋から既に聞いていたが、菊川など他の三人は初耳であった。

菊川が石橋に「そんなことがあったのか ?」と語りかけ、もう少し詳しく知りたいそぶりを示した。他の塩野谷、矢島も同じ表情をして、どんな姿の魔物なのか興味を持ち石橋の顔を見た。

石橋は素直に熊王について語った。

空を飛行して来たこと。姿が異常に毛深く熊のように大きな体つきで全身ゴワゴワしていた。古い形の薙刀を使う熊王との試合はかろうじて勝ったことを説明した。しかし石橋自身が飛行して空中で雷撃のような技で倒したことは秘した。

「でも不思議なのですけど彼が倒れたとき、私は初めて人を殺してしまったと呆然となり、たいへん後悔したのです。でも直ぐに彼の姿が、砂が強い風に吹き飛ばされるように消えてしまったのです。

私は映画や本などにすごく影響されたのか菊川さんの時には防具をつけない試合を挑んでしまったのですが、それと同じように命を懸けるような剣と剣の戦いをしたいと考えていたので、これは良い機会だと思ったのです。

ところが実際に戦ってみて本当に私は愚かだったということがわかりました。

剣に強くなろう強くなろう、新しい無敵のような剣の技を覚えよう。そのことばかり私は考え思いあがっていたのです。

でも熊王さんを倒したことによって私は剣の怖さ恐ろしさを知りました。

私は人の死を見て、むなしさと私の心の小ささを知ったのです。

みなさんにはたいへん悪いと思うのですが、もう私は殺生をしたくないのです。それで私は今回、真剣を持っても峰打ちで相手を殺さないように、しかし相手が再び攻撃してくると困るので、直ぐに立ち上がれないように相手の手足などを中心に強く打ち込んでいたのです」

塩野谷和尚は納得した表情で言った。

「それで良いのだよ。我々だって、むやみやたらに殺生はしたくない。常に必要最小限にしているのだよ」

他の三人もうなずいた。



熊谷和尚は別院の者を再びもとの位置に戻すとともに、機動隊に今度は、さらに強力な襲撃が来ると注意をうながした。

刀の精がつぶやいた。

「あそこにいる魔物の一人は、もしかすると奴かもしれない」

「何よ。奴とは」石橋は聞いた。

「いや、断定はできない。もし奴なら俺に戦わせてくれ」

石橋が刀の精が驚くほど慎重になっているのに気が付いた。もしかすると刀の精の秘められた過去などが分ってくるかもと思った。

 

石橋は再集結している邪鬼、魑魅魍魎の前面の集団を見ているうちに一部の者が何か変わった道具を持っているのに気がついた。急いで熊谷和尚に聞いてみた。

熊谷和尚は言われた方向を凝視し少し驚きの表情を浮かべた。そして直ぐに「かすみ縄のようだ」と言った。

石橋も菊川も、かすみ縄とは何だという顔つきで熊谷和尚を見た。

矢島は変わった物を持っている邪鬼を注視しながら塩野谷和尚にささやいた。

「かすみ縄は聞いたことはあるけれど私も初めて見る」

熊谷和尚は石橋と菊川を安心させようと穏やかな表情になり説明した。

「特殊な植物の繊維から作る縄で、普通の人間には見えない。彼らは投げ縄や狩の罠などを、それを使って作ると別院の古い文献に書いてある。私も現物は初めて見る」


 鹿笛が一斉に高く三度鳴り響いた。

邪鬼、魑魅魍魎は再び一斉に無言で前進し攻撃を開始した。今回は前方にいる邪鬼集団の者は、かすみ縄をグルグルまわし始めた。最初の攻撃の時は無言で音も発せず襲ってきたが今回はウォーと様々な声と走る大勢の足音が地鳴りのように周囲を覆った。

熊谷和尚が叫んだ。「かすみ縄が飛んでくる。引っ掛けられないよう注意しろ」

続けて菊川と石橋に指示した。「機動隊員には縄が見えないはずだ。混乱したら機動隊を救いに行ってほしい。その場合、二人はペア-になってお互い助け合いながら飛んでくる縄を切ってくれ。まだ行くな。私が行けと言うまで、ここで戦ってくれ」

菊川と石橋は「了解。わかりました」と言うと二人寄り沿うように動き邪鬼、魑魅魍魎の攻撃を待った。

かすみ縄を持った邪鬼のほとんどは機動隊が待機している中央部と左翼に向かった。

別院の守っている所にも十数人走りながら、かすみ縄を投げてきたが不動剣を構えている塩野谷と熊谷和尚の剣に当たると燃え上がり消失した。また菊川と石橋が飛んでくるかすみ縄を、刀でスパスパと切断するのを見て攻撃を止め引き下がっていった。

 ところが中央部と左翼では熊谷和尚が予想したとおり混乱していた。

かすみ縄は機動隊員には見えないため飛んでくるのを避けることが出来なかった。ジュラルミン盾に巻きついたたり、機動隊員の手首、頭などに絡まり締め付けられて初めて縄のようなものだと気が付いた。

ジュラルミンの盾が縄で引っ張られ数枚舞い上がるようにして邪鬼たちに取りあげられた。機動隊員の体に巻きついた縄は、取り外さそうと、又、引っ張られるのを防ごうと数人がかりで引っ張り返し邪鬼たちと力比べの様相になった。

熊谷和尚はそれを見て菊川と石橋に「行って、かすみ縄を切れ」と指示した。

菊川と石橋は直ぐに走るようにして左翼方向に向かった。行く前に二人は相談し菊川が前を走り縄を切り、引っ張る邪鬼などを倒すことに専念し、石橋は直ぐ後ろに控え二人に向かって飛んでくるかすみ縄や襲ってくる邪鬼や魑魅魍魎の襲撃を防ぐ役割を決めた。

菊川は防御の中央部でジョラルミン盾を引き摺り下ろそうとしている邪鬼の二人を切りつけ追い払うとピーンと張っているかすみ縄を刀でスパッと切り落とした。引っ張っていた数人の邪鬼たちは、どおっと将棋倒しのように後ろへ倒れた。菊川はそれには目もくれず先へ進み、襲ってくる邪鬼を刀で叩き排除し、どんどんピーンと張っているかすみ縄を次々と切断していった。

後ろに続く石橋は二人に向かって飛んでくる投げ縄を次々と叩き落し切断し弓矢や槍などで向かってくる者は峰打ちで打ちすえた。

石橋は剣道の練習時、五本の大きな樹の真ん中にアイマスクを付け盲目になり、立ち枝にロープを吊るし振り子のように揺り動かした丸太を体をすれすれに動かしよけ、避けきれない時は木刀で強く打ち返す練習をしていた。その成果のためか横や後方の死角からの投げ縄や攻撃にも易々と避け打ち据えることができた。

二人は戦いながら左翼の端まで行くと引き返し中央部まで戻るようにして往復してきた。

菊川は戻ると振り返り微笑みながら石橋に声をかけた。

「ありがとう。後ろにあなたがいるので左右、後方を全然気にしないで前方のみ専念して戦うことが出来た」

石橋も笑みを浮かべ言った。

「菊川さんの太刀さばき、すっかり変わられましたね。力強さと鋭さに感動いたしました」

熊谷和尚もそのやり取りを聞きながら微笑んだ。そして二人の息が全く乱れていない様子に安心した。

邪鬼の集団たちは二人の活躍でひるんで後退した。その間に機動隊員は助け合いながら奪われたジュラルミン盾を取り戻し体制を立て直した。


機動隊員も少しずつ目が慣れてきた。邪鬼魑魅魍魎の姿をおぼろげながら識別できるようになった者も出てきた。そして菊川と石橋の活躍の姿を見て逆に意気があがった。

「頑張ろう。勝つのだ。我々は絶対勝つのだ」と各班の隊長は叫び、隊員も合わせて邪鬼魑魅魍魎に向かって叫んだ。「頑張ろう。勝つのだ。我々は絶対勝つのだ。オーオーオー」と機動隊員全員が叫び警棒をかざし気合を入れた。

邪鬼魑魅魍魎はその歓声と勢いに押されるように、さらに退き始めた。

 ところが邪鬼魑魅魍魎集団の後方で何かが起きているらしく、大多数が退いて後退する中、坂の下後方から二ヵ所、逆の前方に向かおうとする集団があった。それが途中で衝突し合い騒ぎが発生していた。

熊谷和尚と菊川、石橋は右翼部分の階段下に居たが、気が付き階段を上がり邪鬼魑魅魍魎の集団後方を眺めた。何か異様な者がいて叫んでいるようだ。

その者は刀のような武器を振り上げ後退してくる集団を阻むように切り付けていた。刀に触れ倒れる邪鬼の姿も見えた。その者を中心に前方へ進もうとする集団と前方から後退して来る集団とは、もみ合うように混乱していた。

熊谷和尚は「後退するのを押しとどめようとする者がいる」と二人に言った。

しかし、邪鬼魑魅魍魎の大勢は二度の攻撃失敗で意欲を喪失しているようで後退の波は押しとどめられないようであった。

その内、諦めたのか異様な者は刀を振り上げるのを止め前面に向かってゆっくりとかき分け進んできた。

刀の精が石橋に囁いた「あの片方はわからないが、もう一方は鵺(ヌエ)だ。あの鵺こそ、このわしが戦い望んでいた者なのだ。こんどこそ倒してやる。しばらくお前の体は完全に、わしにまかせてくれ----。いいな」

石橋はうなずきながら「わかりました。ただ私から皆さんにあなたの存在を説明させてください。それから後は、あなたの自由にお任せします。いきなりだと皆さんは驚くと思うので私に言わせてからにしてくださいね」と言いながら、伊藤一刀斎が刀の精になった理由がこれで明らかになると石橋の胸は高鳴った。

「皆さん。ちょっと聞いてください。皆さんは既にお気付きですが、私の体には刀の精という剣の師匠が同居しています。この村正の刀を拾った時から私の体の中に入ってきて私に剣の道や生き方を教えてくれていたのです。その剣の師匠が皆さんに直接お話したいと言っています。あの敵について少し知っているようです。すいませんがどうか聞いてください」

熊谷、塩野谷、矢島和尚と菊川は何事かと石橋を見た。

「挨拶が大変遅れて申し訳ない」石橋の声は男の声に変わった。

菊川は石橋の表情が少しずつ老人に近い年長の男の顔に変化していくのに唖然としたが、やはり石橋の後ろに薄っすらと見えた侍風の男が剣を教えていたのだと納得した。

「いつか皆の前に出て私の正体を言わなくてはならないと思っていたが、つい億劫になり今まで出そびれてしまった。申し訳ない。私の名は伊藤一刀斎、私はかって右側の名は鵺(ヌエ)と言う妖怪と戦ったことがある。左側の妖怪は会ったこともないし知らない」

「あの妖怪は手が八本あるから源頼光が退治したという土蜘蛛だと思う。源頼光は宮廷を守る北面の武士で金剛剣を学びに高野山に来た記録がある」と熊谷和尚が皆に言った。

伊藤一刀斎は熊谷和尚を見た。そして少し微笑しながら言った。

「ありがとう。土蜘蛛ということで、ますます意図が分かってきた。敵は過去最強の妖怪達を呼び寄せ襲おうとしているのだ。あの片方の鵺(ヌエ)を、わしは殺さねばならない理由があるのだ。

わしが生きていた当時、突然出現した鵺(ヌエ)に京に住む多くの者が殺され家に火をつけられ苦しんだ。腕に覚えのある剣豪や役人が退治しようと何度も試みたが果たせなかった。十尺余りを軽く跳躍し俊敏で獣のように尻尾も付いている。

わしは一刀のもとに切り倒さなければ対峙している時間がたてばたつほど鵺(ヌエ)の超人的な体力的に圧倒され逆にやられると思った。

ところが、あの鵺(ヌエ)は非常に卑怯な奴なのだ。わしの家人を脅し、この刀、私の愛刀村正を隠させ突然襲ってきた。大勢で押し寄せ、わしの家族全員殺害したのだ。

わしは、まかない所にあった棒を持ち鵺(ヌエ)の部下を全員倒し後、一刀流波動剣の

必殺技で鵺(ヌエ)と戦った。

しかし、わしは鵺に負けた。

日本刀を持っていたなら、戦いで相手より先に棒が相手に当たっているので一刀のもとに切り下し倒し勝ったと思うが、棒の強い打撃を与えただけなので棒と鵺の長剣の相打ちの形になり、わしは死に、刀を持った鵺には打撲のみで致命傷を与えるまでには至らなかった。

わしは倒れ死ぬ直前、隠してあった村正の刀を偶然に見つけ鵺(ヌエ)に対する恨みをいつか晴らそうと刀の精となり、この村正の刀に住みつき機会を待っていたのだ。

鵺は絶対死なず生き延び、いつか必ず再びわしの前に出てくると思っていた。

わしは鵺と再び戦う日を、今度こそ村正の刀とわしの技を充分に使えるこの時を、長く長く耐え忍んで待っていたのだ」

熊谷和尚は、これではっきりと一刀斎の存在を理解できた。伊藤一刀斎の鵺との対戦の決意に同意し応援しようと思った。

その時「あの土蜘蛛は私が戦う」と熊谷和尚の脇から菊川が声をかけてきた。

「私にやらせてください。昔、源頼光という平安時代に生きた強い武士が高野山に来て金剛剣を学び土蜘蛛と戦い倒したのなら、私も出来るはずです。この時期に私が高野山に来たのも何かの運命か理由があるのでしょう。私がやらなければならない天命のような感じもするのです」

菊川は邪鬼魑魅魍魎の集団をけっ散らすようにかき分け前の方に出てくる不気味な存在、土蜘蛛の姿を睨みながら言った。

熊谷和尚は「頼むぞ」と同意せざるを得なかった。

熊谷和尚もこの対戦と、この時に何か強い意思、働きかけがあると思った。

菊川は伊藤一刀斎の顔を横から見た。一刀斎も菊川の目を見た。無言だったが、お互い「やるぞ」と言うかのようにうなずいた。そして二人は機動隊が守っている前面に静かに移動した。

機動隊員は前方から、おぼろげながら見えてきた邪鬼魑魅魍魎の集団の中から二つの異様な存在に最初から気がついていた。体格が大きいだけではなく、みなぎる殺気に圧倒され身震いする体を抑えようと必死になっている者もいた。

土蜘蛛の体はずんぐり丸みをおびていたが頭部は一つだが手が六本あった。そして六本の手にはそれぞれ武器を持っていた。

一番上は鎖鎌を持ち、二番目の左の手に刀を右手には短槍を構え、一番下左右の手には短弓と矢が入った矢筒をかざしていた。

そこに菊川と顔つきが少し男の顔に変わった石橋が、機動隊の前方にスルスルと恐れる風情も無く出てきたのである。

機動隊員は皆、その二人に、感動を覚えた。かすみ縄の襲撃による苦境を救ってくれただけでなく、今また恐るべき敵の前面に立っている姿に機動隊員は期待を持って見つめた。

矢島和尚は土蜘蛛の姿がだんだんに近づき、はっきりと見えてくると隣にいる塩野谷和尚に自分の考えが正しいかと思いながらたずねた。

「土蜘蛛のような異様な妖怪を実際に目にするのは初めてだ。誰もあの姿を見たらひるんでしまうだろう。

土蜘蛛は記録では刀だけとあったが、今度のやつは武器をたくさん持ち鵺より強そうに見える。いくら一刀斎さんの希望でも勝負経験の深い一刀斎さんを土蜘蛛に当て、菊川さんは鵺の方に替わったほうが良いと思ったが、あの鵺の虎か豹のような顔と目つき躍動感は土蜘蛛以上の力がありそうだ。しかも両方共、昔よりさらに成長し、かってない最強の敵となり現われてきたようだ」

塩野谷和尚も土蜘蛛と鵺から目を離さず、うなずき言った。

「狼皇子は土蜘蛛と鵺を復活させるだけでなく、さらにパワーアップさせたようだ。土蜘蛛は昔、一度は高野山の剣に敗北しているのに全く恐れている風はない。逆に自信もっているようだ。我らも菊川さんと一刀斎さんが、もし敗れたら、死を恐れず臆することなく戦おうぞ」

熊谷和尚は言いながら、その時、ほとんど別のことに注意力を向けていた。それは門の背後から静かに来る暖かい脈動する力のような感覚であった。

振り向き大門を見上げた。奥の金剛峯寺や多くの寺院、さらに奥の院方向から大勢の読経の声がさらに強く聞こえてきた。

「ありがとう」と熊谷和尚は思った。はるか後方で読経している皆のパワーが我々を覆い支援していると強く感じたからである。

その時、熊谷和尚は不思議なことに気がついた。大門の上部が一瞬、明るくなったように見えた。

目の錯覚かなと思い良く見ると「高野山」と一文字ずつ書かれた三箇所の篇額が夜光塗料のように鈍く青白く光っているように見えた。

塩野谷、矢島和尚も何かを感じたのか振り返り大門を見た。二人とも篇額が暗いが青白く光っていると思ったが声には出さなかった。錯覚だと思ったからである。しかし直ぐにお互い目を合わせ錯覚でないと知った。三人には明るさが少しずつ増していくのが感ぜられた。

突然「高」と「山」と書かれた額より青い強い光がサーチライトのように下に向かって発せられた。三人は直ぐに振り返り、光の先はと探し求めた。

 光は菊川と一刀斎に当たり青白く浮き上がらせた。二人は光を浴び驚いたように体を少し震わせた。そして菊川と一刀斎はお互いに顔を見合ったが光から逃れようとはしなかった。逆に目を閉じ少し両手を横に上げ、光の中にそのままたたずんでいた。

篇額からの光は十五秒ほどで止まった。しかし光を受けた二人の体はそのまま青白く光っていた。

丁度、鵺と土蜘蛛は、やっと邪鬼魑魅魍魎を掻き退け一番最前列に出て菊川と一刀斎に対峙するところであった。そのため熊谷和尚らからは二人の後姿しか見えなかったが、体が少し大きくなり一層凛(りん)とした姿になったように見えた。

熊谷和尚は「彼らは御大師様のお力により青面金剛(しょうめんこんごう)に変化したのかもしれない」と塩野谷と矢島和尚に言った。

「青面金剛とは現在忘れられた存在だが帝釈天に仕え仏法を守護する鬼神として江戸時代以前は大変信仰された仏の一つだと覚えている。御大師様の加護によって彼らはもっともふさわしい姿に変身したのだ」と矢島和尚は感動しつぶやいた。

鵺と土蜘蛛は頭、顔から手足、衣服まで全て青く輝き変色した一刀斎と菊川の二人が、刀を持ち畏れも抱かず堂々と前面に待ち受け控えているのに驚き、いぶかしげに見た。

しかし、そんな鵺と土蜘蛛の姿を無視して直ぐに一刀斎が声を掛けた。

「鵺よ。覚えているか?  われは伊藤一刀斎なり。卑怯なお前と戦うために、われは四百年も待ったのだ。今やっと果たす時が来た。堂々とわれと立ち会いたまえ-----」一刀斎の声は少し高ぶっていたが周囲に響き渡った。

土蜘蛛が不審そうに鵺の顔を見た。鵺はそれを全く無視して笑い声をあげた後、一刀斎に怒鳴りつけるように声をかけた。

「笑止千万。再度討ち果たしてくれん。前回は、お前が刀でなく棒を持っていたので侮り隙を見せたが、今度は一刀の下にあの世に送ってやる」と鵺は言い放ち、嘲(あざけ)り笑った。

一刀斎は直ちに「おお、うれしきかな。正々堂々と剣の勝負ができるとは。今度はわが愛刀を使える。鵺よ。言っておく。周りを見よ。皆がわれらが勝負見ることになる。卑怯なことをすると一生もの笑いになると知れ」と言い放った。

そこで菊川が凛とした声で土蜘蛛に向け発した。

「私の名は菊川といいます。故あって高野山のお寺を守るため、あなたと勝負することになった。高野山に敵対するものは、この山で修得した剣で私が命賭けて戦い倒すつもりだ。私は、むやみに人を傷つけたくない。今なら止めることが出来る。直ちに戻り、戦うことを止めるよう狼皇子を説得せよ。さもないと必ず後悔することになる」

ところが菊川がまだ言い終わらないうちに土蜘蛛は無言で菊川に弓矢を素早く射掛けてきた。菊川は刀で驚く風もなく矢を払い落とした。

土蜘蛛は恐ろしいほど顔が真っ赤になり怒り菊川に向かって怒鳴りつけた。

「ほざくな、このヤサオトコ。我らは人間どもを滅ぼし我らの国を造るのだ。人間どもに支配され隠れ耐え忍んでいた我らは今こそ立ち上がったのだ。

狼皇子は我ら存在を束ね立ち上がった初めての王なのだ。こんどこそ我らがお前たち人間どもを支配する番が来たのだ。我らが数千年間耐え忍び死んで行った同胞の恨み恐ろしさを今こそ見せてくれん」

土蜘蛛と鵺は菊川と一刀斎を睨みながら静かに左右に移動した。

鵺は刀を抜き放った。

菊川と一刀斎もそれに合せて左右に別れ、菊川は土蜘蛛に、一刀斎は鵺に対峙した。

 鵺は絶対の自信を持って一刀斎の目を見つめた。

本能的に一刀斎は先に仕掛けてこないと確信した。この俺がどのくらい強くなったか鵺は、はかり見ようとしているなと判断した。

そこで逆に一気に勝負は決すべしと思った。

鵺は飛び上がった。狼皇子より修得した飛泳術で上を向いて高く高く飛び上がった。

百メートルも登ったであろうか、鵺はそこで一気に急降下し一刀斎を突き刺そうと下を眺めた。

対峙している菊川と土蜘蛛の姿、邪鬼魑魅魍魎や警察機動隊らの集団は見えたが一刀斎の姿がなかった。

鵺は狼狽した。

その時上の方から強い風の音が聞こえ、続いて青白く光る姿が直ぐ近くに見えたような感じを受けた。

鵺はまさかと思った。

「鵺よ、さらばだ」と一刀斎の声が聞こえた。

鵺が直ちに一刀斎の声した方向に体勢を変えたが遅かった。一刀斎の村正の切っ先が鋭く鵺の心臓を貫き背中に抜けた。

一刀斎は鵺が飛び上がると石橋の力を借り、鵺より早いスピードで死角の後ろ側から追いかけ追い抜くと上方より一気に攻めてきたのであった。

鵺の体はそのまま落下していったが地上五十メートルほどの高さの所で塵のようになり消失した。

石橋に刀の精の声が聞こえた。

「これで俺の長い間、待ちに待ったあだ討ちは終わった。

石橋よ。ありがとう、今になって思うと鵺に勝つには、この戦法、この一瞬しかなかったように思う。

奇妙なことに体が自然に動いていった。不思議なことだ。しかし倒すことが出来た。心から礼を言う。

さあ、この俺はこの世に思い残すことはなくなった。再び村正の刀に戻り行き先を考えることにする。さらばだ」

石橋が声を発する間もなく頭の中で「コキーン」と音がした。

その後、石橋がいくら村正の刀に「師匠、師匠、一刀斎師匠」と声を掛けても二度と返事は返ってこなかった。


菊川と土蜘蛛は鵺が高く上空に飛び上がった時から対峙したまま、何故、彼らは空を飛べるのかと驚きの表情で鵺と一刀斎の戦いを見ていた。

鵺の死は土蜘蛛に、大きな衝撃を与えた。鵺は絶対勝つと思っていたからである。

鵺と土蜘蛛の二人は我らが新しい時代を創る為に勝たねばならない。虐げられた者の苦しみを今こそ立ち上がり恨みを、はらさなければならないとお互い話し合っていた。

土蜘蛛は俺は勝つ。勝たねば、この俺が何のために生き返ったのか無に帰することになると気をさらに奮い立たせた。

土蜘蛛は弓に矢をつがえながら一番上の右手で鎖鎌の鎖を大きく廻し始めた。狼皇子のためにも失敗は許されないと慎重に振り回しながら菊川との間合いを広く十メートルほどに開けた。

はるか昔、平安時代に源頼光の金剛剣で敗れている土蜘蛛は狼皇子や鵺と語らい戦法を考え出していた。その方法は最初に弓矢を射かけ相手が防ぐために体制を崩したところに鎖鎌の分銅で頭部などを狙い打撃を与えるか、相手の刀に鎖をからませて刀を無能化させ鎌か刀で相手を倒す必勝の技であった。

鎖は徐々にスピードをあげ回転の不気味な音が周囲にこだました。

それに対して菊川は超然としていた。大門の篇額から光を浴び青面金剛に変化した時から心に迷いが全く消えた。不安とか勝とうとか、どのように戦うか考える気もなかった。ただ、刀を右側の体横に八双の構えのように立ててゆっくりと前へ進んだ。

土蜘蛛は菊川の態度を見て絶対の自信が揺らいできた。

さらに青白く神々しい光り輝く菊川の姿に気後れしている自分にいらだった。

菊川は鎖の先にある分銅が重苦しい音を発し回転をしながら、何時飛んでくるのかわからないのに全く恐れる風もみせず前進してきた。土蜘蛛は逆に少しずつ後退する羽目になった。

土蜘蛛はそんな弱気の自分に気合を入れた。お前は何をしているのだ。俺は強いのだ。絶対勝つのだと。

土蜘蛛は手を少し上げ腕を伸ばした。分胴は菊川の頭すれすれに回転してきた。

菊川の前進はそこで止まった。

今だ。と土蜘蛛は弓を菊川の胸元に狙い定め矢を放った。

菊川は予期していたかのように素早く右八双の構えから左に飛んできた矢を払った。そこに菊川の頭を狙って鎖鎌の分胴が回転してきた。菊川は左上に刀を掲げながら無意識に頭と体を低く沈めた。同時に分胴の下一メートルほどの鎖部分から刀に猛烈な勢いで絡んできた。

菊川は直ちに刀から絡まった鎖を振り払おうとしたが土蜘蛛が素早く鎖を引っ張り引き寄せた。

ピーンと張った鎖に繋がれた刀を持った菊川と、力一杯で鎖をたぐりよせる土蜘蛛との力比べとなった。土蜘蛛は引き寄せたら切りつけようと鎌、刀、短槍をかざしていた。

しかし土蜘蛛は六本の手を持っているが個々の力はそんなに強くないようであった。鎌と鎖を持った両手で力一杯引くが菊川も力強かった。

逆に菊川の力が多少優っているようであった。

菊川は刀の刃を自分に向け、刀の刃先の反対部分の峰に右手の手の平を当て両手で逆に鎖を引っ張りながら時々力を抜き、鎖が緩んだ隙に刀を回転させ鎖の絡まりをほぐし始めた。土蜘蛛はそれを見て直ちに上から二番目の右手に握っていた刀を捨て去り鎖にその手をかけ三本の手で引っ張り始めた。

これで力比べは菊川に不利となった。菊川はいくら両手で力を入れても徐々に土蜘蛛に引き寄せられるようになった。土蜘蛛は余裕が出来ると背中に吊るしてある矢筒から矢を取り出した。

菊川はこの段階で初めて決断を迫られた。この状態で矢を射掛けられると防ぐことが困難になる。このまま一気に土蜘蛛に接近して鎖がたるんだところで絡まった刀のまま相手を打ち込むか、または可能なら土蜘蛛が投げ捨てた刀を拾い上げ戦うか一瞬考えた。

その時である右横後方から石橋の声が聞こえた。

「この刀使って」と鋭い声であった。

菊川が振り向くと何時の間にか石橋が十メートルほど離れた所におり鞘に入った石橋の村正の刀を投げてきた。

菊川は絡まった刀を土蜘蛛の顔に目掛けて投げるように離した。土蜘蛛は少したじろぎながら後ろに下がり鎌で飛んできた刀を振り払った。その間に菊川は、ほとんど移動しないで石橋が投げ飛んできた刀を受け取りすぐさま村正を抜いた。

鞘は投げ捨て「行くぞー」と大声を上げ体は左側を前にした半身の形になりながら刀を下げすこし右後ろにずらし、金剛剣の構えで土蜘蛛に向かってすり足で飛び込むように突っ込んでいった。

土蜘蛛は直ちに二番目の左手に持っていた短槍を右手に持ち替え一番上の左手の鎌を向かってくる菊川に振りかざした。同時に菊川は右下から右上に振り上げた村正の刀を少し無茶かも知れないと思ったが力一杯土蜘蛛の鎌と肩を狙い斜めに振り落とした。菊川が自分でも驚くほど自然に体が動いた。

「ガアー」と土蜘蛛の腹の底から沸きあがるような声が聞こえ、血しぶきがドッと菊川の全身にかかった。菊川はひるまずそのまま両手で刀の柄を絞るようにしてさらに下へ切り下げた。鎌の柄が切られ飛び散り確かな手ごたえを感じた。

その時、石橋は土蜘蛛の右手の不規則な動きに不安を持っていた。石橋は「危ない」と叫んだが、後で考えると無言の囁きの思いだけだったのか定かではなかった。

しかし菊川は何かを感じたのか振りかざしてくる土蜘蛛の右手の短槍の動きを悟った。

土蜘蛛は菊川の革張り胴防具の脇の下の隙間を狙い、槍をそこに突き刺そうとした。菊川は左手を上げ腕の防具の一番厚くなっている小手頭で叩くようにして槍の刃を抑えつけ下に逸らさせた。

槍の先は革張り防具の胴に刺さった。菊川は槍の先が胴を突き抜けるかもと思ったが胴の厚さに賭け構わず、また村正の刀を両手で握りかえすと「トオー」と声をあげながら今度は左上に掲げ肩から右下に切り下げた。

菊川はしばらく、そのままの残身した格好で土蜘蛛の反応をさぐった。土蜘蛛の動きは完全に止まっていたが、まだ荒い息づかいと脈打つ心臓の音が聞こえた。土蜘蛛は最後の力を振り絞り菊川の胴に刺さった短槍をさらに深く突き刺さそうとしたが防具の胴を貫くほどの力はもう残っていなかった。

土蜘蛛は二十秒ほど立っていたが、やがて膝を落としゆっくりと前かがみに倒れていった。そして菊川の目の前で体全体が崩れると粉と塵に変化していった。菊川に降りかかっていた血しぶきも消失した。

菊川はその様を見て茫然となった。土蜘蛛や今必死になって戦ったことが幻のように感じた。

石橋がこの時、声を掛けてくれなかったら、そのまま、いつまでも幻の世界に浸っていたかもしれなかった。石橋の明るい声が菊川を現実に戻してくれた。

「菊川さん大丈夫 ? お腹に槍先が触れていないですか ?」

石橋は少し不安そうに尋ねた。

「ありがとう石橋さん。本当に助かった。絶好のタイミングで刀を投げてくれて-----。高野山の防具は大変頑丈に出来ているようだ。槍の刃は防具の裏まで届いていない。完全に防いでくれた」

菊川はニッコリと微笑み石橋の顔を見ながら防具の胴から刺さった槍を引き抜いた。



 この戦いの結果に邪鬼魑魅魍魎らは意気消沈しお互いの顔を見合わせながらジリジリと後退し始めた。逆に警察機動隊は手を叩き歓声をあげ石橋と菊川の勝利をたたえた。

 しかし石橋は喜んでいられなかった。何か山の下方から強い圧迫するような気配を感じたからである。石橋は不安から菊川に声を掛けた。

「菊川さん。一旦皆がいるところに戻りましょう。何か別の恐ろしいものが迫っています」

菊川もその言葉で我に返ったようになり、鎖に絡まり転がっていた刀を取り戻すと石橋に村正の刀を返しながら一緒に大門前の皆がいる所へ走った。

山の下方より雲がどんどん湧き上がり風が強くうなるように吹いてきた。石橋と菊川は熊谷和尚の傍に駆け上がると熊谷和尚は二人の肩を抱くようにして勝利を祝してくれたが、吹き上がる風の強さに立っておれず、かがみこむようにして不気味な変化を見守った。

「いよいよ狼皇子が直接のりだしてくるようだ」と熊谷和尚は二人に言った。

機動隊員も風であおられる盾に体を押し込めるようにして支えていた。

石橋は今まで感覚したことのない、突き刺すような強い力を感じた。そしてその発生する方向にある雲の一角を指差し「狼皇子は、どうやらあそこに居るようです」と叫んだ。

熊谷和尚はしばらくその場所を睨んだ。同じように強い気を感じ「そのようじゃな」とつぶやいた。

今は見守るほか手段もなく、狼皇子の攻撃を危惧しながら塩野谷、矢島和尚にどんな攻撃がくるかわからないが注意するよう促した。

狼皇子が居ると思われる黒雲は不気味に大きく音を発しながら渦巻いていた。

突然、下方より「ズズ―ン、ガラガラ、ギギギー」と鈍い音があちらこちらから聞こえてきた。

機動隊員は何事かと山の下や、音がする方向に目をやりお互いの顔を不安そうに眺めた。

「ウアー、あれを見ろ」とある機動隊員が指差した。

皆その方向を見てどよめきの声をあげた。

大きな樹が続々と空中に舞い上がっていた。枝や葉をつけたまま根ごと引き抜かれ、そのままの形で二百メ-トルほど高く上昇すると急に方向を変え大門に向かって来るのが見えた。

熊谷和尚は直感的に危険と判断した。

菊川、石橋や塩野谷・矢島和尚に「行くぞ、あの大きな樹が落ちてきたら避けようがない。大至急大門の裏側に避難しよう」と走らせるとともに「退避 ! 退避 ! 大門の裏に逃げろ」熊谷和尚は大門を指差しながら大声を出し機動隊員に向かって叫んだ。

横向きや縦に引き抜かれたままの姿、根が上に逆さまになった形など。いろいろな状態で大きな樹木は急角度に大門前に向かって集中し落下してきた。

機動隊員は急いで争うように大門に向かって避難を開始した。

最初は盾を持って走っていた者も盾を捨て、大木が辺りに大きな音を出しながら落ち悲鳴や救いの声が聞こえてくる中を必死になって走った。

大門にたどり着けば二層の屋根がなんとか防いでくれる可能性があると全員その場所に向かって走った。

機動隊員で大門の裏まで逃げることが出来た者は五十名もいなかった。ほとんどの隊員は落下した樹の下敷きになるか大木に遮断され動けなくなった。

石橋も熊谷和尚と落下してくる樹を避けながら走ったが大門までたどり着けなかった。しかし石橋の的確な判断で左、右と逃げ落下してきた樹の下敷きになることは避けられたが、熊谷和尚は大木に両脇が挟まれ身動きできなくなった。

しかし上部にも大木が覆っているためそれ以上、樹が落下してきても安全な空間になっておりしばらくは安心だと石橋と熊谷和尚は思った。

落下する樹木は恐ろしいほどの轟音を発しながらさらに落下し続けた。

熊谷和尚は石橋が涙を流しているのに気が付いた。石橋ともあろう者が恐怖で泣くはずがないので「どうしたのだ」と尋ねた。

石橋はこらえていたが熊谷和尚の一言で声をあげ泣きながら話した。

「菊川さんが矢島、塩野谷和尚さんを助けながら私たちより先に大門へ向かっていましたが、落下した大木が三人を直撃するように覆っていったのが見えたのです」

熊谷和尚はそれを聞くと大きく深呼吸をして無言になった。

悲痛の表情であった。

石橋は熊谷和尚の悲しむ表情を見て、逆に泣いてはいけないと我に返った。

倒木の間から大門を見上げた。大門も落下してき樹木のため前面は大きく破壊されたが全面的な崩壊には至らず形をかろうじて維持し後ろに逃げた人々を樹木の落下から守っていた。

石橋は悲しみと同時に狼皇子への怒りが猛烈に沸きあがってきた。

私が何とかしないと、このままでは大門は支えられないし裏側に避難した人も全滅してしまう。

石橋は数日前の夢の中である寺院の前で説教している僧、弘法大師様の姿を思い浮かべた。弘法大師様から肩に手を掛けられた時、父や母とも信頼できる友人とも異なる、石橋にはその気持をどう表現してよいかわからないが、とっさに、この人は絶対にうそをつかない心から尊敬し信頼できるよい人だと感じた。

そして今こそ私が弘法大師様のために立ち上がらなくてはいけないと思った。

幸いなことに樹木の落下は止まったようだ。この時しかないと思った。

石橋は直ちに側の横倒しになっている桜の大木に飛び乗ると熊谷和尚に向かって叫んだ。

「私、狼皇子と戦ってきます」

その毅然とした態度に驚きの表情を浮かべている熊谷和尚に石橋は手を振り返事も聞かず上空の黒雲に向かって飛び立った。

熊谷和尚は石橋には、もう聞こえないほど離れていることはわかっていたが「頼むぞ」と声をあげた。

青白く光輝き昇って行く石橋の姿を見ながら、もう高野山の運命は全て青面金剛に変わった光の武士に期待するほかなかった。


狼皇子は石橋の存在は早くから気がつき、光り輝く強い力の存在に少し懸念を持っていた。しかし、今まで直接石橋に会うところまでは至らなかった。

蘇らせ、さらにパワーアップした鵺と土蜘蛛の強さなら、どんな人間も対抗できないと信じていた。

さらに、これから戦いが拡大していくうえに彼らの能力を試し邪鬼魑魅魍魎に対する指揮統率力を育てるため今回、あえて大門の作戦を完全に彼らに任せたのであった。

それと、少し前に高野山の転軸山からの攻撃を開始した時に、空海はいまだ存在していることわかったが、鵺と土蜘蛛が仕掛ける戦いに高野山側と空海がどのような反応をするか間接的に見たかった。

それは狼皇子の大失敗であった。重要な、これから狼皇子の手足となる鵺と土蜘蛛を、さして活躍もしないうちに失い、従う邪鬼魑魅魍魎たちの中に失望と弱気がうかがえるようになった。

大急ぎで駆けつけ一気に勝負をつけようと大門の前にいる高野山側の勢力を空から樹木で力ずくの攻撃をしたのはそのためである。

この攻撃により、どんな者も下敷きになり死ぬか傷つき動けなくなると思っていた。ところが大門前の倒木のある一角の光が消えず逆に輝きを増した。

さらにそこから何かが飛び上がり空中に浮かびあがると、こちらに目がけて超スピードで向かって来るのが見えた。

狼皇子は鵺と一刀斎が大門の空中で戦っていた時、高野山のふもと矢立でしぶとく抵抗する残存機動隊との戦いを指揮しており、そのため一刀斎が空中に浮かんだ姿を見ていなかった。また飛燕して来る人間が存在するとは思いもつかなかった。

しかし狼皇子は不気味な笑いを浮かべていた。

久しぶりに力一杯戦える者がいることは、自分の能力をはかることができるという意味で望ましい良い機会だと思った。

狼皇子は昔より今は遥かに力がついていると知り自信を持っていた。

原因は、ある奈良の古い神社に秘匿されていた魔力ある七支刀を手に入れたからであった。中国の晋時代に百済に伝わり、百済王朝滅亡時、日本に亡命した王の一族によって持ち込まれた鉄製の刀であった。百済再興の時のためにと百済王を氏神として祭られた神社に隠されていた。

ところが再興もならず、年代がたち百済一族の子孫からも遠い過去の事として忘れられていたが狼皇子は刀自身の魔力にひきつけられようにして、その存在を知り手に入れた。

その剣は長さ二メートルほどあり、反りのない両刃の直刀剣であるが刀身の左右に枝剣が互い違いに三本ずつ伸びていた。

この七支刀を得たことで狼皇子の魔力は驚異的に上がり空を飛ぶ飛燕の術を覚え行動範囲は飛躍的に広くなったのである。

邪鬼魑魅魍魎らの協力を得て幅広く戦いを広げることができたのも七支刀による成果と飛燕の術があったからである。

狼皇子は強い風も気にもせず超スピードで迫り来る石橋の姿を少し感心して見ていたが背負っていた七支刀を取り出し七本の刃から鞘を抜き、ゆっくりと右手にかざした。

石橋は狼皇子から二十メートルほどの位置で止まり左手に鞘から抜いた村正の刀を持ち対峙した。

その石橋の姿を見て狼皇子は気持を隠すことが出来ないほどの驚きの表情を浮かべた。

まさか十代の若い女性とは全く予想外のことであった。一瞬だったが何か誰かに似ていると思ったが、直ぐに戦うことに意識を集中させた。

狼皇子の七支刀が光り輝き始めると石橋の村正の刀も少し光を放ち反応した。

狼皇子はやはりあの刀も妖剣のようだ。この若い女は空海の法力で体全体が青白くパワーアップしていると気を引き締めた。

石橋は、いきなり攻撃せず相手の出方をうかがいながら狼皇子を観察した。熊王と同じように全身毛に覆われていたが、顔の部分には毛が全く無く若い憂いを持った人間の顔つきである。

しかし、ひと目で熊王より遥かに強く計り知れない力を持っているように思え、瞬間的に、もしかすると負けるかもしれないと感じた。こんな思いは妖剣村雨の刀を持ってから初めてである。

狼皇子は狩衣のような水干と袴(はかま)を着ていた。石橋には京都や奈良の神主がよく着ている昔風の服装に似ているとしか思えなかった。袴の裾を膝上までたくり上げ、腕、足は白に近い灰色の体毛にびっしりと覆われていた。腰のベルトには、もう一つの武器、反りが余りない直刀のような刀を吊るしていた。

お互い静かに相手の力量を測るように睨み合っていると、石橋は下方から風に乗りかすかに大勢の読経の声が聞こえて来るのがわかった。

石橋は皆が応援している。高野山の命運は全て私にかかっており、この狼皇子を止める者は私しか居ないと気を奮いたたせた。同時に自分でも不思議に思うほど狼皇子に対する不安も薄れてきた。

石橋は再び気を取り直すと、さらに奮い立たせ叫ぶように狼皇子に声を掛けた。

「私はあなたを決して許さない。絶対に倒す。なぜ私たちのお寺を攻撃してくるのですか。もう大変な数の人々が傷つき死んでいます。私の親しい人たちも樹に埋もれ生死が不明です。もう止めてください。これ以上攻撃を続けるのなら私は、あなたをいかなる理由があっても許しません」

狼皇子は普通なら有無を言わさず石橋を直ちに攻撃していただろうが、この目の前に居るこの女に対しては、自分でも奇妙と思うほど闘志が起きてこなかった。逆に語りかけてみようという感情がわいてきた。一つにはまだ十代の若い女なのに空中に浮かぶ術を知り剣の技も人並み以上であることに興味を持ったからである。

「お前は古い昔の、この国の美しさを知らないのだ。雲の向こうを見てみよ」

指さす雲の隙間のかなたにはビルや隙間なく住宅が建つ和歌山市街が見えた。

「昔はこんなに破壊された姿ではなかった。美しい自然の緑豊かな国だった。人間だけではない全ての生きとし生ける者にとって楽しい生活が出来る地であった。しかし、今は違う。人間だけが栄える国ではないか。他の多くの生けるものが滅び死に絶えた。例をあげるなら我らに組し戦っている、あの邪鬼魑魅魍魎達も苦しんみ滅亡の淵にいる。俺も過去は人間であったが考えが変わった。私はかっては個人的な恨みで戦いを始めたが、今は滅び行く自然や邪鬼魑魅魍魎達のためにもう一度全てをひっくり返し再び昔の美しい国に再構築することに決めたのだ」

狼皇子は石橋に語りかけながら少しずつ右手にかざした七支刀をずらし右胸の前に持ってきた。

その段階になって石橋はもう試合は始まっていたのだと悟った。刀を構え圧力をかけなかったことにより狼皇子を自由に動かせてしまい失敗だと後悔した。

狼皇子の七支刀の枝剣が光ると石橋は少しまぶしさを感じた。同時に体が、いやに重くなってきた。さらに腕や肩、足などから力が抜けていくのが感じられた。

石橋は狼皇子の魔法のような術にはまってしまったと気が付いた。このまま攻撃を受けたら避けることができない、どうしたらよいのかと狼狽した。

狼皇子はそんな石橋の表情を探るように少しずつ前進してきたが、まだ直ちに攻撃はしてこなかった。

石橋はその時、左手に持っていた村正の刀が温かくなってきたように感じだ。

それは徐々に手先から腕、体に麻痺してきた筋肉をほぐすように伝わってきた。石橋は右手をゆっくりと動かし左手と右手の両手で刀を持ち下段の構えに変えた。熱は両手から全身に伝わった。

石橋は刀の精に小さい声で「ありがとう」とささやき礼を言った。しかし刀の精は無言であった。石橋は体の力が戻ると刀を正眼に構えた。

狼皇子はそれを見て前進を止めた。表情は変わらなかった。今度は七支刀を右横に移動させ八双の構えをみせた。

すると今度は強い風が狼皇子の後方より発生し石橋の方向に吹いてきた。

石橋は動ずることなく村正の刀を同じように右八双に構えた。石橋側からも強い風が起こり風と風が衝突し打ち消しあった。

狼皇子は三、四回七支刀を左右上下に降りかざし強い風を石橋に浴びせかけたが、石橋は波動剣などの学習で風の起き方や方向を知っているので難なく素早く移動し避けた。

石橋は少し自信を取り戻してきた。

そして狼皇子に対して少し微笑を浮かべ、今度は私が攻撃するよと暗示した。

狼皇子は石橋が微笑したのに気が付いた。その瞬間、理由はわからなかったが何故か懐かしい感情が起こり、ハッとした。しかし石橋が刀で切りつけてくると判ったので直ぐに体勢を変え七支刀を正面に構えた。

石橋は斜め横にいる位置から、真っ直ぐ右八双の構えのまま狼皇子に向かってためらわずに飛び掛るよう右片手だけで打ち込んできた。

狼皇子は石橋の動きの早さに驚いたが落ち着いて七支刀を体の左側に移動させ打ち込みを避けようとした。

当然、七支刀と村正の刀が当たり音が発生し強い打撃を感じるはずであった。ところが石橋は刃と刃が当たる寸前で止め、狼皇子の直前に接近したまま体制を整え、今度は両手で村正を握り右上段から力をこめ切り込んだ。狙いは狼皇子でなく七支刀である。

石橋は狼皇子の魔力は七支刀によって起こり支えられているのではと思った。その七支刀を破壊すれば狼皇子が頼る力の源泉を断つことになり、これ以上、危険な術や破壊行為が出来なくなると判断した。

石橋は、また七支刀は魔力を持つが切り合いに使う刀剣と異なり装飾用に近い柔らかい材質で作られているのではと考えた。そして菊川さんから高野山で修得した金剛剣は兜切りが出来るほどの強さがあると石橋に大門で魑魅魍魎と戦闘前、ほんのひと時、お互いの剣の技について話した時聞いた。

私も兜切りのように鉄のような丈夫な金属を村正の刀なら、たやすく切断できるはずだと刀の一点に意識を集中しながら振り落とした。

「ガッ」と音がした。

石橋は金属と金属が衝突し大きな反動が腕に来ると思っていたが不思議なほど、ほとんど感ずること無く村正の刀は振り抜けた。

七支刀は斜め上から切り付けられ中央部が真っ二つ切れら左右に六ヶ所ある支刀も二ケ所切断された。七支刀の先端部分は地上へ落下していった。

狼皇子は「ウヌー」と驚きの声を出したが、直ぐに七支刀を捨て去り、三メートルほど後ろに退きながら左腰に吊るした直刀を抜き構えた。

七支刀の鉄剣が竹を切るようにスパッと、ほとんど衝撃を感ずることなく切断されたことは狼皇子にとって信じられないことであった。

石橋の刀が鋭い名刀だというだけでなく、優れた剣の腕を持っている者の剣技一致した技だと率直に認めた。

狼皇子は少しあせった。まだ十代の女がこんなにも鋭い刀さばきと素早い動きをするなんて予想を超えていた。明らかに、このまま刀で戦った場合負けてしまうと思った。

負けるわけにはいかなかった。

手段はたった一つ鬼神の武王羅睺(ラーフ)に変身することしかなかった。あの転軸山で奥の院を直接攻撃しようとしたとき菊川に見られた姿である。

この変身には大変体力を消耗する。既に今日は高野山下の矢立でヘリコプターなどに対する攻撃、それに先ほどの大門前の樹木を引き抜き空から落下させた力技で二度も変身し体力を限界近く使っていた。狼皇子にとって大門前の戦闘は想定外であった。鵺と土蜘蛛で十分に対応できると計算していたからである。

しかし変身せざるを得ない。武王羅睺になれば、たとえこの女に空海の後ろだてがあっても破ることが出来る。

そこで狼皇子はさらに石橋から十五メートルほど素早く後退した。

後退しながら狼皇子は父親代わりの亜矢戸宇瑠珂から修得した陰陽道から鬼道につなぎ鬼神に祈った。

「陰陽を司る木、火、土、金、水よ。天地を動かし、大きな目と耳を持つ鬼神よ。我に力を与えたまへ--------。妙婆訶、我は五兵を持って七つの国を造らんとほっす----」

石橋は狼皇子が祝詞か呪文のようなことを呟きながら魔術のような何かを始めたと理解できたが、あえて攻撃をせず見守った。

七支刀が狼皇子の魔力の発生源と見ていたが、七支刀破壊後も狼皇子の体からギラギラと発散する強い力に何か別の恐ろしい術を仕掛けてくると気が付いた。

それがどんなものか怖い気もするが石橋は見てみたかった。剣の道を極めるために出来る限り経験を積み広く見聞をしておかねばならない。これも越えなければならない試練だと自らに言い聞かせた。私は御大師様に守られているのだ、恐がることはないと気を引き締めた。

狼皇子は呪文を唱えながらゆっくりと回転し始め、それにつれ少しずつ変形し体が大きくなっていった。強い風が吹き周りの雲が激しく狼皇子や石橋を中心にして回転し始めた。

石橋は強い風を避けるため少し上部に移動した。

狼皇子の体はますます巨大化し頭部から四本の腕のような塊が噴出し体全体が回転し始めた。「ウオーン」と叫び声のような音も聞こえてきた。

またはるか下方の山より「ズズ―ン、ガラガラ、ギギギー」と鈍い音があちらこちらから聞こえてきた。そこから樹木が抜かれ浮かび上がってくるのを石橋は見ることが出来た。

どうやら狼皇子のパワーは四本の回転している腕から発生しているようだ。

腕が動くたびに、その方向に樹木が移動した。各々の腕は分業されているようで樹木を引き抜く腕、上空に運ぶ腕、樹木を狼皇子の周りに集め周遊させる腕と巧みに操作している。

石橋は樹木が徐々に増し狼皇子と自分の周囲をゆっくりと回転し始めたのを見て危険を感じ樹木を避けながら半径五十メートルほどの楕円の外に移動した。円の内部にいると狼皇子による何か恐るべき攻撃を受けるのではと感じたからである。

これを見た狼皇子は、この女子は大胆に攻めるだけでなく慎重さも併せ持っている。本能的に危機を避ける能力があり単純な攻撃は通じないだろうと判断した。

狼皇子は石橋を睨みつけながら「本当の地獄凄風の恐ろしさはこれからなのだ。待っておれ」と呟いた。

風はますます強くなり樹木と吹き飛んだ木の葉や枝、根についていた土や石などが音を出しながら絡み合うようにして宙に舞い回転し、次第に石橋からは渦の中央にいる狼皇子の周りが覆われ姿が見えなくなった。さらに回転が強くなると竜巻のように雲の渦が下方に伸びてゆき地面に達すると、そこから木々や土を吸い上げるように上空へ運び、さらに回転している壁のようになった部分に吸収され補強するかのように厚みを増していった。

石橋はさらに少し上に風に注意しながら移動し回転し卵のようになった雲の固まり全体を眺めた。

直径は二百メ-トルあるのではと推計した。

石橋の刀と刀で狼皇子と戦おうという意図は不可能のようになって来た。石橋は困惑した。

突然、雲の塊より大きな大木が唸るような音を上げ石橋の方向へ飛んできた。石橋は充分に離れていたので余裕持って避けることはできたが、やがて次から次と木や大きな岩が襲ってきた。石橋が下方や左右に逃げると逃げる先にも飛んできた。完全に石橋を狙っていた。

そのため石橋は常に逃げるように移動せざるを得なかった。樹木、岩が少し飛んでくるのが少なくなったかなと思ったとき、今度は回転している雲の中から吹き上がるように雲の一部が噴出しちぎれる情景が目に入った。

内部から何かが噴出したことは確かであったが、それが何かは全く不明であった。

石橋は左右上下に方向は一定にせず樹木、岩の攻撃を避けるため移動していた。突然石橋の四十メ-トルほど前方の石橋に向かっていた大きな大木の中央部で爆弾が破裂したかのように大きな音がして破壊され、いくつもの破片が弾けるように落下して行った。

石橋はそれで何が起きたか解った。

先ほど卵の殻のようになった雲の塊から樹木や岩が湧き出てくるのと異なった雲の噴出があった。それは目には見ることの出来ない力が突出したのではないだろうか。その力が偶然に少し前に飛び出した樹木に衝突し爆発的に樹木が砕け散ったのだと判断した。

さらに続けて石橋の直ぐ十メートルくらい先を何かが通り過ぎ、それと共に大きな「ドーン」という音と衝撃が過ぎて行った。石橋はこの見えない衝撃波をまともに受けたら粉々になった樹木のように大変なことになると噴出の方向を注視し、さらに激しく蛇行するようにして移動した。

狼皇子はいずれ必ず避け切れなくなり命中すると思っていたが巧みに回避する石橋の動きを見てやり方を少し変えてみた。大木を三本同時に石橋の左右と下方へ投げかけた。そして少し間をおいて衝撃波を大木の上方に発射した。

石橋が左右下方と樹木が襲って来たら上方に避けるはず、そこを衝撃波が襲うという計画である。狼皇子はこの方法ならば必ず成功すると思った。

石橋は樹木の三本が自分を挟み込むようにして飛んで来るのを見て、直ぐに何か仕掛けがあると判断した。唯一の空間は上方へ逃げることである。しかしそこは衝撃波が噴出した時から飛んでくるコースと読み取っていた。とっさに石橋は下に移動し下方の樹木にまたがり上体を木の幹に伏せた。

狼皇子は急遽三本の樹木を上方の衝撃波方向に寄せた。石橋はまたがった樹が上に移動開始したので直ちに枝に手をかけ抱きつくように幹の横に移動しさらに手と足を力一杯下方向へ蹴るようにして樹木から離れた。

石橋が十メ-トルも離れないうちに三本の樹木は衝撃波に大きな音を発生しながら粉々に破壊された。そのまま樹木に跨っていたら大変なことになっていた。

急いで移動している石橋には幸いその衝撃による小さい木片が二、三個体に当たる程度で済んだ。

石橋は警戒のため、さらに五十メ-トルほど離れた上方に位置を取り、次の攻撃が来るのを待った。

石橋は逃げるだけの自分に叱咤するかのように叫んだ。

「私は何をしているの-----。逃げるのではない。戦わなければ皆を救えないでしよう」と自分自身を叱った。

石橋は刀を右手に持ち少し前進した。不思議なことに狼皇子からの攻撃は突然止まった。

雲は依然と不気味に回転していたが樹木や衝撃波の噴出は無くなった。雲の回転はゆっくりとなり下方の地面に伸びていた竜巻のような尾は短くなり、やがて雲の中に吸収され消えた。

石橋はどうしたのかと訝しげにみていると雲全体が回転しながら前進し始めたことがわかった。しかも少しずつ下方に向かって。その先には大門があった。

石橋には狼皇子はもう私にはかまわず直接大門、さらに高野山の中枢を攻撃しようとしていると気が付いた。

今なんとか止めなければならない。さもないと大変なことになると、何しろ動こう攻撃しようと思った。

この距離から熊王を倒した電撃の剣が、狼皇子が居ると思われる雲の中心部に届くかどうかわからなかったが当たれば倒せると思った。

しかし、もしも効果なかったらほとんど勝つ可能性がない自殺行為に等しいような無理やりの行動で、雲の中に突っ込み狼皇子にせめて一太刀を打ち込もうと決断した。

幸い石橋のいる場所からは青い天空が大きくのぞいていた。

石橋は天頂の赤帝、白帝、青帝の星に向かって祈るように村正の刀を右手で大きくかざした。

反応は直ちに現われた。石橋の青面金剛になり青白く光っていた体は白い光に覆われた。体が温かくなるとともに力がみなぎり手足の筋肉があちらこちらピクピク痙攣するような感覚が起きた。

体中に何かが充電されたかのような気分である。体からチリチリと音が発し、髪の毛など静電気を帯びたように逆立ってきた。

全身に力がみなぎりチリチリと痛くなって来たところで石橋はかざしていた刀を乱月の構えに変えた。

狼皇子のいる雲の固まりは徐々に動きを早め石橋の下方を大門に向かい近づいて行った。

石橋の乱月はさらに進化していた。

石橋は高野山に来る前にある教育テレビの放送で大きなヒントを得ていた。それは女子高校生などを対象にしたあるスポーツの基礎練習について体育大学の教授がボールを遠くに飛ばす方法を教えていた。

左足の使い方とともに右投げの場合は右肩ではなく左肩に軸があり肩幅分リーチが余計にあるとイメージし投げるのが良いというアドバイスであった。番組の中ではそれに従った生徒が皆、著しくボールの飛ぶ距離を伸ばした。

 石橋は早速それを取り入れた。右乱月の時は左肩、左乱月の時は右肩に軸があるようにイメージしてその時の足さばきも工夫して素振りを繰り返し練習した。

乱月は刀を回転させ相手の頭部(左右の面)を狙うが、電撃を発するためには恰も正面に誰かが居てその者に打撃を与えるかのような位置で刀を止め発生させなければならない。

石橋は静かに左上段に構えた。狼皇子の雲はさらに大門に近づきつつあった。

その時不思議な年長の女性の声が聞こえた。

「少し下に狙いをずらしてください」

その声は外部からでなく石橋の体の中から湧き上がるように聞こえた。

この時の石橋には何故と疑問を持つ余裕はなかった。どのタイミングで刀を振るかに集中していたため疑問ももたず単純に石橋は御大師様の命と思い素直に従うことにした。

石橋はこれ以上待つと危険になると判断し雲の動きと中心が来る位置を想定し刀を右から斜め下方に回転させた。

最初の電撃が雷鳴と光を発しながら雲の中に吸い込まれるように消えて行った。石橋は成否を確認しょうともせず右から左に回転した刀を左上段に変えると、流れるように左から右に回転させ二発目の電撃を雲に向かって発生させた。

変化は直ちに起きた。雲の回転と動きがゆっくりとなり外周にある雲が少しずつ自然の風に流され始めた。そして中で回転していた大量の樹木や岩などが、引っ張っていた糸が切れたように散り散りになりつつある雲の中から地上へ落下し始めた。

大門近くの山肌は落下してくる木々や岩の衝突する音と埃で大きな地鳴りのような地響きを辺りに轟かせた。その中には攻撃のために控えていた邪鬼や魑魅魍魎がいる地域もあった。

雲が散り散りになり薄れてくる中に元の姿に戻っている狼皇子の姿があった。狼皇子は生きていた。

しかも刀を右手に持ちゆっくりであるが石橋の方向へ向かってきた。顔面は蒼白になり赤く充血した目は異常なほど鋭く石橋を睨みつけていた。左手は力が入らないのかダラーンと下がったままである。

石橋は電撃が効果あったと自信持ったが、狼皇子の動きを警戒して刀を右八双に構えた。石橋に三十メ-トルまでに近づいたところで狼皇子の体勢が大きく変化した。

顔に苦痛を浮かべ刀を持ったまま右手で腹部を押さえた。そしてそのまま前かがみになり刀を手から離した。

刀はキラキラと光りながら落下して行った。

狼皇子はそれでも飛行をしばらく維持していたが意識が薄れ次第に落下し始めた。高さは地上より二百メートルほどの位置であった。最後には体勢がうつ伏せになり、回転しながら、時々それでも飛燕の術を試みているのかゆっくりと落ちて行った。

その行方を見ていた石橋に再び不思議な年長の女性の声が聞こえた。

「レイちゃん。あの子を助けてやって」と悲痛な声である。

石橋は何故こんな声が私の内部から聞こえるのか、それとも誰かのいたずらかと周辺を見渡しながら困惑した。

今度は強い声で言ってきた。

「私はあなたの背後霊です。狼皇子は私の子供なのです。どうか助けてやってください」

石橋は「そんなー」と声をあげながら直ちに大急ぎで下方へ向かった。まるで飛行機がキリモミするように頭を下に急降下して向かった。

上空八十メ-トル近くで石橋は狼皇子の手を掴むことが出来た。最初は落下の加速度と狼皇子の重みで一緒になって落下する羽目になったが、石橋はあわてずに狼皇子の後ろ側にまわり両脇を支え立ち上がった格好でどうにか安定した姿勢を得ることができると、やっと落下を止めスピードをコントロールできるようになった。

上空四十メ-トルのところである。

石橋は大門前に落下した樹木や岩がほとんど無い場所を見つけ着陸すると狼皇子を地面に静かに横たえるように置いた。石橋の息は弾んでいた。

少し離れたところより熊谷和尚の声が聞こえてきた。

「大丈夫か ?」

熊谷和尚は石橋が無事であったので少し安心したというような顔つきで木々を跨いだり飛び移ったりしてやってきた。続いて菊川がやって来た。右足を引きずっていた。

石橋は菊川が生存していたので少し驚いた表情を浮かべた。

「菊川さんに倒木の中から引き出し助けてもらった」と熊谷和尚は言った。

菊川は沈痛の表情で「矢島和尚さんと塩野谷和尚さんは樹木の下敷きになったようだ。いくら呼んでも返事がない。声を掛け探しているうちに熊谷和尚さんからの呼び声がきたのでそちらの方に向かい助け出すことが出来た。その後、和尚と二人であなたの戦いを下から見ていました。光の武士の意味を私は知らなかったが、まるで超人を見ているようだった。

あなたが急降下して狼皇子を救おうと必死になっている姿に私は何故か感動して涙が出てきた。救ってくれてありがとう」菊川は言いながら石橋に頭を下げた。

傍で聞いていた熊谷和尚は「救ってくれてありがとう」という言葉がどういう意味なのかとオヤッという感じで菊川と石橋をまじまじと見つめた。

そして二人に奈良か平安時代の高貴な人の姿が浮かんでいるのを見て覚った。

そういうことなのかと-----。

狼皇子は人の気配と声で意識が戻ってきた。墜落する途中、急に落下スピードが緩み石橋に支えられ助けられているという感覚はあった。しかし全く手足の自由が利かなくなり意識がなくなっていた。

狼皇子は薄目で声の方向を見た。石橋と二人の男の姿が確認できた。

狼皇子は、この体はもう生命を維持できない。陰陽の術・他祇沙を使いまた誰かに乗り移らねばならないと思った。二人の男の内の若い方、菊川に乗り移ろうと考えた。

その時であった。はっきりとした女性の声が聞こえた。

「乙二の皇子(おつにのみこ)よ。止めなさい」

狼皇子は、驚き少し頭を上げ、目を大きく開き声がした方向を見た。

「乙二の皇子よ。もう止めなさい」と石橋が再び声をかけた。

狼皇子は石橋の顔を不思議そうに見た。声は、あの忘れもしない懐かしい母の声である。

石橋の耳に、あの背後霊の声が囁いた。

「的(まと)を少し外していただきありがとうございました。しばらく私はあなたの体を完全に借ります。私はあの子を復讐と執念の生涯から救い出さなくてはいけないのです」石橋はうなずき同意した。

「乙二皇子よ。私はあなたの母、吉子です。

あなたに大変な苦しみを与えて本当に申し訳ないと、いつも私は悔やんでいました。私たちが穏やかな優しい時代に生まれていたならば、もっと静かな楽しい幸せな生活をおくれたのに、私たちを死に追いやったあの時代を恨みます。

私は川原寺の一室に閉じ込められた時、何とかあなたに逃げるよう連絡しょうとしたのですが、逆に秘密が漏れ乙二皇子の存在を謀略側が知ることになったのです。それで、あなたは襲撃されたのです。私は短慮でした。人を信用しすぎていたのです。本当にかわいそうなことをしてしまった。私はそのことをあなたに伝えたいため千二百年も様々な人の背後霊として生き、この機会を待っていたのです」皇妃藤原吉子は涙を流しながら狼皇子に語りかけた。

狼皇子は涙を浮かべ聞いていたが静かに力をしぼるようにして言った。

「母上様。あなたは決して悪くはないです。悪いのは策略を計った安殿親王なのです。弟の伊予親王の名声が高くなり疎ましく思い我ら家族を抹殺したのです。

私は狼皇子として復活してから徹底的に調べました。

調べれば調べるほど藤原の各一族の醜い姿が判ったのです。その結果私はこの国に幻滅し一度滅ぼさないと変わらないと結論づけたのです。

国や民の幸福を計るのでなく藤原の南家、北家、式家、京家の四家に分かれて各々の一族の利益の有無で政(まつりごと)決め陰謀と讒言で他家を陥れようと常に隙をうかがい動いていたのです。

私は一人で戦いを始めたのです。ところが復讐とこの国を根本的に変えようとしているところに唐から帰ってきた空海が現れたのです。

私は負け傷つき再び出現できないようにと、ある洞窟に封じられていたのです」

皇妃藤原吉子は何もかも知っているというように、うなずき苦しみながら語る狼皇子の傍に歩み寄り頭を抱き上げた。

「私はあなたに再会したいと望んでいましたが、こんな形でわが子に会えるとは思いもしなかった。

弘法大師様が全てをお話してくださいました。あなたが襲撃され死を逃れるために狼に乗り移ったようだと。それで私は解ったのです。虫さえ殺すことが出来なかった心の優しいあなたが狼の攻撃的な猛々しい気質の影響を受け変わってしまったのです。

乙二皇子よ、世の中はすっかり変わりました。恨むべき相手は全員いなくなり、遠い過去の事になったのです。もうこれ以上戦うことはやめましよう。もう恨みを忘れましよう。私と一緒に彼岸の地へわたるのです。そのために私は弘法大師様にお願いし、この世に残っていたのです」

その時、思いがけないことが起きた。

菊川が体をピクピクと震わせ頭を数回振り異常な行動をした。熊谷和尚は出てくるなと思いながら菊川の顔つきが変化してくるのを認めた。

菊川はそのまま前に進み狼皇子の脇にいる母親の石橋(藤原吉子)の肩に手を置き声を掛けた。

「母上、許してください。私が一番悪いのです」

母親の石橋(藤原吉子)は驚き振り返り菊川の顔を見上げた。

「まさか------、伊予親王------。あなたは伊予親王。伊予親王ですね」と声をあげた。

伊予親王は涙を流しながらうなずいた。

「伊予親王です。母上、私が悪かったのです。安殿親王の一派に騙されたのです。

もし母上の命を助けたければお前は謀反に加わっていたと自白せよと脅迫されたのです。私は愚かにもその誘いにのって心ならず自白したのです。浅はかでした。もっと強い意思を持っていれば防げたのに、結果的に安殿親王の一派の目的は果たされ母も私も毒を飲まされたのです。

私は謀反の汚名のままでは素直に死を受け入れられなかった。

また母が彼岸に渡っていないと知り、この世に残り姿を捜し求めていたのです」

母親の吉子はそれを聞くと涙がさらに溢れでたが、拭おうともせず伊予親王をしっかりと見つめ言った。

「私も親王を救いたいために罪は私にあり伊予親王は全くあずかり知らないことなのですと刑部省の役人に親王を救うにはそれしかないと言われるがままに罪を認めたのです。

それが逆に私たちを、反逆を認めたと苦しい立場に追いやることになったのですね。私も浅はかでした」

狼皇子は苦しさで顔をゆがめていたが二人の顔を見上げ、うめきながら「弟(おと)と母上、こんな時に同時に会えるなんて何という幸せか」と呟き目を閉じながら喜びと懐かしいという表情で一呼吸おいた。そして心の中で神よ仏よ、私にもう少し時をいただきたいと祈りあえぎながら小さい声で言った。

「弟(おと)と母上のお互いにかばいあい助けようという気持を聞いていると昔の皆で一日中楽しく夜遅くまで遊んだことが懐かしくよみがえって来る。

何故私たちの平和な生活が崩されたのだろうか。

刑部省の役人たちや安殿親王の一派には私たちの、そんな気持は通じなかった。我々を陥(おとしい)れるのが目的なのだから遅かれ早かれ自白しなくても母上も弟(おと)も毒を飲まされたでしよう」

狼皇子はそこまで言うと意識が薄れ始め無言になった。

母親の吉子は狼皇子の頭をさらに少し高く抱くようにして耳元で言い聞かせるように囁いた。

「私は弘法大師様にお願いしたのです。私の子である伊予親王と乙二皇子に一目でよいから再び会わせて欲しい何十年、何百年かかってもよいからと。それが今やっとかなったのです。

私はあなたの怒りを理解しますが多くの人の命を奪ってしまった。

それは死をもってつぐなっても償いきれないことです。しかし私にも責任があります。私は一緒にあなたの罪を背負います。

私たち親子三人はやっと長かった今生から冥土に旅立つことが出来ます。もう私たち三人は決して離れずどこまでも一緒です。さあ、全てを忘れ去り私たちは弘法大師様におすがりしましょう」

母親の吉子は言い終わると狼皇子を強く抱きしめた。

狼皇子は目を開けていなかったが両目から涙が滴り落ちた。


石橋のこの段階になってから意識が少しずつ自分に戻ってきたのが感じられた。

すると再び背後霊の吉子の声が聞こえてきた。

「レイちゃん。どうもありがとう。子供たちに会えて私の長年の宿願を果たすことが出来ました。これでやっと三人そろって彼岸に向かって行くことができます。本当にあなたは素晴らしい人でした。言葉に表せないほどの恩義を頂きました。どうもありがとうございました。これからはあなたの幸せを彼の地から祈ります」

同時に石橋は何かが体から通り過ぎていったような感覚を受けた。菊川も何か異常な感覚を受けているようで目を閉じ体を少し震わしていた。


 突然、熊谷和尚の声が聞こえてきた。石橋はその声を聞き完全に我に返った。

熊谷和尚が辺りを見回しながら「おお、これは瑞雲かも知れない」と感動した声をあげた。

まだ夕方には少し間があるのに上空は赤く染まり明るい紫や黄色などの雲がたなびいていた。

大門だけでなく周りの山々も赤い光に全てが包まれていた。

 


 松田副管長は金剛峯寺の大広間で全国から総本山の危機を救うために集まった大勢の僧侶らと必死に読経をあげていた。

大門で戦闘が開始された時、読経する僧侶の全員は時々かすかなどよめきと叫ぶような声が大門方向から聞こえ戦いが始まったことがわかった。自然に読経のスピードが上がってきたが松田副管長は金剛鈴を数回鳴らし皆に落ち着くように促すとともに先導するように読経し通常のスピードに戻した。

しばらくすると風が強く吹き大きな樹と樹が衝突する音も聞こえ大変困難な状態になっていることが判ってきた。やがて高野山の全ての寺院、それに周りの山々が異様で強く不気味な大気に包まれ鳴動し始めた。僧侶たちは負けまいと逆に少しでも応援し味方を励まそうと声をさらに上げ一生懸命に祈った。最高潮に達した異常な雰囲気の中、連日連夜の読経による熱気と疲労に耐えられず倒れ伏す者も出てきた。


突然、音は止み静かになった。

しかし松田副管長は隣に据わっている管長とともに何も考えずひたすら祈り続けた。

ふと何か明るくなってくるのを感じた。大広間全体に夕陽が入ってきたように赤い光に覆われた。松田副管長は知らなかったが奥の院や高野山の全ての祈っている寺院も赤い光に覆われた。

松田副管長は、ほのかに不思議な甘い香りが漂い始めているのを感じた。

ハスの花の香りではと思った。

深呼吸するようにその香りを吸い込んでいると夜を徹して読経していたほとんど全員の僧侶は不思議な感覚を持った。

疲労がすうっと体中から消え朝のさわやかな空気に浸ったような力がみなぎって来るのを感じた。

松田はこの時、戦いが終わり勝利したことを確信した。

急いで隣に座している管長に小さい声でささやいた後、大広間を出た。無人の宗務所に行くと車のキーを取り大門へ車を走らせた。


大門の裏側は誰も居なかったが大門の大屋根は崩壊し二階部分にくい込んでいる姿が見え驚きと大変な事態があったことを知った。直ちに車を止め降りると走るようにして門の前に出た。

そこにはさらに驚く光景があった。

松田は呆然した。何が起きているのか理解できなかった。

大門の攻撃に使われた樹木や大きな岩が次々と空中に浮かび上がり列を成して右手の弁天岳上空から東方へ続々と飛行しているのが見える。高野山下の矢立方面からも数十本列をなし飛んで来るのが見えた。

門前では機動隊員が大騒ぎして動き回っていた。樹木が浮き上がると、その下に埋まり負傷していた機動隊員の体が見る見るうちに骨折や血が流れて負傷していた部分が修復されもとの姿に回復した。死亡していた者も息を吹き返した。

奇跡が起きていた。

なかなか起き上がらない者に対しては救急本部の隊員がAEDを持って駆けつけた。他の機動隊員も人工呼吸や心臓マッサージをして救護班を助け、次々と死亡した者、瀕死の重傷を負った者を復活させていた。

周囲は薄青色の雲のような靄に覆われ、空全体が赤く輝いていた。松田は金剛峯寺の大広間よりも強いハスの花の香りを感じた。

どうやらこの薄青色のガスのような空気が奇跡を生んでいるのではないかと思えた。

 松田は熊谷和尚らの姿を探した。

大勢の機動隊員が動き回っている後方の大門の左端に熊谷和尚達が居るのに気が付いた。

熊谷和尚は生き返ったが、まだ体中に痛みが残る塩野谷和尚を、青面金剛から普通の姿に戻った石橋は矢島和尚を支え立っていた。

菊川も近くで機動隊員の心臓マッサージをしていた。

松田は勝利を確信していたが五人の生存に喜びがこみ上げ思わず「御大師様。ご援助ありがとうございます」と声をあげた。

松田は機動隊員の一人ひとりに「ありがとうございました。皆さまのご協力本当にありがとうございました」とお礼を言いなが熊谷和尚が立っている方向に向かった。

機動隊員は皆感動した表情を浮かべていた。

ある機動隊員は「私は宗教というものを信じない無神論者だったけれども今日から変わります。これからたびたび高野山にお参りに来ます」と握手を求め、「この高野山は仏様がお守りしている霊山だと再認識しました」と感激した表情で訴えかける隊員もいた。

松田は丁寧にその度に両手を握りお礼を言った。

 松田は熊谷和尚らの前に立つと満面の微笑みを浮かべた。

「ご苦労様でした。皆さんのご無事の姿を見て私は本当にうれしく思っています」と言ったが直ぐに今度は逆に涙を浮かべ下を向き、それ以上溢れ出る涙と感動で声が出なくなった。

熊谷和尚は松田副管長の側に寄り松田の肩を叩き戦いの間、読経の声がどんなに我々を勇気づけたことかと話した。

そして、ゆっくりと戦いのあらましと石橋が空中に飛び狼皇子を最後に倒したこと、狼皇子と家族の哀しく千年を超えて、この世に迷っていたことを語って聞かした。

話しながら熊谷和尚と松田副管長は期せずしてお互いに何か変わったように感じた。

髪の毛も黒くなり全体が十歳くらい顔つきも若返ったように見えた。

 松田副管長は熊谷和尚の言葉に感激し石橋の両手を握った。

「あなたは私たち高野山の真言宗門だけでなく日本国を守り救うために派遣された仏法の守護神阿修羅のような存在です。私たちを助けるため命をかけて戦っていただき我らお礼のいいようがありません。

あなたは私たち宗門に勝利だけでなく新たな力を与えてくれました。あなたより私たちに誇りと自信を授けていただき、私たちは今日この時から新たな出発になるでしょう。

高野山とあなたとは切ることの出来ない強い絆が出来ました。これからも高野山へいつでも尋ねてきてください。私たちはあなたを何時如何なるときにも歓迎します」

「ありがとうございます。私も時々ここに来たいと思います。この山に来れば弘法大師様に会えるのですから」と石橋は微笑し、はにかみながら答えた。

松田はこの時石橋はさらに魅力が増しただけでなく人間がさらに大きくなったように感じた。石橋の手を握った時、暖かい熱を感じ、それが手、腕とのぼり胸に伝わり、さらに体中の上半身と下半身へと分かれて順々に流れて行く不思議な感覚を覚えた。

大門前を覆っていた樹木は全て飛び去り倒れていた機動隊員のほとんどは自分の力や同僚に支えられて、ふらつきながら立ち上がった。包帯をされたが立ち上がるところまで回復していない者もいたが救急隊員が的確に治療を続けていた。

ところが熊谷和尚等がいる二十メートルほど先の場所で十人くらい囲むようにして一人の倒れている隊員に対して人工呼吸やAEDを当てて治療続けている所があった。

菊川も協力して復活するよう手助けしていたが効果ないようだった。

菊川は立ち上がり熊谷和尚の方を見て駄目だと手を振り、何故だろうかというように首を傾げながら五人の所へ来た。

「一人だけ回復しないのです。樹の下で潰され即死状態だったが体は完全に元に戻ったはずだけれども、いくら人工呼吸、心臓マッサージやAEDで電気ショックを与えても心臓が動かないのです」と沈痛な表情で言った。

その菊川の姿を見ていた石橋は、その時、誰かにせかされたような気がした。

「私がやってみます」と石橋が少し自信なさそうに言った。

菊川や熊谷和尚たちは驚いて石橋の顔を見た。石橋はそのまま走るようにして倒れている機動隊員の傍に行った。熊谷、松田和尚らも急いでその場所に向かった。

石橋は屈み右手をその倒れている人の胸に静かに置いた。周りには半ば諦めていた機動隊員が集まり何をするのかと見つめた。

三分ほどすると胸や腹部が上下に少し動いたような気がした後、その機動隊員は目を開けた。

周囲で見守っていた他の隊員や救護員はどよめき「太田、助かったのだぞ。良かった、良かった」と大騒ぎになった。

菊川は石橋にどうやって救ったのですかと驚きの表情で聞いた。

石橋は目で合図して菊川を少し皆から離れた場所に連れ、他の人に聞こえないように小声で言った。

「この隊員の人は生き返りたくなかったようです。死にたい死にたいと、いつも思っていたようです。このままの死んだ状態で生き返ることを拒否していたのです。

それで私は生きることの楽しさ、生きる勇気を彼の体にそそぎました。

同僚たちは、みんなあなたが復活することを望んでいるし、あなたを励まし、回復するよう一生懸命努力していると、みんなの期待と願いを吹き込んだのです」

石橋は自分でもこんなことが出来るのだと、まだ戸惑ったような顔つきであった。

何となく倒れた隊員の胸に手を当てた時、その人のいろいろな思いが石橋の頭の中に入り込み訴えてきた。石橋はそれに対して一生懸命に生きることを説得したのであった。

石橋はさらに何故助けに行こうと行動をしたのかと思い返そうとして大門から和歌山の市内方向に目を転じた。

そこに邪鬼と魑魅魍魎がいる所から、頭の白い邪鬼がこちらに静かに歩んでくるのを見つけた。その邪鬼の後方には邪鬼と魑魅魍魎の集団が十人ほど控えこちら側を見つめていた。

石橋は急いで熊谷和尚と松田副管長に告げようとした。

邪鬼と魑魅魍魎らも人間らと同じように傷ついた者、死んだ者が復活し一時大騒ぎであった。

熊谷和尚は既に出現に気が付いていた。熊谷和尚は塩野谷、矢島和尚と松田副管長に後ろに下がるようにと言うと前面に出て行った。石橋と駆けつけてきた菊川が熊谷和尚の所に行こうとすると塩野谷和尚は引きとめた。

「こちらに歩いてくる頭の白い邪鬼は戦意を持っていない。どうやら我らに対して交渉か何か話し合いを望んでいるようだ。一人でこちらに向かって来るのだから我々が大勢で行くと引き返してしまうかもしれない」と二人に大丈夫だと首を振りながら言った。

菊川も三十メートルほど離れた白い邪鬼の姿を良く観察し敵意を持っていないことを知り安心した。髪が白髪であったが豊かな総髪で集団の長老のようである。

熊谷和尚とその邪鬼の長老のような者との話し合いは十五分くらい続いた。熊谷和尚と長老はお互い穏やかに話した後、各々の位置に戻った。

邪鬼と魑魅魍魎の大勢の集団はしばらくその場所に留まっていたが、やがてゆっくりと静かに山を下り始めて行った。

 熊谷和尚は邪鬼魑魅魍魎らはたいへん感謝していたと松田副管長と四人に言った。

「彼らも落ちて来た大木や岩などで多数が傷つき、命落とした者もいたそうだ。それが高野山側と同じように負傷した者の傷が治り、命も吹き返した。

敵として戦った我らさえも救っていただき御大師様にたいへん感謝していた。

この高野山の地域は彼らにとって理由は不明だが昔から入ることや近づくことも禁止されていたそうだ。今回初めて、その理由がわかった。この高野山は御大師様がお守りしている神聖な地だから、我らが今まで信仰している神が畏れ入山をタブーにして止めていたのだ。これからもそれは守っていきたいと言っていた。

しかし、今回で御大師様の慈悲の心がわかり、我らの今までの信仰を変える大きな切っ掛けになる可能性もあると、あのサマラージュという邪鬼の老師は述べていた。

また私たち武器を持つ高野山の聖と侍二人にも感謝していた。命をとろうとせず決して必要以上に我らを傷つけようとはしなかった。慈しみの心を感じられ、それでこの地から去るに当りお礼を述べたかったと面会に来たそうである。

 私が驚いたのは彼が私たちと同じ言葉を話したからだ。邪鬼と魑魅魍魎とは人間の言葉と異なるのに彼は話すことが出来た。しかも和歌山弁が混ざった言葉だ。

理由を聞いて解ったが、忘れていた懐かしい名前が出てきた。彼の話だと、まだ生まれて一才くらいのとき和歌山の何処の山か不明だが山奥の車道で車同士の交通事故があり、大きなトラックが衝突後暴走したまたま近くで事故を目撃していた彼の親夫婦目がけて暴走して来た。

母親は避けられないと思い、とっさに赤子を道脇の草藪に投げたが夫婦は車に撥ねられたようだ。事故車の運転手や交通事故処理の警察官には邪鬼の姿を認識できないので、そのまま邪鬼の親子はその場に置いておかれたままであった。

そこに私のかっての同僚だった円鐘和尚が通りがかったのだ。彼は頭脳明晰で将来は絶対に高野山の重要な地位につくと思っていたが残念ながら体が弱かった。子供の時した輸血が原因で肝臓病を患っていた。それできつい修行を続けられず和歌山の中辺路町の小さな寺の住職になっていたのだ。その円鐘和尚が泣いている邪鬼の赤子に気付き拾いあげた。その後孤児の赤子をショウタと名を付け人間として言葉や学問を教え本当の父親のように愛情を持って育てた。円鐘和尚は病気が悪化して死ぬ間際にショウタを呼び寄せ、彼の母親は息を引取るまで赤子のお前をあやし人間たちに泣き声が気付かれないように必死に守っていたようだと話し、お前の幸せは人間界にはない和歌山の奥、果無山脈のどこかにお前たちの集団が住む所が必ずある。そこへ行き生活するよう言い残したのです。円鐘和尚の死後、ショウタはその寺に墓に埋められた円鐘和尚に育ててくれた感謝を述べ最後のお参りをし、自分の父親と母親の墓にも別れを告げ仲間の住む地を求め果無山脈の方向に向かった。

仲間が住む場所は幸い直ぐにわかったが言葉や習慣も全く異なるために若いのに髪の毛も白くなるほど大変苦労したが現在は集団の長になっていると語った」

松田副管長も円鐘和尚という人物を知っていた。何度か親しく話したこともあり、どこか療養を兼ねて田舎の小さい寺に行きたいと言われ紹介したのは松田副管長であった。確かその後、肝臓がんで亡くなったと聞いていた。


 その時であった。右上の空に光の固まりがゆっくりと高野山から上っていくのが見えた。いつの間にか赤く染まっていた空と明るい紫や黄色などの雲が消え周りの山々の赤い光も薄れてきた。

熊谷和尚ら五人は全員空を見上げた。光の中に人がいるのが見えた。

機動隊員の中でも光に気が付いたものがいたが光の中の人までは認識できなかった。

先頭は剃髪し法衣を着ているのでお坊さんのようである。

松田副管長が「おおう! あれは御大師様のご姿ではないか」と感激の声をあげた。

直ぐ下に藤原吉子と伊予親王がいた。続いて乙二皇子が狼皇子の姿から若い二十歳くらいの青年の姿に変身して、手を上にあげてにこやかに笑いながら追いかけていた。

母親の吉子は時々下を見て子供たちが続いてくるのを微笑(ほほえみ)ながら確認していた。さらに少し遅れて一番下から、ゆっくりと少しふてくされた顔つきで腕を組んだ一刀斎が時々上を眺め方向を見定めながら上昇していた。

二百メ-トルほどの上空で弘法大師は熊谷和尚らの方向に体を向け五人の方を見た。

そして右手を上げ手のひらを前に向け左手は下げ手の平の指は五人の方向に傾けた。

施無畏印と与願印の印相である。右手は衆生の畏れを除き左手は衆生の救済と願いを叶える意味である。

塩野谷、矢島和尚の二人は両眼から感激の涙を流しながら膝まつき手を合わせ読経を始めた。時々、しっかりと御大師様のお姿を記憶にとどめようと流れ出る涙を手で拭いながら上空を見つめた。

松田副管長はこのような大きな歴史的場面に参加できたことに感謝をした。

高野山開山以来の大きな法難、試練であったが乗り越えたことに、ますます信仰に誇りと確信を持った。そして、これからやらねばならない四国の破壊された三寺の再建と高野山の運営に自信を持つことが出来た。さらにより一層の高野山の真言宗を世の中に広布し発展させる、それが今回私に与えられた重要な役割だと思った。

熊谷和尚は松田副管長とは別のことを考えていた。

今回の法難は我らに大きな転機になり、高野山を発展させるために、この機会に我ら別院は増員を図らねばならないと思った。

松田副管長とも相談し高野山に参じてくれた宗門の中から若く優秀な者を見つけ第二、第三の菊川を育成しょうと考えた。

邪鬼魑魅魍魎の姿を見ることができる人材は、ますますこれから必要不可欠である。これが自分にとって引退するまでの役割と使命だと思われた。

 菊川は上っていく光の帯を見ながら、高野山と真言宗の底なしのような深さと広さを再認識した。これから山を下り再び和歌山警察に戻り結婚もするだろうが、高野山の魅力にひきつけられた自分を知り、これからの自分の人生に高野山が大きく影響して来るだろうという思いが沸きあがってきた。

 石橋は一番下を行く一刀斎を凝視し目で追っていた。ふと一刀斎がこちら側を眺めたように見えた。

石橋は手を振り上げ大声を上げて叫んだ。

「一刀斎先生-----。ありがとう。師匠の教え一生忘れないからね-----」

石橋は流れ出る涙を拭こうともせず手を振り続けた。「ありがとう。本当にありがとう---」ここからの距離では聞こえないと判っていても辺り構わず手を夢中に振り続けた。

伊藤一刀斎が石橋に気が付いたのか石橋の方向を見た。

そして確かに石橋を確認した。その瞬間、石橋は気持が通じたと思った。

一刀斎が照れくさいように微笑した。心の中で「お前は俺の最後の最高の弟子だ」と思った。

石橋は一刀斎の笑うのを初めて見た。涙がさらに溢れ出た。




エピローグ

 熊谷和尚は翌日四国に向かった。四国にある襲撃された岩家寺、仙光寺、香音寺の調査をするためである。

邪鬼の長老ショウタが四国の破壊した三寺の地下で我々の仲間が狼皇子の指示で何か大きな秘密土木工事をしていたと教えてくれた。

そして今日の明け方のことである。御大師様が再び熊谷和尚の寝ている傍に尋ねてきた。

熊谷和尚らの活躍と助力を感謝するともに狼皇子が岩家寺、仙光寺、香音寺で大雨の日に大量の雨水を深井戸に流し込み地殻の断層に刺激を与え大地震を起こす工事を密かに行っていたと告白したという。直ちに熊谷和尚に行って防ぐ工事を開始してほしいと語った。

熊谷和尚は香川県と愛媛県の警察、それに県と市の土木課の協力をもとに立ち入り禁止になっていた寺院の跡を調べた。

跡地には邪鬼、魑魅魍魎の姿は全くなかった。しかし調査にたずさわった県と市の土木専門家が、溝が掘られ巧みに破壊された寺院の建物の残骸、柱、瓦、塀などで隠されているのを発見した。水の流れという観点から注意して検討しないと見落としてしまうほど良く出来ていた。

水路は大きな口を開けた空井戸に続いていた。井戸の深さは、この日は準備不足で調査出来なかったが深く横穴もあるようであった。台風や集中豪雨で大雨が降れば一斉に雨水は井戸に流れ込むようになっていた。

直ちに雨水が流れ込まないように井戸の周りにコンクリートの壁が作られ応急措置がなされた。


 石橋は毎日元気に和歌山から大阪の大学へ皆より少し遅れたが通学している。

大学は同じであるが薬学部ではなく医学部に変わっていた。異例の取り扱いで医学部に途中編入された。

戦いが終わり高野山を下山した夜、弘法大師が石橋のところにやって来た。

石橋の支援を心から礼を言い、良く私が与えた試練に耐え成し遂げてくれた、あなたが居なかったら私たちは狼皇子に勝利することは出来なかったと感謝するとともに石橋を諭した。

「あなたは今まで常に問題が起きると正面から見据えて立ち向かい解決してきた。ところが一つだけあなたは自分の心を欺いている。大学は薬学部でなく医学部に行きたいのに母親の収入が少ないのを思い悩み、少しでも医学に近いところにいようと薬学部を選んだ。私はあなたへのお礼と感謝の印として医学部に行けるように支援させてもらいます。

既に金剛峯寺の松田副管長に指示し医学部で直ちに勉学できるよう手配するように言ってあります。さらにこれからのあなたを金銭面だけでなく全てに関して支援するように話してあります。松田副管長は彼女に少しでも役立つ機会があればと思っていたので必ずあらゆる人脈を通じて手配すると約束しました。松田副管長はあなたに援助できる機会を与えてくれたと逆に喜んでいました」

石橋はその時、やはり私は大師様の大きな手の内で働いていたのだと気が付いた。

弘法大師は石橋のそんな心の動きも見透かしていた。

「あなたは今、気が付いたようだが、何故、私があなたに、こんなにこだわるのかは、あなたがこれからも、この国に、それに私に必要としているからです。

将来、必ず再びあなたが役立ち働く場面が来ます。その日のために勉学に励んでほしいのです。あなたは私の宝物なのです」

石橋は、すべては弘法大師が意図し計画した通りに自分は動いていたことを知った。

しかしながら大変であったが本当に充実した日々であった。短い期間であったが一生懸命、毎日走り続けるような苦しさがあったけれど、後から思うと楽しいことばかりの思いが湧き上がった。

普通では会うことも見ることできない幅広い、いろいろな人々と知り合うことが出来た。

これからも大変になるが、やってみよう。いや、自分のためにも充実した日々を過ごし、それを楽しむためにも弘法大師様の指示に従おうと思った。

石橋は「ありがとうございます。医学部で勉強したいんです。是非お願いいたします」と微笑を浮かべ御大師様に向かって頭を下げ言った。


 妖刀村正は石橋から菊川に託された。菊川は和歌山市警察に市内で起きた辻斬り事件の凶器として調べるよう持参した。二週間後、市警の本部長が直々高野山の松田副管長のもとにやって来て検証は終わったので返しますと返却された。

松田副管長は熊谷和尚を呼び寄せ除霊の儀式をした後、これ以降、霊などが入り込めないようにと刀の柄に封印をした。そして熊谷和尚が吉野の如意輪寺まで出かけ住職に封印の理由を告げ説明し手渡した。


盗難から始まった妖刀村正の旅は終わった。

村正の刀は再び宝物殿の元にあった場所に置かれた。

現在も如意輪寺の宝物殿で封印が刀の柄に付いたままの形で見学に来る人々は見ることが出来る。


      完







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妖刀村正と時をつなぐ少女 @tonegawa_abiko

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