嗜好品
〈金森 璋〉
嗜好品
ゆらめくように、煙草の煙が部屋に舞った。
白と、薄く紫がかった煙。
口から吐いたものと、燃える煙草の先から出る煙。
それらが混じりあって、部屋の中で滞留している。
ぼくはまた、煙草に口をつけた。深く煙を吸って、吐く。
深呼吸にも似た自傷行為。
それが、この世界の中で一番、ぼくにとって幸せな行為なのだ。
昔からぼくは自滅願望が酷かった。
痛み。苦しみ。悲しみ。
そういったものを受け、心に沁み込ませるのが好きだった。
否、今でも好きだ。
痛みがぼくの身体を突き抜けるたびに、夢見心地になるほどの快楽物質が脳から分泌される。
心の拠り所は、むしろそれしかない。
それが『ぼく』なのだ。
「ねえ、隣いい?」
彼女との出会いは、それだった。
大学でものけ者扱いされているぼくに、彼女はにこにこと笑ってそう言ったのだ。
どうぞ、と伝えると「ありがとう!」とさらに笑顔になって、僕の隣に座った。
学科を受けて、終了の挨拶をすると。
「久保くんだよね。あの、これから時間ある? 一緒にお茶でもどう?」
彼女はそう言った。ぼくは彼女の名前すら知らなかったし、顔も知らなかった。
しかし幸いなことに時間はあったので、暇つぶしでもしたいのだろうと彼女の提案を了承し、学内のティールームに行くことにした。
ティールームで、ぼくは常々頼んでいるアイスコーヒーを購入し、彼女はホットのキャラメルラテを注文した。
「あれ、こんなに寒いのにアイスコーヒーなの?」
彼女は不思議そうに尋ねてくる。ぼくは猫舌だし、身体に熱がこもる質なのでいつもアイスを頼んでいるのだ、と説明した。
「そうなんだ! 身体のこと気をつけてるの偉いね、私なんかダイエットしてるのにまたキャラメルラテ頼んじゃったよ~」
苦笑いをしながらラテのカップを受け取る彼女。可愛い、という感想を持つのが普通なのかもしれないが、ぼくは自分のことなんだから自制しろ、としか思わなかった。もちろん、口には出さなかったけれど。
彼女は一緒に座れるソファ席を選び、ぼくと向かい合う。
「あのね」
照れくさそうに、彼女は言葉を切り出す。
「私、大学に入ってから久保くんのこと、ずっと見てたんだ」
ずっと。
ずっとというのはどういう意味か。
「ずっとはずっとだよ。入学してから、ずっと。同じ学科だってわかったときは、とっても嬉しかった」
そう言う彼女の顔は、どことなく紅潮しているように見える。
「私は、久保くんのこと好きだよ。真面目に授業を受けるところとか、すごくクールに他人と接するところとか、一匹狼なのに全然寂しそうに見えないところ、とか」
大きなお世話だ。だってぼくは望んで独りを選んでいるのだ。当然のことだろう。
「でも、私はそういうところが好きだよ。今みたいな、ちょっと人を突っぱねるようなところも含めて」
そこまでマゾヒスティックな人間は久しぶりに見た。きっと何かを勘違いしているのだろう。誤った道を進むのはよくない。今の内に更生するといい。
「ううん。私は間違ってないよ。このまま、好きでいたい」
……どうしても、なのだろうか。
「どうしても、だよ」
ならば、と。
他の人間に見えないように、反対に彼女によく見えるように、ぼくはセーターの袖を思い切りまくり上げた。
腕には、びっしりと赤や白や桃色や黄色の傷が、縦横無尽に走っていた。
「ひ……」
彼女は、顔を引きつらせる。
そうだろう、とぼくは思った。
こういうものを見た人間は、だいたい苦い顔をする。
しかし、今回は――ぼくの、予想を超えた。
「ほ、ほんと……だったんだ……」
何が、と。僕は疑問を顔に浮かべる。
すると、彼女はさらに顔を紅潮させて、大きな声で言った。
「ほんとだったんだ! 久保くんが私と同じって!」
ぼくと、同じ。
その意味は、きっと。
「私もね、ほら」
そう言うと、彼女はおずおずと自分のカーディガンの袖を、シャツとともにまくりあげた。
ぼくと同じように、腕にびっしりと、縦横無尽に傷が走っていた。
つまり、仲間探しか。
精神疾患持ち同士で、なかよしこよししようと、そういう訳か。
ぼくはそう言い放って、袖をもとにもどす。アイスコーヒーのカップを持って、立ち上がろうとした。
「待って!」
彼女に、腕を掴まれ制止される。
「私はあなたになりたいの! あなたのために生きたいの! あ、あなたが好きなの、お願い、捨てないで……」
残念ながら、同じような人間と一緒に暮らすような、そんな嗜好をぼくは持っていない。
ぼくは腕を振り払うと、さっさとティールームを出た。
次の日のことだった。
彼女は、紅い花になった。
彼女は、ぼくの暮らすアパートの屋上から、それもぼくの部屋の前を通り過ぎるように、ぼくの部屋の真下に彼女の身体が来るように落下していた。
ぼくはそれを見下ろしながら、煙草を口に咥えた。
ジッポで火をつけて、深く煙を吸い込む。はぁ、と吐き出す。
冬の空は、高い。ぼくはそれを見て、名前も知らない彼女のことを思う。
きっと、昔から彼女は自滅願望が酷かった。
痛み。苦しみ。悲しみ。
そういったものを受け、心に沁み込ませるのが好きだったのだろう。
否、生きている間、ずっと好きだったのだろう。
痛みが彼女の身体を突き抜けるたびに、夢見心地になるほどの快楽物質が脳から分泌される。
心の拠り所は、むしろそれしかない。
それが『彼女』なのだ。
ああ、ぼくと彼女は似ていたんじゃないか。
思考も、嗜好も。
彼女は煙草を吸うのだろうか。
もう手遅れになってから、そんなことを思考する。
今日も、嗜好品はとても美味しい。
【了】
嗜好品 〈金森 璋〉 @Akiller_Writer
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