それは歪な
椿叶
それは歪な
結婚は自由にならない身だった。私の家は決して家柄が良いわけではなかったけれど、それでも守るべき家はあった。
「お前は綺麗な女の子になって、良いお嫁さんになるんだよ」
そうしてうちの家を大きくしてね。母はことあるごとに私に言ってきた。だから恋愛などしても無意味なことは、小さな頃から分かっていた。
それでも、感情とは自由にならないものらしい。気が付けば、私はある人に恋をしてしまった。いつか終わらせなければならないとしても、まだ自分が誰のものでもないのなら、その自由を謳歌していたいとも思っていた。
きっと向こうも、私が好きだった。彼は裕福だったし、仕事もうまく行っていた。口紅やら簪やらをこっそり買い与えては、私が身に着けるのを楽しみにしている人だった。目があう度に表情を和らげるところも、言葉を交わすたびに頬を赤らめる姿も、鮮明に思い出せる。私もそれくらい彼に恋していたのだ。
その恋も、私の結婚を機にあっさりと終わりを告げる。父が結婚相手を見繕ってきたのだ。
私の夫になる人は、どうも私自身には興味がないらしかった。彼が望んだのは私の家が持つ人脈だ。商売をうまくいかせるための。決して、私ではない。
言葉の少ない日々が続いた。彼は私を見ようとすらしなかった。同じ場所に住んでおきながら何も生み出さない関係が虚しくて、心から何か大事なものが零れ落ちていくような気がした。
あの人が恋しい。結婚できたのがあの人だったのならきっと、ただの挨拶だって宝石のように見えるだろう。朝日が差し込むだけで、世界が明るくなるように感じられるだろう。
そう思ったら夫の事が少しばかり憎くて、ただあの人に会いたいという気持ちだけが募った。
夫が仕事で出ている時を狙って、私はあの人に会いに行くことにした。きっと今日なら、彼の店でせわしなく働いているだろう。客に紛れてこっそり言葉を交わせばいい。
大丈夫。会うだけ。決して、そこから先に進みたいわけではない。
ああでも。彼が私を欲しいと言ってくれたのなら、きっと傾いてしまうわ。
乾いた笑いが零れた。そんなこと、許されるはずがないのに。
虚しさを覚えながら、夫から隠すようにして保管していた箱を開けた。ここには、あの人からもらった口紅や装飾品が入れてある――はずだった。
ない。ないのだ。愛おしい人からもらった一切が消えていて、代わりにそこにあったのは、夫から与えられた簪だった。
「どうして」
ぽつりと声が零れた。これがないと私、この先をどう生きていったらいいか。
涙があふれ、頬を伝っていく。それが床に一粒の染みを作ったとき、後ろから声がした。
「君があいつをまだ好きなのを知っていたよ」
「旦那様……」
仕事に行っていたのではなかったのか。そう聞きたかったけれど、彼の表情はひどく強張っていて、とても聞けやしなかった。
「好きでもない人から言い寄られても嫌だろうと思って、そうっとしておいたけれど」
彼が歩み寄る。その一歩一歩がひどく重たく見える。
「あいつのところに戻ろうとするなら、話は別だ」
夫の目は私を捉えて離さない。瞳の奥に見え隠れするものがひどく恐ろしくて、私はその場に縫い付けられたようになってしまった。
彼が私の手を掴む。節くれたった指が食い込んだ。
「どうしようか。弁解を聞いてあげてもいいけど、まあ僕が悪いところもあるからなあ」
「だ、旦那様。申し訳ありません」
「良いよ別に、謝らなくて。でも、不倫は良くないね」
お許しを。震える言葉は彼によって塞がれた。
「やっぱり、気持ちはちゃんと伝えなくちゃいけなかったね。僕はね、君のことを愛しているんだよ」
彼の愛は歪だ。それに気が付いたのはその日が最初で、後日逃げ出そうとした私は、更なる不自由を強いられることになる。
こんなことになるのなら、あの人に会いに行こうなんて思わなければよかった。
誰かを愛したことを後悔しなければならない状況が、ひどく心を蝕む。夜に涙を流す私を、夫は愛おしそうに見つめるのだった。
「そんなに泣かなくても、君はちゃんと僕のものになるよ」
それは歪な 椿叶 @kanaukanaudream
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