恋に恋焦がれて

─────────………・・・・・・ ・ ・

男は改めて、正面に佇む小さい歴史を見下ろした。

またそこから放たれる照明たちは、行き交う人々を見下ろしている。


なぜ自分が。なぜこんなことを。


そんな問いに答えは用意されていない。ただ男に下された命令は一つ。

「午後十一時に、李有会を爆破すること」だ。


あれからというもの、一日はとてつもない速度で過ぎ去った。

徹夜で逃走ルートを確保し、北海道行きの飛行機の当日券を予約した。

これを終えたら、きっと田舎でのんびりと過ごし、そこで愛する女性と会って、一生を安寧に終えるんだ、男はそう自らを一日中無理矢理昂らせていた。

男は無人ビルの屋上に登りきり、例の重火器を組み立て始める。誰からも見られてはいないだろうか、監視カメラに映ってはいないだろうか、いちいちそんな風な心配を振る舞っていた。


男は照準具を覗き込む。

窓の奥には、人々が見える。楽しく談笑し、お互いの肩に手を回したりして、至って無害な生活を送っているようだった。それを侵してしまう権利が自分にあるのか、果たして正当なのか、男は一日中、そんな理由を必死に探していた─────


が。が、だ。刻々と時間が近づくにつれ、ヒートアップする血液の巡りと脳の疲弊は、恐怖や罪悪感に起因するものではなく、興奮だと、愉快さを兼ね備えた昂りだと、男は気付くことにしたのだ。


今思えば、十八の頃にこの町でマフィアを始めてから、ずっとこういうのを望んでいたんだ。度胸があるとかいわれてたのは、別に名誉とか、仁義とか、そんなのが欲しかったからじゃない。


... ずっと死の境でウロウロするのが、たまらなかったから、ずっと。


それで何度も死ぬ境界線を見てきたから、本来は曖昧な境界線なのに、それが段々と見えるようになってきて、全部に慣れてちゃって、人生がほんとうにつまらなくなった。だから愛を経験してみることにしたんだ。愛だけは、きっと俺を救ってれるはずだって。


男が歴史的建設をとうとう破壊してしまおうとトリガーに指をかけた頃には、彼は自身の張り裂けるほどの勃起に気づいていなかった。男は力を指に込める、それはまるで走者がマラソンのラストスパートにギアを入れるように、そこに疲弊や鼓動の臨界点を考慮する余裕はないように、そして─────────


放たれた。


余談であるが、類稀な才能を持ち合わせ、他と一線を画す人間には、とある傾向があるのだという。というのも、彼らになにかしらの感動、悟り、達成が与えられた時、あたかも感動してないかのような様子を見せるというのだ。

いくらか立ち尽くしたのち、建物に向かい、リュックサックに大量に詰め込まれた手榴弾を投げ始める。それに飽きたと思ったら、手元の拳銃を片手で持ちながら撃ち始める。しかしその間、雄叫びをあげたり、興奮している様子はどこにも現れることなく、そればかりか口を固く閉し、瞳の焦点は燃え盛る炎を映したままだった。まるで銃の反動に耐えるかのように我慢し続ける冷徹なマシンであったが、その心の奥には、瞳の焦点が掴んで離さない景色同様の、どこまでも広がる熱が繰り広げられていたとはずである。その興奮というより恍惚というのは、男の心中で働いていたのだ。今にも叫び出したい気持ちを敢えて抑えることで、この快感をずっと長く保ちたいという、似合わなくとも理性的な判断を下したのだ。一連の動作を終えて、男の焦点は、やっと離れ、月を掴むことにした。ただ不思議と、その月は自分だけ照らしているような気がした。じっとみつめているうちに、自然が作り出したスポットライトは男を、すっかりロマンティックな切なさに酔わせてしまったたのだ。燃え盛る炎は喜劇の証、下々が泣き叫ぶ声が主旋律で、甲高く鳴るサイレンが伴奏、ちぐはぐな不協和音だけれども、その時だけは自分がスターになったような気がした。


男は走ることにしたのだ。準備した荷物も、更新したパスポートも、用意した計画も、全てを忘れて彼を一つ限りの恋慕を思い出していた。こんなに心臓が高鳴るのは初めてだ。今にも崩れ落ちそうな膝とは対照的に動いてしまう脚を、エンジンさながらの心臓がトリガーを弾く。加速が促される。飛ぶように走る。走るように飛ぶ。


「あの人に会いたい。」


その走り方はまるで小学生の全力疾走のように、またその恍惚と興奮の混じった形相は、恋を発明したteenagerのように。喜劇的な錯覚を背に、男は遠くを目指した。

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インシュス 間宮 @Ga-Ga

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