見慣れた愛人

男は行きつけの寿司バーにいた。一口飲んでは置き、また十秒もたたないうちに一口飲む、その行為を何度も繰り返してしまう強迫観念は、男の緊張を裏付けていた。もうすぐこれほどアルコールが回ってほしいと願う機会はこれからあるわけもないし、今までもなかったはずだ。

というのは、男は午後八時に、この店の窓際のテーブルでとある女性と会うことを約束していたのだ。一時間も前からスタンバイしている彼の姿勢は常に真面目の一途を辿っていた。こうでもしなければ体が、ぐでんと、まるでバターと小麦粉をじっくり煮込んだシチューのように崩れてしまうような気がしたのだ。


「すぅ...ふぅ...」

その体躯こそ落ち着きを振る舞っているが、心の中にはカオスが灯っている。


「仕方がないな」とまるで自分自身のカオスを鎮めるように、男はそれとなく周りを見渡した。男は自らの無意識が、妙な習慣を行うことを許すことにしたのだ。手と、付属した指らは、テーブルの下に銃を取り出し、こっそりトリガーに手を掛ける。マフィアでならば暗黙的な了解を得ているズータウンとはいえ、店の中でその存在をちらつかせてしまえば、出禁では済まされないはずだ。

脳に戦慄が駆け巡る。

しかし、死角で繰り広げられるルール違反というのは、スリルの一言では片付けられないほどの没頭がある。

恍惚心を抑えて、インプットに全神経を集めはじめた。

片手で大きいセミオートを隅々まで触る。それはもう、まるで恋人の体を入念に触っているように、だ。ただ不自然なほどまっすぐ目の前を見つめる男の様子は、自然さを演出しようとしている下心を隠すに至らないのだった。

隅々を二、三度触り尽くして、幾分か満足したかのように思えた直後だった。一人のガンマンとしての性であろうか、途端に男はテーブル下の銃口を自分に向け始めたのだった。勿論、男にはその銃口が見えていない。しかしいつしか、男の視線は正面ではなく、テーブルの一点、銃口があるであろう位置にずらされていた。その熱い眼差しは木造の厚いテーブルを焼け切ってしまうのではないかと、心配になるほどに。スライドをゆっくりと奥に押し込み、トリガーに差し込んだ親指に力を少しだけ込める。その様子はまるで、腕のどこからか奥側が、曖昧な境界線が、男とを別々の意思に分断しているようだった。もっとだ。もっと深く押し込め。頭に血が登って、腕がしびれる。自分が他人の生を支配していて、また自分は誰かに死を支配されていると、で、無意識は流動的に連なり続ける。その二極的なオーガズムを深く味わう無意識はまるで男の意思決定かのように振る舞っていた。しかしふとした、曖昧な瞬間だった。瞳はその正体に以前から気付いていたのに、意識の順応はそれよりずっと後だったのだ。

彼の心のブラウン運動のエントロピーが、徐々に収縮してゆくのとともに、

男の無意識状態は───────



───────現実へと引き戻される。

ぶわっと。ぶりゅっと。嫌悪してしまう擬音を連想させてしまうように、男の汗腺は洪水を起こしていたという。男は焦った、目の前に女性が座っていることに気づいたからだ。無意識と意識が切り替わっている、そのコンマ数秒間のうちであるが、ふと視線の端がを捉えてから、男は時間が遅くなるのを感じた。いつからそこにいたのか、汗を早く拭かなければ、なにもかも見られていたとしたらどう言い訳するべきか、男の脳には数ある弁明が繰り広げられていた。しかし男の視線が正面を向くのに時間が経った後、結局男の口から出た言葉は極めて平凡であった

「あ、今日、天気、いい、ですよね」

翻訳機の音声のような声が漏れてしまった。男の動揺はあからさまだった。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。一世一代の、チャンスなのだ。男の脳は、この絶望的状況を巻き返す最適解を、まるで量子コンピューターのように模索し続けていた。数秒が一時間程の思慮に及ぶであろう、男の精神的な連続の一様は、人生史上一位に輝く最高密度に濃縮されていたはずである。これでもなく、あれでもなければ... そしてあとすこしで、3秒もあればそれに辿り着いていたというときのことだった。男の処理速度は急激に0へ落ち込んでしまう。しかしその要因は、媒体のヒートオーバーというよりも、たまたま誰かの足首が引っかかって電源プラグが引き離されたような雰囲気と似ていたかもしれない。その足首の正体というのは、目の前の女性か、いや...


「ねえ、下。」


目の前の、女性だと信じていたはずの男性的な低い声、である。狂気じみた目の前の出来事を処理するのに、CPUはもはや足りていなかった。脳死に男は、その不可解な人間の命令に従ってしまうことになる。首を少し動かして、下を確認する。自分が銃を持っていることがバレたのか、脅されるのだろうか、しかし出禁で済むのなら... そんなことに頭を巡らせているうちに、男は追加の一言に戸惑うこととなる。


「ちがう、僕の方。」


男はなにも疑うこともなく、ただただその遠回しな言い草の意味を手探りで掴み取るように、机の下を、相手を覗くように体を拗らせた。


最初は暗く、あまりはっきりと見えなかった。


ただじっと見続けると、テーブル下の暗さ以上に、際立って漆黒さを放つなにかをみつけた。


それは、見慣れているような気がして、思い出すように一層じっと見続けた。


─────あっ。

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