当事者の積極

 ちょうど今日が始まってから三十分を過ぎた頃だろうか、今年の初雪が記録されたズータウンに一人、無防備に体育座りをしながら睡魔と冷気に立ち向かう女がいた。そのさぞ勇敢な挑戦は、残念ながら防戦一方であったのだ。目は赤く充血し、腫れている。


「... 大丈夫ですか?」

男は声をかける。


「ほっといてください。」

女は俯いたままこもった声を発した。


男は唸る。さてどうしたものか。ズータウンの道端で一人座っている女が一時間もいれば、よくないことがおこる。それはもうすごくよくないことだ。具体的に言葉にするのも気が引けた男は柔らかく遠回しにそれを女に伝えようとする。しかし一言言いかけた段階で。


「やめて!」


今度ははっきりと言われた。ここまで言われて、彼女に構う理由はない。男は急ぎの用事があった。なおさら構っている時間などないのだ。しかし、ふとなぜか、この目の前にいる女だけはこのままにしておいては駄目な気がしたのだ。男はその勘に妙な説得感を感じた。初めてだった、男が意味もなく物事に固執してしまうのは。しかしだからこそ、興味があったのかもしれない。そして最後の手を、打つことに決めたのだ。そこにはもはや成功するかどうかについて論じるには心の余白があまりに狭く、気づけば男は女の隣に座っていた。そして軽く鼻から息を吸い、こう発した。


「That's life, that's what all the people say...」

声が震えてしまう。ビクッと女の肩が動く。


「You're ridin' high in April, shot down in May...」

喉を伸ばして歌う。それっぽい発音で、とにかく大きく。


「But I know I'm gonna change that tune...」

そして突如のことだった自分が声を出そうとした時、コンマ数秒前にテンポをずらして自分じゃない誰かが続いた。


「... When I'm back on top, back on top in June...」

隣の女だった。顔をあげて、正面を見続けたままだ。見事なネイティヴの発音に、さっきまでの自分が情けなく感じる。


「私も好きなんだ... それ... 」

そう言い終わると、上唇で下唇を隠すようにして、彼女はまた顔を下げた。


一瞬だったけれど、ふと見えた彼女のぽってりとした唇は、はにかんだ横顔と相まって僕の心のどこかにある引き金を弾いた。その時はただ、あれほど両親に厳しく習慣づけられてきた思慮深さは、忘れていて、ただ僕の本能の節々が叫びたがっているままに、声を当てることにしたんだ。


「Until now, I've been looking for you」


はっ、と気付かされたのは、道路で大きなクラクションがなってからだった。どれほどの時間が過ぎただろうか。五秒とも思えるし、一分ほどはこのままだったのかもしれない。意識が戻った時には、彼女が大きな瞳孔で大きく見開いたままこちらを見ていたことに気づいた。すぐさま目をそらす。一瞬ではあったが、すらっと長く、ミーヤキャットのように姿勢良くこちらをみていた気がする。それからも長い間こちらを見つめていたようだったから、とうとう僕は煮え切らなくなり、喉に大粒の唾液を流し込んだ。そしたら、いつのまにか、


「ねえ、あなた、タバコ吸う人?」

と、そう一言、脈絡もなくよこした。彼女はいつのまにか真っ直ぐ遠くを見つめたままで。


... すこし迷った後、僕は答えを決めた。


「吸う人。」


ゆっくりと横目で覗いた彼女の目は、さきほどのクリっとしたまんまるの瞳を隠してしまうように横に伸び、そして彼女の潤った唇は、微笑みが薄く引き伸ばしていた。宇宙から彼女を見つめる、もう一つの瞳は、彼女によく似合っていた。だけど彼女の細い目から垣間見える瞳というのは、僕をジッと覗いていたような気がする。

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