傍観者の惰性

 「おぉおおおお!」

日が姿をみせ始めた頃だろうか、社員たちの喉は大きな音を響かせた。これほどまでに結束力が発揮されたのは西不有新聞設立以来であろうか。当然と言えば当然なのかもしれない。彼らは不有設立以来、初のテロ事件の記事化に成功したのだから。

... 例の轟音が鳴り響いたあと、ズータウン中に光が灯った。ズータウンに生きる人間の習性というか、本能というか、そう言い訳できるくらいの動物的本質がズータウンに生ける怪物たちには宿っているのだ。それは好奇心と呼べば聞こえのいい、である。彼らの目に映っていたのは燃え盛る炎だった。それから五分も経たないうちに、およそ40年の歴史を持つ燃え盛る不有の歴史的建設物は一躍時の的となった。まるで蟻の大群かのように怪物たちは駆け寄り、消防隊員たち規制も虚しく、前へ前へと大衆は進んでゆく。


――しかし――


その軍的進行の秩序を乱す塊が現れたのだ。その塊は道路側から炎を取り囲む蟻たちを中心に切り込みをいれるようで、最短経路かつ止まる様子のない勢いで進む様子は、まるで彼自身が先日、本でちょうど学んだばかりの流体力学の空気の流れのようであったと、飯田は煙草をふかしながら思った。しかし勢いが収まるタバコの煙とは違い、蟻たちの勢いは燃え盛る炎の直前まで来ても止まる様子はない。とうとう最初の一人が建物に突入する、続いて二人、三人、数秒後には何十人もが姿を消していった。


... 飯田が鼻から三度ほど大量の煙を吐いていたころにも、まだ勢いは止まることを知らない様子だった。しかしそのまま見つめていると、今度はどんどんと人がでてくるではないか。しかし入ってきた時とは違う様子で。


「人を、背負っている...のか...?」


それからというもの突入体は何かを抱えていた。人を背負ってきてでてきたと思ったら、十人係で像を引きずり出すものもでてきた。


「これは幻か...いや夢か...?」

飯田もここで初めて自らの目を疑った。


しかし真実性のない光景でありつつも、ズータウンの異常さがそれとなく飯田の猜疑心を疑わせた。これは紛れもない真実であるのだ。そして時計の針が0時をさしたころだろうか、消防隊の迅速な対応により炎は消化された。しかし蟻たちはいまだに屯っている。特に先頭では記者たちが椅子やらなんやらを完備しているようだ。


火事を見かけた途端に家を開けたままにして走り去ったミゲルと、

「おまえはとりあえず残れ!」と、

彼の後を追うように走っていったアランの無責任な言動に応えるため、飯田は煩わしいハエの激突音を電気とともに消し、ソファで横になり、趣味であるテレビショッピングを徘徊しようとチャンネルを回し始めた。ちょうど全ての準備が整ったその瞬間に突如、


――ピリリリリ――


着信音が部屋中に鳴り響いた。せっかく整ったこの完璧なこの環境から抜け出したくない、そんな怠惰さに押されながらも、もし二人になにかあり、緊急の電話だとしたら友人として見捨てるわけにはいかない、と思いとどまり、彼は携帯を一番遠くにあるキッチンまで足を運んだ。靴下を履いてて心底良かったと、キッチンの床からじんわりと伝わる冷たさを噛み締めながら進んだ。


電話をとった。


――余談ではあるが、もしこのシーンが映像作品として取り上げられるとしたら、アランの「この時、僕は二つの事柄を学んだ。友達を想う優しさにつけこんだ神の残酷さを。」というナレーションともに彼が携帯を手にし、耳につけるところまでの過程が数カットに分けられた丁寧なスローモーションで映し出されるであろう。


彼の耳に侵入してきたのは、ミゲルの声でも、アランの声でもなく、


そう。

飯田が忌み嫌う編集長の声であった。

「えぇ、あー、飯田か。あーあのーまあとりあえず社まできてくれ。急ぎでだ。経費は落ちないが、とにかくタクシーでこい。とにかく早く来い。なぁに、夜食は奢るさ。はやく。じゃあ。」


「ピーっ、ピーっ、ピーっ...」


何もできない自分の虚しさとよくわからない淋しさとが、部屋中に響き渡る。それは時計の針が進む音の代わりとして申し分なかった。むしろ幾分か、増して辛辣に感じるようだった。

僕の上司は、タチが悪いのだ。夜食代でこちらの時間と気合と交通費と残業代を賄えると信じてやまない。そういう人間なのだ。ここで行かなければ、僕はこの街では生きていけなくなる。二年前、着実な出世を考慮すれば、新聞社への就職以外の選択肢はありえないものと切り捨てていたが、

あの頃マフィアや闇金になる覚悟ができていれば、中途半端な自分を変えていれれば、と思い返していると、なんだか心の奥底で沸々と、得体の知れない複雑な篭りがそこまで込み上がってくるのを感じた。実演販売員の言葉巧みさも、そしてもちろんのこと時計の進行音も、彼の耳は侵入を拒んでいる。正確に言えば脳が認知しようとしていないのかもしれない。それほど彼は余裕がなかったのだ。急いで扉を開け、三人で共有している緊急用の、玄関前のマット下の鍵を取り出し、部屋を閉め切り、鍵を元の場所に静かに戻す。電話するのも面倒なので、たまたま持ち合わせた油性ペンでドアに


「仕事、御免」


とだけ書き記し、その場を後にした。ちょうどエレベーターのドアがしまり、

油性と水性、どっちが落ちるんだっけ

と思いつつも、腕につけた古いアナログ時計を確認した。


いけないな。急がなきゃ。


まだ今日は、始まったばかりだ。綺麗な月明かりが、街にそう告げる。

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