有痛性
ここはズータウン。安全国日本に内在する唯一の危険区域、不有。世界中からの様々な宗教、文化が不安定な均衡を少数派の犠牲や妥協により保ち続けている街。そこにはいつテロや反乱が引き起こされてもおかしくはないはず。なのにも関わらずこの街はそのギリギリを昔から保ち続けている。それはこの街に不思議な魅力があるから。惰性でいいじゃないかと、この空気でいれば幸せじゃないかと。そう思わせてしまう魅力が散りばめられているわけだ。そうだな、例えば...
そう物語のあらすじみたいな切り出し方をできるのは、彼がベテランであり、もうすっかり慣れていることに起因しているのだろうか、そう思い、前と後ろの座席を遮断するガラス越しに見える彼のネームプレートに、いかにも日本人じみた名前の隣に「63」という数字が記載されていることに気がついた。
長いオープニングを遮るかのように、客はこう話し出す。
「失礼かも知れませんが、運転手さんはずっとここでタクシードライバーを?わざわざこんなところにいる年配の日本人の方はみんな社会的地位が高い仕事に就いてるようにに思えます。若い人なら、出稼ぎにきてる人はいるかもしれませんが... 」
そう流暢な日本語を使う韓国人女性はまだこの街の真髄を理解していないようだ。
... 運転手は重い口を開く。
「まあ、きっかけは...もう30年も前のことになるかな...ありきたりな話だけど、弟が金借りたいけど担保がないっていうから...保証人としてサインしちゃって...まあそれで弟は借金だけ残してトんじゃったわけだ。そしたら三百万限りのはずが膨れに膨れ上がってもう、億ですよ。億。こうしてる間にも利息は増してるわけで、きっと俺が死ぬまで働いてから、身体中の臓器売って、やっと返せる額だ。」
「そ、そんな... 警察は掛け合ってくれないんですか。」
「もちろん持ちかけたことだってある。有名な法律事務所も行ったさ。そうだなぁ。多分借りた先が悪かったんだな、名前出しただけで、どこも門前払いだったさ。」
「それって...どこなんです?」
遮るように運転手は言う「不有、不有金融さ。」
さらに続ける。
「ここから借りちまったら終わりだ。死ぬまで搾取されちまう。まあイリーガルたちからしたら理想の金貸しだろうが、俺ら素直な凡人からすれば悪意の塊、人情なんてひとっかけらも感じられねぇ悪魔だ。」
私は彼が発した「イリーガルたち」が何を指すのかなんとなく想像した。少し、同情してしまう。ふと視線をあげると、私の目の端がなにかを捉えた。体が飛び跳ねるように反応してしまう。そこには、バックミラー越しに目を細めて、頬に皺を寄せて、違和感を覚えさせるほど上がった口角の運転手が姿あったのだ。そこにはさきほどまで語っていた重い過去の面影がまるでない。
「でもなあ。俺はよ。この街がさぁ、大好きなんだ!この街。この街にゃぁよ、神様がいるんだ。その神様は俺たちをな。悪しき不有金融から救済してくださったんだなぁ。」
... 身体中の産毛が逆立つ。理不尽な嫌悪感が、私の脳に危険信号を送り続けている。バックミラー越しに見つめてくる運転手の顔。あの喋るたびに開く口の中に垣間見える唾液の粘膜は毒性をもっていて、あのほっそい目が大きく見開いた時にはきっと真っ黒に濁った瞳がこちらを睨むに違いない。
私の思いとは裏腹に運転手は続ける。
「俺がこの街にいるのはよ、もちろん借金を返すためでもあんだけどー... まあいろんなシステムっつぅか、そんなのが長い間戦いつつ、いろんなやつらが自分の権利主張したり、そんで結果妥協しあったり、そんな多忙さに身を置いてるのがきもちいんだ。世界中どこを探してもない、ここで一番最先端ででっけぇ葛藤が格闘してんだぜ。」
「でもここの不安定な均衡なら、いつ崩壊したっておかしくねえわけだ。じゃあなんで続くさね?偶然か?50年間も?んなわけねえ。無理がある。誰かがその均衡を保ち続けてるはずなんだ。」
なにがいいたい。言葉がでない。呼吸が仕方を忘れてしまうほど動揺してしまう。
「いるんだよ。」
なんなんだ。なんなんだ本当に。焦ったくて、火照るのは私の体だろうか。
「神様だ。神様がいるんだ。」
我慢の限界を迎えたコリアンガールは声を上げた。
「여기서 내릴게요!... あっ、あの、おっ、降りますッ!!」
彼女は運転手に金額を聞くこともなくクシャクシャな一万円札を取り出し、どこかに叩きつける。彼女はタクシーのドアが電動だと言うこともわすれ、貫く勢いでドアを蹴り開け、飛び出た脚ごと体をそとに放り出す。
それから、その直後のことだった。
どんっ!
どこからか爆発音のようななにかが街中に響いたのだった。大きな物体同士が激突したような、そんな音である。
路地裏で怪しげに屯していた、タンクトップを着たスキンヘッドたちに加え、
歩くことのみに意識を向ける如く、歩を進めていたサラリーマンも、
さきほどのタクシーでさえ、
皆、音の源へと集まっていった。
座り込んだ彼女は、唖然するよりもさきに、呆れた。
ズータウンという蔑称に由来しているのであろう彼らの行動が、人として、予想以上に予想以下だったことに対してである。動いていないのは、もはや彼女だけであった。この現象に対し気味の悪さ、というかなにか逸脱した雰囲気を感じるのは、この街に慣れていないだけなのだろうか。
コリアンガールは妙な淋しさと慣れへの嫌悪を覚え、その場に座り込み、黄昏始めたのだった。
「きれいだわ、はは」
月は私に熱い視線を向けているのかしら。彼女の無意識は懐かしさに微かな希望を見出すことができたのか、切なさがホロリと溢れ出てきてしまったのだった。
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